はじめに
天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介
▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある
▲ 📚「異伝」について本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)
▲📍:地名などの由来
▲ 📘『百済三書』逸文
『百済三書』は『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書の総称(百済の歴史を記録した歴史書)
→ 現存せず、逸文が『日本書紀』にのみ引用されて残されている
→ 後世の言葉や潤色が見られ『日本書紀』用の捏造とも考えられるが、実際に書かれた歴史書とみなすのが妥当とされている
→ 『百済記』5か所・『百済新撰』3か所・『百済本記』 18か所
▲ 📘『三国史記』
成立年:1145 年、高麗王朝(新羅が朝鮮半島を統一したあとの国)
内容:三国時代(高句麗・百済・新羅)の王系と年表を、漢文編年体で整理
編者:新羅系儒学官僚 金富軾(キム・プシク)
特色:新羅びき・儒教色が濃く、神話や仏教説話は抑えめ
位置づけ:現存する最古の朝鮮正史
神功皇后の基本情報
仲哀天皇が亡くなったあと、息子・応神天皇が幼かったため、摂政に就任
在位期間 | 201年~269年(享年100歳) |
皇居 | 磐余若桜宮(いわれのわかざくらのみや:奈良県桜井市) |
陵 | 狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ:奈良市:五社神古墳) |
和風諡号 | 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) |
父 | ✅息長宿禰王(おきながのすくねのみこ) |
母 | ✅葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ) |
系譜(特記事項) | 子:誉田別尊(ほむたわけのみこと:応神天皇) 『古事記』では子は2人 ▲兄:品夜和気(ほんやわけ:誉屋別) ▲弟:品陀和気(ほむだわけ:誉田別:応神天皇) |
神功皇后の系譜
✅ 父:息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)は、第9代開化天皇の玄孫
彦坐王(父:開化天皇・母・姥津媛-和珥氏系の妃)
└ 山代之大筒木真若王(父:彦坐王・母:姥津媛の妹)
└ 迦邇米雷王(父:山代之大筒木真若王・母:丹波能阿治佐波毘売)
└ 息長宿禰王(父:迦邇米雷王・母:高材比売)
🔍 ひとこと:息長氏について
息長氏は、琵琶湖東岸の水運と北陸ルート(気比(けひ:福井県敦賀市))を押さえ、鉄・馬・船を武器にヤマト王権と早期に結びついた豪族
神功皇后・継体天皇の外戚(継体天皇の母・振媛は息長氏の娘)
6世紀前半には中央政治で大きな発言力を持ったが、飛鳥末期には表舞台から退いた
✅ 母:葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)は、先祖に天日槍(アメノヒボコ:新羅の王子)
・・・葛城高顙媛の父:多遅摩比多訶
・・・葛城高顙媛の母:菅竈由良度(多遅摩比多訶の姪で、清彦の娘)
多遅摩母呂須玖(父:アメノヒボコ・母・前津見)
└ 多遅摩斐泥
└ 多遅摩比那良岐
└ 多遅摩比多訶・清彦
└ 菅竈由良度
息長宿禰王と葛城高顙媛(神功皇后の両親)の系譜の多くは、『日本書紀』には記載されていない
🔍 ひとこと:アメノヒボコ(天日槍)は、新羅の王子で、但馬を開拓した「渡来・製鉄・開拓」の神
→ 妻:麻拕能烏(またのお:麻多烏(またお))は、但馬の国の前津耳(まえつみみ:📚「異伝」前津見(まえつみ)・太耳(ふとみみ))の娘
→ 子孫:諸助(もろすけ)→ 日楢杵(ひならぎ)→ 清彦(きよひこ)→ 田道間守(たじまもり)
→ 『古事記』の妻
・・・阿加流比売神(アメノヒボコの最初の妻)が、日本の難波にわたり、比売語曽社の神になった
・・・アメノヒボコは、阿加流比売神を追って来日するも、難波に入れずに但馬に滞在
