長編作が多いのでなかなか完走できません💦
なので、いつか観る時のために時代背景をまとめて残しておきます😅
はじめに
特に三国時代やそれ以前は、考古学的に検証された史実よりも、伝承や神話に基づく内容が中心で、確認できていない事柄や論争が多い
- 「三国史記」は、12世紀に高麗の金富軾(キム・ブシク)が編纂した朝鮮半島に現存する最古の歴史書(三国時代から統一新羅末期までを扱っている)
歴史的事実に基づく記録だけでなく、逸話や伝説も含まれている - 「三国遺事」は13世紀末の高麗の高僧「一然」が撰した私撰史書
「三国史記」に次ぐ古文献で朝鮮半島古代史の基本資料、史書としての問題点もある - 「花郎世記」は、風月主(花郎の首領)の歴史を記録した真偽論争のある史書
原本は散逸、1989年に筆写本が発見されたが、原本の存在や筆写本の出所に疑問
古朝鮮(紀元前?年 ~紀元前108年)と漢四郡(紀元前108年~313年)
- 「古朝鮮」は前漢の武帝による「漢四郡」設置以前(紀元前?年 – 紀元前108年)の「檀君朝鮮」「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」の三つを指す総称
「檀君王倹」が古朝鮮の創始者とされて紀元前2333年に即位したとされている - 「漢四郡」は、前漢の武帝が朝鮮半島の中・西北部に設置した「楽浪郡」「真番郡」「臨屯郡」「玄菟郡」の四つの郡の総称
313年に高句麗によって楽浪郡と帯方郡が滅ぼされ、中国の直接統治は終わる
三国時代(紀元前1世紀から7世紀)
紀元前1世紀からは、韓国の伝統的な視点に基づく神話や伝説に由来
- 高句麗:紀元前37年に朱蒙(東明聖王)によって漢から独立
高句麗の建国神話に基づくもの
*668年に唐と新羅の連合軍により滅亡 - 百済:紀元前18年に温祚王によって建国
温祚王は高句麗の朱蒙の子であると伝承されている
*660年に唐と新羅の連合軍により滅亡 - 新羅:紀元前57年に建国、朴赫居世(パクヒョッコセ)が初代王
新羅は漢から自治権を認められたと伝えられていますが、一部の史書に基づく伝承 - 伽耶:42年に建国、実際には1世紀から6世紀中頃にかけて存在した一連の小国の集まり
首露王(キム・スロ)は伽耶を形成する諸国家の一つである金官加羅の始祖で、紀元42年に王位についたとされる
*562年に新羅により滅亡
統一新羅(668年~900年)
- 676年: 新羅は唐の軍事的圧力に抵抗し、朝鮮半島中部以南から唐の勢力を排除
旧百済領全域の支配を確立 - 698年: 旧高句麗領に渤海が興り、東北アジアの権力バランスに変化が生じる
新羅は王権の弱体化や内乱により次第に衰退
後三国時代(892年~936年)
- 「後百済」は、新羅に不満を持った農民出身の甄萱(キョン・フォン)によって建国
新羅の南西部を支配、920年代には高麗とも戦争を始め、926年には新羅の景哀王を自殺に追い込み、高麗軍との戦いでは一時的に勝利を収める
しかし930年には高麗の反撃により大敗
甄萱(キョン・フォン)は自身の息子たちによって幽閉され、高麗に投降
甄萱は高麗で優遇されたので、後百済を滅ぼすために協力した
936年に後百済は滅亡、甄萱はその後すぐに死亡 - 「後高句麗」は、新羅王族出身で北方に勢力を持った弓裔(きゅうえい)によって建国され、後に王建(ワン・ゴン)が新たな国である高麗を樹立
- 「新羅」は、既存の王朝でありながらも内部の争いと弱体化により、次第にその勢力を後百済と後高句麗に奪われる
後三国時代は、王建(ワン・ゴン)の台頭により終焉を迎える
高麗王朝(918年〜1392年)
918年には王建(ワン・ゴン)が弓裔(きゅうえい)を追放し、高麗を建国
935年に新羅、936年には後百済を滅ぼし、朝鮮半島を再統ー
1392年に李成桂に滅ぼされ、李氏朝鮮が建国される