・・・そこで前津見(但馬の豪族の娘)と結婚
・・・▲『日本書紀』では
・・・比売語曽社の神は童女(名前はない)
・・・童女を追って来日するのは都怒我阿羅斯等(大伽耶の王子)
垂仁天皇の段で、アメノヒボコ本人・清彦(曾孫)・田道間守(玄孫)が登場する矛盾❗️
🔍 ひとこと:ちょっと気になる新羅との関係
瓠公(ココウ) 新羅の3王統(朴・昔・金)の始祖の全てに関わる建国時の重臣 | もとは倭人とされる 名前は、瓠を腰に下げて海を渡ってきたことに由来 金氏王統の始祖:金 閼智(きんあっち)は、瓠公が持ち帰った金色の小箱に入っていた男の子 |
脱解(タルヘ) 新羅第4代王で、昔氏の始祖 | 船で新羅に渡来して王位に就いた人物 多婆那国で誕生 多婆那国 = 丹波国、但馬国という説もある |
神功皇后 | 母方の祖先はアメノヒボコ(新羅の王子) アメノヒボコは但馬国に根を下ろしたとされる |
スサノオ | 本文では、直接出雲に降臨 📚「異伝」では、新羅を経由して出雲に降臨 |
神功皇后の事績
摂政就任の前(新羅侵攻)
🌟 仲哀天皇9年2月:仲哀天皇は、筑紫の橿日宮(かしひのみや)で崩御
🌟 仲哀天皇9年3月:皇后は、神の祟りを鎮めるために、小山田邑(おやまだむら)に斎宮(いわいのみや:神を祀る宮)を建てた
→ 斎宮で神に祈り、武内宿禰(たけしうちのすくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を審神者(さにわ:神託を解釈し伝える役割)に立て、神の名前を問うと
→ 7日7夜後に答えを得て、これらの神を祀った
ーーー
▲撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
→ 伊勢国・度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に坐す神
▲尾田(おだ)の吾田節(あがたぶし)の淡郡(あわのこおり)にいる神
→ 名前は明かされず、すすきの穂のように姿を現した神
▲天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)
▲表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)
→ 日向国・橘小門(たちばなのおど)の水底に坐す神
ーーー
→ 鴨別(かものわけ:吉備臣の祖)を熊襲討伐に派遣、熊襲は服属
→ 荷持田村(のとりたふれ:福岡県朝倉市甘木大字野鳥?)に、羽白熊鷲(はしろくまわし)という翼をもつ者が、民から略奪をしていた
→ 羽白熊鷲(はしろくまわし)を討つために、筑紫の橿日宮(かしひのみや)から松峡(まつおのみや)移動した時に飄風(つむじかぜ)が起こり、皇后の御笠(みかさ)が飛ばされた
・・・📍御笠(みかさ:御笠郡(みかさぐん:筑前国にあった郡))と名付けた
→ 層増岐野(そそきの)に到着、羽白熊鷲(はしろくまわし)を討伐
・・・📍安(やす:夜須郡(やすぐん:筑前国にあった郡)):皇后が「羽白熊鷲を討ち、心が安らいだ」と語った
→ 山門県(やまとあがた:福岡県みやま市周辺)へ到着、田油津媛(たぶらつひめ:土蜘蛛の女首)を誅殺、 兄の夏羽(なつは)は、妹の死を知ると逃亡
🌟 仲哀天皇9年4月:火前国(ひのみちのくに:肥前国)の松浦県(まつらのあがた)到着
→ 玉嶋里(たましまのさと)の小河のほとりで食事
→ 皇后は「財の国に行けるなら魚が針を飲め」と釣りで占いをし、細鱗魚(あゆ:鮎)が釣れたことを「珍しい(梅豆邏志:めずらし)」と喜んだ
→ 松浦の女性は4月上旬になるとアユ釣りを行い、男性は釣れない
・・・📍松浦(まつら):梅豆羅国(めずらのくに)と呼ばれるようになり、それが訛った
・・・魏志倭人伝に登場する末盧国(まつらこく)と同一視されることが多い(佐賀県唐津市周辺)
→ 皇后は、天神地祇(あまつかみ・くにつかみ)を祀って西方を討つ決意を固めた
→ 儺の河(なのかわ:那珂川?)の水を引いて神田(みとしろ:神に捧げる米を作るための田)を作ろうとしたが、迹驚岡(とどろきのおか)で大きな岩に阻まれた
→ 武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに祈ると雷が落ち、岩が割れて水が通った
・・・📍裂田溝(さくたのうなで)と呼ばれるようになった
・・・遺構は実在、前期ヤマト政権より前に原形があり、その後も手が入ったと考えられる
・・・『日本書紀』は古くから知られていた水路を物語化したのでは🤔
→ 皇后は、橿日浦(かしひのうら)で海水で髪を洗い、「神のしるしがあれば髪が分かれる」と祈ると、髪が二つに分かれた
→ 髪を鬟(みずら:両耳のあたりで輪に束ねた男子の髪型)にして戦う決意を語り、群臣もこれに従った
🌟 仲哀天皇9年9月:皇后は、船舶と兵士を集めさせましたが、兵士を集めるのが困難だった
→ 大三輪社(おおみわのやしろ)を建て刀と矛を奉納すると、兵士が集まった
・・・現地では後に大己貴神社(おおなむちじんじゃ) として定着
→ 国があるか確認するため
▲吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ: 阿曇氏系?)を派遣するが、国は見えず
▲磯鹿海人草(しかのあまのくさ:志賀海人(しかのあま)系?)を派遣すると「西北の空に雲を帯びた山が見え、国があると思われます」と報告
→ 皇后は、吉日を占い出発を決め、斧・鉞(おの・まさかり)を手に取って軍に「私欲に走るな、敵を侮るな、降伏者や婦女に乱暴するな。勝てば賞、逃げれば罰」と命じた
→ 神から「和魂(にぎみたま)は皇后の寿命を守り、荒魂(あらみたま)は軍船を導く」と教えをうけた
→ 皇后は、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を神主に任命
→ 皇后は、出産の月を迎えており、石を腰に挟んで「帰国した日にここで産まれますように」と祈り、この石は伊都県(いとのあがた)の道端に残っている
・・・鎮懐石(ちんかいせき:福岡県糸島市にある鎮懐石八幡宮に祀られている)
🌟 仲哀天皇9年10月: 和珥津(わにのつ:対馬上県郡の鰐浦) から、新羅征伐のため出航
→ 風と波と大魚の助けで、あっという間に新羅に到着した
→ 新羅の王は、神がかりのような日本軍の出現を目にして恐れ「東の方に神の国があると聞いている。日本(やまと)といい、天皇(すめらみこと)という聖王がいる。勝てるはずがない」と戦わずに降伏した
→ 新羅の王は、「飼部(みまかい:馬役所)」として奉仕」・「春秋ごとに馬具(馬梳・馬鞭)の献上」・「毎年男女の労働者の献上」を約束、「太陽は西から昇らない、川の石は星にならない(自然の法則に逆らえない)、もし日本への朝貢を怠れば、神々が我々を討つだろう」と誓った
→ 新羅王を殺す声が上がったが、皇后はそれを拒否
→ 新羅に入り財宝や地図・戸籍を手に入れ、王の門に自分の矛を立てた
→ 新羅王・波沙寐錦(はさむきむ)は、人質として✅微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を差し出し、金・銀・彩色(染めた工芸品)・綾(綾織の絹)・羅(薄い絹)・縑絹(細かく硬く縫った絹)を八十艘(たくさんの)船に載せて献上した
→ 新羅王が、毎年八十船に貢物を載せて献上する起源
→ 高麗(こま)と百済(くだら)の王も、新羅が日本に降伏したと知り、「今後は西蕃(にしのとなり:西の属国)として絶えず朝貢する」と服属を誓った
→ 天皇の内官家屯倉(うちつみやけ:直轄領)が設けられた(三韓の由来)
→ 皇后は、新羅から帰還した
🔍 ひとこと:馬の伝来について
考古学的には国内最古の馬の痕跡は4世紀末の山梨・塩部遺跡の馬歯で、5世紀には伽耶・百済系の馬具が各地古墳に急増
したがって、馬の本格伝来は 伽耶・百済経由が主ルートと考えられ、新羅からは5世紀後半以降に良馬・馬具が追加されたというのが現在の定説
🔍 ひとこと:日本書紀に現れる新羅の王「波沙寐錦」
新羅5代婆娑尼師今(パサ王)と同一人物として書いたと考えられるが、年代が100年程度食い違うため、王名だけを借用した脚色と考えられる
📘『三国史記』によると、婆娑尼師今の在位:80 〜112 年
父:第3代儒理尼師今・兄:第4代脱解尼師今
🌟 仲哀天皇9年12月:筑紫で誉田天皇(ほむたのすめらみこと)が生まれた