伽耶
金官国初代王:金首露(42年-199年)
金首露(キム・スロ)は、伝説の一部として158年間統治したとされています
妃はインド出身とされる許黄玉
鉄の王 キム・スロ
北方民族の長の妃チョンギョンは
後漢の追ってから逃れスロを産むが見失います
スロは鍛冶職人として成長
キム・スロの腹違いの弟イジンアシ・部族長シングィガン
野望を持つソク・タレ
との王位を巡る激しい争いに巻き込まれ
サロ国(新羅)の姫アヒョ
インドから来てスロを助けるファンオクとの恋
キム・スロの生涯を題材にしたドラマ
- パク・アヒョ:新羅第2代ナメ王の娘で朴赫居世(パク・ヒョッコセ)の孫という設定
- ホ・ファンオク:後にキム・スロの妃となる許黄玉がモデル
- ソク・タレ:後の新羅の第4代王がモデル
高句麗
初代:東明聖王(紀元前37年 – 紀元前19年)
朱蒙(チュモン)
高句麗を建国した英雄・朱蒙(チュモン)の生涯を描いたドラマ
ソソノ(召西奴)と出会いますが、ふたりはすれ違う運命…
朱蒙は、ユリを後継者に指名
ソソノは2人の息子とともに高句麗を後にする
- ソソノ(召西奴)とウテの息子
ピリュ(沸流)とオンジョ(温祚)
オンジョ(温祚)は百済の初代王 - チュモンとイェソヤの息子
ユリ
第2代:瑠璃明王(前19年 – 後18年)
第3代:大武神王(18年 – 44年)
風の国
第3代大武神王(ムヒュル)が主人公
ムヒュルは家族を殺す運命という神託により
王子である正体を知らず壁画師として育てられる
幻の王女チャミョンゴ
第3代ムヒュルの息子ホドン(好童)
楽浪国の王女「ラヒ」との説話をベースに
もう一人の楽浪国の王女「チャミョン」
ふたりの楽浪公主とホドンの悲恋の物語
説話:「楽浪公主と好童王子」
好童と楽浪公主の悲恋の物語
好童は、父大武神王の命令で、楽浪公主に楽浪国にある自然に鳴り危機を知らせる太鼓を破壊させた
それが原因で楽浪国は高句麗に征服され、公主は処刑、好童は自殺しました
第19代:広開土王(374年 – 412年)
広開土王は高句麗を衰退から回復させ、国の領土を大きく拡張した王
1880年に発見された好太王碑は
息子の第20代:長寿王(413年 – 491年)が建立したもので
高句麗の歴史や古代の日朝関係について貴重な情報を提供している
広開土太王
第2王子タムドク(後の広開土太王)が主人公の歴史ドラマ
太王四神記
宿命の星の下に生まれたタムドク(後の広開土太王)が
広開土王となっていく姿を描くファンタジー時代劇
第25代:平原王(559年 – 590年)
平原王は中国の各朝(北斉、北周、陳)に朝貢
581年に隋が成立すると、隋からも冊封を受け中国と良好な関係を保っていたが
589年に隋が中国を統一した後は関係が緊張状態になり…
王女ピョンガン 月が浮かぶ川
平原王の王女ピョンガン(平岡公主)と
将軍オンダルの純愛を描いたドラマ
マイ・オンリー・ラブソング
超わがまま女優ソン・スジョンが
ピョンガン姫役で時代劇の撮影中に
高句麗時代にタイムスリップしてオンダルと出会う物語
説話:「ピョンガン王女とバカのオンダル」
「泣き虫のピョンガン姫」は父平原王に「泣いてばかりいると馬鹿なオンダルの嫁にするぞ」と叱られていました
ピョンガン姫は周囲の反対を押し切り、本当に「まぬけなオンダル」の嫁に
ピョンガン姫はオンダルを励まし、武術を教えます
やがてオンダルは、優秀な武将に成長するのですが、最期は戦で命を落としてしまうという話
第26代:嬰陽王(590年 – 618年)の時代
「隋」は598年から614年にかけて4回にわたり高句麗に侵攻
いずれも失敗
618年滅亡して「唐」に
第27代: 栄留王(618年 – 642年)
栄留王は唐との和平を目指してましたが、新羅に領土を奪われ、最終的に淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)によるクーデターで殺害された
*淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)は、高麗末期の宰相、強硬な対外政策を推進
唐の侵攻を数回にわたって防いだことで知られている
剣と花
栄留王の娘ソヒ王女
敵対する淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の庶子ヨン・チュン
恋に落ちた二人の葛藤を描いたドラマ
第28代:宝蔵王(642年 – 668年)
唐の高句麗(朝鮮半島)出兵
- 第1次侵攻(645年)
安市城包囲戦では、唐の第2代皇帝太宗(李世民)が自ら遠征、約3か月にわたって戦闘が行われる
高句麗軍が城を固守し唐軍は撤退
*太宗(李世民)は5年後の649年に崩御、高宗が即位 - 第2次侵攻(661年)
百済が滅ぼされた後、唐は新羅と連合したが、この時も高句麗は唐軍の侵攻を撃退、唐は撤退 - 第3次侵攻(667-668年)
唐軍と新羅軍が再度侵攻
高句麗の首都平壌が陥落し高句麗は滅亡
*666年に淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)死去、後継者争いが発生していた - 唐・新羅戦争(671年-676年)
新羅が反旗を翻し、唐は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされた
余談:高宗は皇后武則天(則天武后)に実権を握られ続けた
映画「安市城 グレート・バトル」
645年の安市城の戦いを描いています
唐の皇帝・太宗(李世民)は、自ら大軍を率いて高句麗に侵攻
安市城の城主「ヤン・マンチュン」は、たった5000人の兵を率い、
孤立無援の戦いを挑むことを決意
百済
第13代:近肖古王(346年 – 375年)
百済の全盛期を築いた王
371年には高句麗へ攻め込み、高句麗第16代故国原王を戦死させた
近肖古王(クンチョゴワン)
第11代比流王の王子で
百済の全盛期を築いたヨ・グ(後の第13代近肖古王)
の生涯を描いたドラマ
第25代:武寧王(502年 – 523年)
武寧王は混乱した百済を安定させた王
父親についてはさまざまな説があり、「三国史記」では第24代東城王の次男、「日本書紀」では第21代蓋鹵王の子とされている
余談
武寧王は佐賀県唐津市で生まれたと伝えられ、また「続日本紀」によれば、桓武天皇の母親である高野新笠の先祖であるともされています
百済の混乱
第21代:蓋鹵王(455年 – 475年)は高句麗の長寿王(広開土王の息子)に殺され、都を奪われる
息子の第22代:文周王(475年 - 477年)が生き延びて百済を再建
文周王が暗殺され
第23代:三斤王(477年-479年)は在位3年で亡くなり
人質として日本に滞在していた文周王の甥
第24代:東城王(479年 – 501年)が即位
東城王は重臣のペク・カに暗殺され武寧王が即位
帝王の娘スベクヒャン
武寧王の隠し子という設定のスベクヒャン
スベクヒャンの異父妹ソルヒが王女の地位を奪いますが、
父や百済のために諜報組織ピムンを導いていくというフィクション
第26代:聖王(523年 – 554年)
武寧王の子
聖王は554年、伽耶と連合して新羅を攻撃するが、戦いの最中に戦死
*その時の新羅の王はドラマ「花郎〈ファラン〉」のジディ(第24代眞興王)です
*ドラマ「薯童謠ソドンヨ」でプヨ・ソンが取り戻したのは聖王の首です
余談:日本の仏教は、聖王が日本に仏像や経典を贈ったことが始まりだそうです
第30代:武王(600年 – 641年)
史実の武王は隋や唐との関係を築き高句麗を牽制
高句麗と和親を結び、新羅をたびたび攻撃した
薯童謠ソドンヨ
百済の武王と新羅の姫との恋の説話