・・・📍宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町):生まれた場所
・・・応神天皇の段では、筑紫の蚊田(かだ)で生まれましたとある
📚「異伝」
▲神が、内避高国避高松屋種(うちつひこくにつひこまつやたね:沙麼縣主の祖)に憑依して、皇后に琴を弾かせたら、皇后に憑依した
→ 仲哀天皇の段での記述では、神は直接皇后に憑依
▲ 名乗った神名
→ 表筒雄・中筒雄・底筒雄・向匱男聞襲大歷五御魂速狹騰尊(むかひつおもそほふいつのみたまはやさのぼりのみこと)
▲新羅王の名は、宇流助富利智干(うるそほりちか)で、内官家(うちつみやけ:南朝鮮に領有した直轄領)として永く朝貢すると誓って降伏した
📚「異伝」
新羅王は、敗れて捕まり、ひざの骨を抜かれて殺され、埋められた
→ 宰(みこともち:新羅の日本の使臣) が残された
→ 新羅の王妃は、宰を誘惑して新羅王の埋められた場所を聞き出し、殺した
→ 王妃は、宰の遺体は墓穴の底に埋め、その上に王の棺を納め、「尊い者は上、卑しい者は下」と語った
→ 天皇は、怒って大軍を派遣しようとしますが、新羅の人々は王妃を殺して許しを乞うた
🔍 ひとこと:宇流助富利智干と昔于老(せきうろう:将軍・第10代奈解尼師今の長子)
→ 名前の音・地位・時期・そして倭と関連した死という要素が重なる
📚「異伝」に登場する新羅王:宇流助富利智干=昔于老(せきうろう)と見る説がある
📘『三国史記』では「昔于老(せきうろう)が、宴会の場で倭王と王妃を侮辱したために倭人に焼き殺された。その後、昔于老の妻が倭の使者を焼き殺したことが原因で、倭人は新羅の首都を攻撃、倭人勝てずに引き揚げた」とある(昔于老は、253年頃死去)
・・・倭と新羅の3〜4世紀の対立・往来は裏づける証拠は、文献・考古学ともに複数存在
・・・なにかしら伝承で伝わる共通モチーフは存在したのでは❓🤔
🌟 征討に従った表筒男・中筒男・底筒男の三筒男神は、皇后に三神の荒魂を穴門(あなと:長門)の山田邑に祀るよう告げた
→ 踐立(ほむたち:穴門直の祖)と田裳見宿禰(たもみのすくね:津守連の祖)の助言により
→ 皇后は、踐立(ほむたち:穴門直の祖)を神主に任命し、穴門の山田邑に祠を建てた
🔍 ひとこと:住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)について
住吉三神は、海の守り神、荒魂は西の長門、和魂は東の摂津に祀られ、関門海峡(西の入口)と難波津(東の出口)に住吉三神の社を配する瀬戸内航路の安全網を形成
▲誕生:イザナギが黄泉がえりのみそぎをしたとき、海中から生まれた三柱(底筒男命・中筒男命・表筒男命)で、三柱あわせて住吉三神(航海安全と水運の守護神)
▲東の鎮座:荒魂(あらみたま):長門・山田の長門住吉神社〈祭祀氏族:穴門直〉
▲西の鎮座:和魂(にぎみたま):摂津・住吉の住吉大社〈祭祀氏族:津守連〉
摂政就任の前(麛坂王と忍熊王の挙兵)
🌟 仲哀天皇10年2月:皇后は、穴門豊浦宮へ移動、仲哀天皇の遺骸をとりおさめて大和への帰還を開始
・・・仲哀天皇の段での記述で、遺体は武内宿禰が穴門へ運び、豊浦宮で无火殯斂(ほなしあがり:死を隠すため灯火をたかない殯(もがり))をした
→ 仲哀天皇の皇子である、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は共謀
→ 陵墓を造るふりをして播磨へ、赤石(あかし)を拠点に淡路島から石を運び、偽装工作しつつ戦の準備
→ 倉見別(くらみわけ:犬上君の祖)と五十狹茅宿禰(いさちのすくね:吉師の祖)は麛坂王(かごさかのみこ)に付き、将軍として東国の兵を起こした
→ 麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、菟餓野(とがの:大阪市北区兎我野町周辺)で祈狩(うけいが:狩りで勝ち負けを占う)をすると、赤いイノシシが現れ、麛坂王(かごさかのみこ)を食い殺した
→ 忍熊王(おしくまのみこ)は、これを不吉な前兆と軍を退却し、住吉(すみのえ)に駐屯
→ 皇后は、忍熊王(おしくまのみこ)の動きを知り、迂回して紀伊水門(きのみなと)から難波をめざしたが、進めなかったので、務古水門(むこのみなと:武庫川河口付近)にもどって占い、これらの神を祀った
ーーーー
▲天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒魂は、 広田国(ひろたのくに:広田神社:西宮市)に
→ 葉山媛(はやまひめ:山背根子(やましろのねこ)の娘)に祭らせた
▲稚日女尊(わかひるめのみこと)は、活田長峽国(いくたのながおのくに:生田神社:神戸市中央区)に
→ 五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に祭らせた
▲事代主尊(ことしろぬしのみこと)は、 長田国(ながたのくに:長田神社:神戸市長田区)に
→ 長媛(ながひめ:葉山媛(はやまひめ)の妹)に祭らせた
▲底筒男・中筒男・表筒男の和魂は、大津の渟中倉の長峽(おおつのぬなくらのながお:大阪市住吉区説が有力)に
・・・神戸市東灘区の本住吉神社とする説もある
ーーーー
→ 船が動き出し、皇后は無事に紀伊へ
→ 忍熊王(おしくまのみこ)は菟道(うじ:山城国宇治郡:宇治市)へ退き
→ 皇后は、日高(ひだか:和歌山県日高郡)で)で太子(のちの応神天皇)と再会し、小竹宮(しののみや)へ
→ 昼が夜のように暗く、多くの日が経った(その現象を「常夜(とこやみ)行く」と言った)
→ 皇后が、豊耳(とよみみ:紀直の祖)に原因を尋ねて、その人が言うには「 阿豆那比(あずなひ)の罪といい、小竹祝と天野祝という二人の祝(はふり:神官)が、親しい間柄であったために、一緒に葬られたことが原因でしょう」
・・・阿豆那比(あずなひ)の罪:血縁関係のない二人の男性を一緒に葬ったことによる禁忌
→ それぞれ違う所に埋めると、光が照って、日と夜が別れた
🌟 仲哀天皇10年3月:武内宿禰と武振熊(たけふるくま:和珥臣の祖)に命じて、忍熊王(おしくまのみこ)討伐のため、数万の兵を率いて出陣
→ 山背(やましろ)の菟道(うじ)へ進軍し、川の北側に布陣
→ 忍熊王の先鋒の熊之凝(くまのこり:葛野城首の祖:📚「異伝」多吳吉師の遠祖)が兵たちを鼓舞するために、敵将・武内宿禰(たけうちのすくね)を挑発する歌を詠んだ
→ 武内宿禰は「和睦」を持ちかけ、互いに武器を捨てるよう提案
→ 忍熊王軍が信じて武器を川に捨てたところで、隠し持った弦と刀を使って攻撃した
→ 忍熊王は「やられた、武器がもうない」と倉見別(くらみわけ:犬上君の祖)と五十狹茅宿禰(いさちのすくね:吉師の祖)に告げ、軍を退却させた
→ 武内宿禰は、精鋭兵で追撃し、近江の逢坂で追いついて撃破
・・・📍逢坂(おうさか)という地名の由来
→ 狭浪の栗林(ささなみのくるす:滋賀県大津市膳所周辺)で多くの兵が討たれ、血で林が染まった
・・・📍今もその栗林の木の実は御所に献上されない
→ 忍熊王は、五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に「敵に槌で頭を割られて死ぬくらいなら、自ら水に潜って死のう」別れの歌を詠み、二人は瀬田の済(わたり:渡し場)で飛び込み自殺した
→ 二人の屍(かばね:死体)は見つからず、日にちが経って菟道河(うぢがは:宇治川)で発見された
🔍 ひとこと:五十狹茅宿禰(いさちのすくね)について
生田神社を創建したと伝わる祭主である一方、後年には忍熊王側の将として武内宿禰に敗れ、瀬田川で自殺という、二重伝承の人物
同一人物なのか同名別人なのか定説もなさそう(別の伝承が併存した結果かな❓🤔)
摂政就任の後
🌟 太歲辛巳年(仲哀天皇10年)10月2日
群臣が皇后を皇太后と推戴し、ここから神功皇后摂政元年が始まる
🌟 摂政3年1月:誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を立太子
→ 都を磐余(いわれ:奈良県桜井市周辺)の若桜宮(わかさくらのみや)に定める
🌟 摂政5年3月:新羅との対立(新羅側の人質救出作戦と日本側の制裁)
→ 新羅の王は、汙礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)を日本へ派遣