「薯童説話」をモチーフに
平民として育てられた主人公のチャン(百済の第30代武王)と
新羅第26代真平王の第3王女・ソンファ(善花)公主との
純愛と、国王になるための試練を描いたドラマ
説話:「薯童説話(第30代王武王についての逸話)」
武王の母は龍との間に武王を産み、彼は幼少期に「薯童(芋を売る子供)」と呼ばれていました
新羅の第3王女、ソンファ姫に心を奪われ「薯童謡(ソンファ姫との恋物語を歌った民謡)」で彼女の注意を引き、やがて二人は百済で結ばれます
後に百済の王となった薯童とソンファ姫は、弥勒寺(百済最大の寺院)を建立し、その寺は今も残っています
- ウィドク王:第27代:威徳王(554年 – 598年)
聖王の長子
*ちなみにドラマ「花郎〈ファラン〉」に登場する百済の昌王子です - プヨ・ゲ:第28代:恵王(598年 – 599年)
聖王の次男 - プヨ・ソン:第29代:法王(599年 – 600年)
恵王の長男 - 阿佐太子:6世紀末から7世紀前半頃の百済の王族出身の画家
聖徳太子の肖像画を描いたとされている
第31代:義慈王(641年 – 660年)
百済最後の王
第30代武王の嫡男
母は新羅の真平王の娘・ソンファ(善花)公主らしい
階伯<ケベク>
新羅の「キム・ユシン」と死闘を繰り広げ
国を守るために最期まで戦った百済の英雄
「ケベク将軍」の波乱に満ちた人生を描いたドラマ
階伯(613年 – 660年)は、百済滅ぼされる過程で、最後の激戦を繰り広げた英雄
660年の「黄山伐の戦い」で
5000人の兵を率いて黄山で5万人の新羅軍を迎え撃ち、4度の勝利のあと戦死
*階伯は、後顧の憂いを断ち切り、自身と部下たちの決意を固めるため
妻子を殺害してから出陣したとされています
映画「黄山ヶ原(ファンサルボル)」
黄山伐(ファンサンボル)の戦いを題材にした
コメディ映画
白村江の戦い
663年、倭(日本:飛鳥時代)と滅亡後の百済遺民が復興を目指して、唐・新羅連合軍と戦いましたが敗北
新羅
第24代:眞興王(540年 – 576年)
父は第23代法興王の弟、母は法興王の娘(叔父と姪の間にできた子)
百済や高句麗との戦争を通じて新羅の領土を大きく広げ
562年に伽耶を滅ぼした
花郎〈ファラン〉
ジディ(真興王)は、母(只召太后)の命により
「顔無き王」として隠くれて生きています
「顔無き王(ジディ)」を見たマンムンが殺され
ムミョンは親友マンムンの実名「ソヌ」と名乗り
マンムンの妹「アロ」を守り復讐を誓います
ジディとムミョンは異なる目的で「花郎」に入隊
対立を乗り越え絆を深めていきます
花郎は、新羅に実在した貴族の子弟の青年団体
真興王の時代に制定されたことが 「三国史記」に記されている
- 只召太后:第23代法興王の娘で第24代眞興王の母
法興王の弟(叔父)と結婚し真興王を出産、法興が崩御すると7歳で即位した息子(真興王)の代わりに551年頃まで摂政として実権を握る - ウルク(于勒):6世紀の大伽耶国出身の楽師で、伽耶琴の生みの親として知られ、真興王による伽耶の併合後、国原(忠州)に移住し、琴・歌・舞を教えた
*ドラマではムミョンの養父として登場している - 叔明公主:「花郎世記」にのみ登場する人物
只召太后(チソ太后)の娘で、真興王とは異父兄妹
真興王の妃になりますが、別の人物と再婚しています
新羅と百済の同盟と破綻
- 第1次羅済同盟(366年 – 4世紀末)
371年には、百済の近肖古王が高句麗の故国原王を戦死させるなどの戦果を挙げたが
4世紀末には、新羅が高句麗に接近し同盟は破綻 - 第2次羅済同盟(433年 – 553年)
551年百済の聖王は百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した
しかし553年新羅の真興王が漢江流域を奪い、554年に聖王は戦死