→ 人質になっている✅微叱許智伐旱(みしこちほつかん:微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)と同一人物)を取り返したいと思っていた
→ 微叱許智伐旱は「家族が奴隷にされた真偽を確かめたい」と帰国を訴え、皇后はこれを許可
→ 葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を同行させた
・・・葛城襲津彦は、『古事記』では葛城長江曾都毘古と記され、武内宿禰の七男の一人で葛城氏の祖
→ 対馬で鉏海(さひのうみ)の水門(みなと)に宿泊、毛麻利叱智らは✅微叱旱岐(みしかんき)を逃がし、草人形で病気を装っていたが、バレた
→ 襲津彦は、使者の3名を捕え、檻に入れて焼き殺した
→ 新羅に上陸して蹈鞴津(たたらのつ:現在の釜山多大浦)に宿泊し、、草羅城(くさわらのさし)を攻め落とし、俘囚(とりこ:捕虜)を連れて帰国
→ 俘囚(とりこ:捕虜)は、高宮・忍海・佐糜・桑原の4邑(奈良県葛城盆地周辺)に定住した漢人(あやひと)の始祖
・・・後世(応神~雄略朝)に、阿知使主(あちのおみ:東漢氏(やまとのあやうじ)の祖)配下に再編された
🔍 ひとこと:未斯欣(みさふん/ミサフン)
✅微叱己知波珍干岐・微叱許智伐旱・微叱旱岐は、いずれも未斯欣を異表記したものとするのが通説
📘 『三国史記』によると
未斯欣は402 年、倭へ人質として送られた新羅第17代奈勿尼師今の王子
418 年前後、兄の訥祇麻立干が朴堤上(パク・チェサン:毛麻利叱智とみなすのが通説)を派遣し、倭王を欺いて弟を救出、朴堤上は捕らえられ火刑に
🌟 摂政13年 2月8日:武内宿禰が太子を伴い、角鹿(敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)を参拝
→ 2月17日に帰京、夜は大殿で宴会を開いた
→ 皇后が酒を捧げ祝いの歌を詠み、武内宿禰が太子の代わりに歌を返した
・・・笥飯大神は『古事記』では気比大神(けひのおおかみ)で、気比神社の御祭神
🔍 ひとこと:名前交換エピソード
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(誉田別:ほむたわけ)は、地主神 の伊奢沙別命(イザサワケ=気比大神)と名前を交換する
→ 太子の夢でイザサワケが「互いに名を交換しよう」と告げ、翌朝浜にイルカが大量に打ち上がる
→ 太子は、神威と感謝し、伊奢沙別命を 「御食津大神(みけつのおおかみ)」 と称えた
『日本書紀』の応神天皇の段の📚「異伝」では、太子の最初の名前は去来紗別尊(いざさわけのみこと)かも?とかかれている
🔍 ひとこと:ちょっと気になる朝鮮半島南部と日本海側の港町(穴門~出雲~但馬~敦賀)🫢
▲ 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)
『日本書紀』垂仁天皇の段の📚一書「異伝」で語られる、意富加羅国(伽耶)の王子
→ 穴門(あなと:山口県西部)→ 出雲国沿岸 → 越国・笥飯浦(けひのうら)に漂着
→ 額に角があったため 角鹿(つぬが) と呼ばれ、敦賀の語源とされる
▲角鹿(敦賀)は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関わりの深い場所
→ 仲哀天皇:角鹿に行宮を置き「笥飯宮(けひのみや)」と呼ぶ
→ 神功皇后:遠征は笥飯宮から
→ 応神天皇(太子):武内宿禰に伴われ笥飯大神(氣比神宮)を参拝
▲「伊奢沙別命(いざさわけ)」と 膽狹淺大刀(いささのたち)
伊奢沙別命(いざさわけ)」と天日槍(アメノヒボコ:新羅王子で神功皇后の母方の祖先)が持参し但馬国に納めた神宝「膽狹淺大刀(いささのたち)」は、語音の一致から関係性を示唆する説もある
『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の三度の朝貢(239・240・243 年)と魏からの冊封を、『日本書紀』の年次に対応させて挿入している
*卑弥呼の名を一切出していない
*人名・官名は写し間違いが散見されるが、年次と出来事の順序は『魏志倭人伝』と一致