百済と新羅は敵対関係に転じる
その後、642年百済の義慈王は、高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)と同盟を結び、新羅の善徳女王から領土を奪った
第27代:善徳女王(632年 – 647年)
632年、父第26代真平王が亡くなり男子がいなかったため、呪術的な資質が評価され即位
百済や高句麗の攻撃を退けていたが
642年に百済、高句麗の連合軍に領土を奪われる
643年、唐に援軍を求めたが、女王を廃して新王を立てるよう要求され
647年、宰相ピダム(毗曇)が女王の廃位を求め内乱が起こり
キム・ユシン(金庾信)らが乱の収拾したが、ピダムの乱の翌日に陣中で亡くなる
第24代真興王以降、統一新羅までの王
- 第25代:真智王(576年-579年)
第24代真興王の次男
*「三国遺事」では廃位されたとも記され、後継の真平王即位の事情は不明 - 第26代:真平王(579年 – 632年)
第24代真興王の孫、第26代真智王は叔父- 長女(次女かも):天明(チョンミョン)公主
*第29代国武烈王の母 - 次女(長女かも):徳曼(トンマン)公主
第27代善徳女王 - 三女:善花(ソンファ)公主
*「三国遺事」に百済第30代武王の王妃三国遺事に記載されている
*ドラマ「薯童謠ソドンヨ」は百済の武王と善花(ソンファ)公主の話
- 長女(次女かも):天明(チョンミョン)公主
- 第28代:真徳女王(647年 – 654年)
第26代真平王の弟国飯(ククパン)葛文王の娘(善徳女王の従姉妹) - 第29代:武烈王(654年 – 661年)
父は第25代真智王の子金龍春(キム・ヨンチュン)
*実父は金龍春の兄の金龍樹
母は第26代真平王の娘、天明(チョンミョン)公主 - 第30代:文武王(661年 – 681年)
武烈王の長男
660年百済をし、668年高句麗を滅ぼし朝鮮半島の統一を果たす
*673年7月1日にキム・ユシン死去
676年唐の勢力を半島から駆逐した
*681年に死去、新羅初の火葬された王
善徳女王
朝鮮半島初の女帝となったトンマン公主
第27代善徳女王の生涯を描いたドラマ
ミシル(美室)は「花郎世記」にのみ登場する人物
歴代王妃を輩出した一族に生まれ
花郎の最高指揮者「源花」の地位にあり、権力を持っていた
夫(世宗公)以外にも、真興王、真智王、真平王など複数の王と色事があった
真智王の廃位を主導した
第29代:武烈王(654年 – 661年)
武烈王は、661年高句麗出兵(第2次侵攻)の際に陣中で病死
大王の夢〜王たちの戦争〜
三韓統一を夢見て
新羅の礎を築いたキム・チュンチュ(後の武烈王)と
武将キム・ユシンの友情と野望を描いたドラマ
キム・ユシンは、新羅の三国統一を成し遂げた中心人物で有名な将軍
父は伽耶王家の血を引きキム・スロ(首露王)の後裔らしい
母は第24代眞興王の姪
妹が武烈王に嫁い(姉も武烈王に嫁いでいる)で、妹の長男(甥)が第30代文武王
*妹の三女(姪)とは婚姻!!!!
ピダムの乱の際、真徳女王を立て
真徳女王が死ぬとキム・チュンチュ(武烈王)を即位させた
660年、唐と連合して百済を滅ぼした
663年、倭と百済残党を白村江の戦いで排除した
668年、唐の高句麗出兵(第3次侵攻)に参加、高句麗を滅ぼす
*高句麗のヨンゲソムンはこの時はすでに死去
673年7月1日に79歳で死去
渤海
渤海(698年~926年)について
「渤海」は朝鮮半島北部と満州地域にまたがり新しく建国された国家
高句麗の継承国家ではないが
高句麗の滅亡後に建国され、高句麗の影響を強く受けた国
698年に大祚栄により建国
926年に契丹(キタン)族に滅ぼされる
初代: 大祚栄(698年 – 719年)
*大祚栄の出自については様々な解釈があるようです
大祚榮(テジョヨン)
渤海を建国した大祚栄を描いたドラマ