🌟 摂政39年(太歳己未:239 年):卑弥呼が大夫・難升米(なんしょうめい)を帯方郡へ送り、洛陽での朝献許可を求める。帯方太守 劉夏が役人を付けて都に送る
🌟 摂政40年(240 年):魏朝が建忠校尉・梯儁らを倭に派遣し、詔書と金印紫綬を授けて卑弥呼を「親魏倭王」に封じる
🌟 摂政43年(243年):卑弥呼が魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上
日本書紀の編者は、卑弥呼の朝貢記事を挿入し、卑弥呼=神功皇后という年表を作ったが、名前は出さず注記にとどめている
🌟 摂政46年3月:斯摩宿禰(しまのすくね:出自は不明)を卓淳国(とくじゅんこく:朝鮮半島南部・伽耶諸国の一部)へ派遣
→ 卓淳国の王:末錦旱岐(まきむかんき)は、以前に百済の使者(久氐(くてい)・弥州流(みつる)・莫古(まくこ))が来たときの話を斯摩宿禰に伝えた
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百済の使者は「東方の日本という貴い国へ行く道を教えてほしい」と求め、卓淳王は「通交も道もないが、海路は遠く大船が必要」と応じ、百済の使者は「将来、船で訪れる。貴い国の使者が来たら知らせてほしい」と言って帰国した
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→ 斯摩宿禰は、従者・爾波移(にはや:斯摩宿禰の従者)と過古(わこ:卓淳の人)を百済に派遣し、百済の肖古王(しょうこおう)を慰労した
・・・肖古王は、百済第13代近肖古王(在位346〜375 年)を指すと考えられる
・・・百済第5代にも 肖古王(在位166〜214 年) がいるが、時代や本文の文脈と合わない
→ 肖古王は、5色の絹、角弓箭(角でできた弓)、鐵鋌(鉄材)を爾波移(にはや)に与え、「道がわからないので、今回は使者に託す」と語った
→ 斯摩宿禰は、爾波移(にはや)から報告を受け、卓淳より帰国
🌟 摂政47年4月:百済王は、久氐(くてい)・弥州流(みつる)・莫古(まくこ)を派遣、新羅の使者も同行して朝貢
→ 皇太后と太子は百済の使者の来訪を喜び、天皇存命中に会えなかったことを惜しんだ
→ 新羅の貢物はめずらしいものが多く、百済のものは少なくて賤しいもだった
→ 久氐(くてい)は、沙比新羅(さひしらぎ:新羅の古称)で捕らえられ、貢物を取り替えられたが、口外すれば殺すと脅されたことを告白
→ 皇太后と誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、新羅の使者を責めたうえで、真相を確かめるため天神に祈った
→ 神託により、武内宿禰に作戦を立てさせ、千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅へ派遣し、百済の献り物を濫したことが明らかとなった
→ 千熊長彦(ちくまながひこ)は、姓が明らかでないが
📚「異伝」では武蔵国出身で額田部槻本首(ぬかたべのつきもとのおびと)始祖
📘『百済記』に出てくる職麻那々加比跪(ちくまななかひこ)と同一人物かもしれない
🌟 摂政49年3月:新羅討伐と百済との盟約
→ 荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍として、久氐(くてい:百済の使者)らと卓淳国(とくじゅん)へ
→ 兵が足りないので、木羅斤資(もくらこんし:氏は不詳・百済の将軍)・沙沙奴跪(ささなこ:氏は不詳)が、沙白・蓋盧(さはく・こうろ:伽耶諸国の豪族?)の軍士を呼び卓淳国に集合、倭軍と新羅を撃破
→ 比自㶱 (ひじほ)・南加羅(ありひしのから)・㖨国(とくのくに)・安羅(あら)・多羅(たら)・卓淳(とくじゅん)・加羅(から)の7国を平定
→ 西へ進み古爰津(こけつ)に到着し、南蛮の忱弥多礼(とむたれ:済州島にあった耽羅か?)を討伐し、土地を百済に与えた
→ 肖古(百済王)・貴須(くいす:王子)が合流
→ 比利(ひり)・辟中(へちゅう)・布弥支(ほむき)・半古(はんこ)の4つの邑が降伏
→ 荒田別・木羅斤資らと百済の王父子が、意流村(おるすき)で会い勝利を祝う
→ 千熊長彦(ちくまながひこ)と百済王は百済国内に入り、まず辟支山(へきしざん)で盟約を結び、続いて古沙山(こさざん)の磐石上に登り、そこで百済王は「草は燃え、木は流れるが、岩は朽ちぬ(永遠の同盟を象徴)、百済は西蕃(にしのとなり:西の守り)と称し、春秋の年2回朝貢する」と約束
🌟 摂政50年2月:荒田別たちが帰国
🌟 摂政50年5月:千熊長彦が久氐(くてい:百済の使者)を伴い帰国
→ 皇太后が「なぜまた来たのか」と問うと、久氐は「恩に報い朝貢を続けたい」と答えた
→ 皇太后は喜び、多沙城(たさのさし)を通交の拠点として与えた
🌟 摂政51年3月:百済王が再び久氐を遣わし朝貢
→ 皇太后は太子・武内宿禰に「百済は天から授かった友好国。今後も厚遇せよ」 と指示
→ その年、千熊長彦が久氐を伴い百済へ返礼
→ 倭は「海の西」の征服地を百済に与え、永続的な庇護を約束
→ 百済王父子は土下座して感謝し、「西蕃」として年2回の朝貢を永く続けると誓った
🌟 ✅ 摂政52年9月:久氐ら百済使節が千熊長彦に伴われ再来日
→ 七枝刀 1振・七子鏡 1面・その他多くの宝物を献上
→ 谷那の鉄山の鉄を永く倭国に献じると誓った
→ あわせて、百済王が孫の枕流王(とむるおう)に 「倭の恩で海西の領地を得た、絶えず朝貢せよ」と語ったことを伝える
→ 以後、百済は毎年朝貢してきた
🌟 摂政55年:百済の肖古王が死去
🌟 摂政56年:百済の王子の貴須(くるす)が即位
🌟 摂政62年:新羅が朝貢しなかったので、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を派遣して討伐
📘『百済記』によると
新羅は、沙至比跪(さちひこ:襲津彦)を美女2人を贈って買収
→ 沙至比跪(さちひこ:襲津彦)は新羅を攻めず、加羅国を滅ぼす
→ 加羅国の王族(王:己本旱岐)と人民は百済へ亡命し厚遇される
→ 加羅国の王の妹・既殿至(けでんち)が倭に来て、沙至比跪(襲津彦)の裏切りを直訴
→ 天皇激怒し、木羅斤資(もくらこんし:百済の将軍?) を派遣して加羅を再建させた
📚「異伝」(襲津彦の最期)
襲津彦は、天皇の怒りを知って潜伏
→ 皇宮に仕える妹に探らせたが、妹が襲津彦の名を口にし、天皇が怒ったことを伝える
→ 襲津彦は石穴に籠もり自害
🌟 摂政64年:百済王の貴須 が死去、枕流王が即位
🌟 摂政65年:枕流王が死去、王子の阿花(あか) は幼少のため、叔父の辰斯(しんし) が王位を奪い即位
🌟 摂政66年:晋の武帝の泰初(西暦266年)二年十月条に「倭の女王が何度も使者を送り、貢物を献上した」と記される
・・・ この記述の出典は『晋書(西晋の正史)』で、女王は、卑弥呼の後継「壹与(いよ)」と解釈されることが多いが、日本書紀の編者としては、「神功皇后(=倭国女王)」が魏・晋との外交を行ったかのような体裁にしてると思われる
🌟 摂政69年4月:崩御(100歳)
百済・新羅は、高句麗の南下政策に対抗 📌 366年〜4世紀末(第1次百済・新羅同盟) 百済:第13代近肖古王が王権を強化(実質的な初代王?) → 📌 369年、雉壌城に侵入した高句麗軍を急襲 → 📌 371年、 高句麗王・故国原王を戦死させる(歴史的勝利) 勢いにのった百済は、「晋—百済—倭」ラインで高句麗を挟撃しようとした対外戦略で → 📌 372年、百済は東晋に朝貢し「鎮東将軍・領楽浪太守」の冊封を受ける 🇯🇵👉このころ、倭国に七支刀を献上したと推測 → 📌 375年、 近肖古王死去 → 📌376〜378年、高句麗が反攻し平壌・水谷城を奪回(百済の優位やや縮小) |
🔍 ひとこと:七支刀(奈良県の石上神宮に伝わる鉄製の刀)
文字の内容
→「泰和四年(369年:有力説)に百済が倭王のためにこの刀を贈った」というのが定説
→ 七支刀=日本書紀の「七枝刀」である可能性が高い
✅摂政52年(西暦252年)は、実質的には372年と見るのが有力
→ 魏志倭人伝からの引用があり、日本書紀の編者は、神功皇后=卑弥呼の年代に設定した可能性が考えらるが、考古学的史料(七支刀の銘文など)や他の文献史料と照合すると372年と考えられる
「摂政52年=372年」 をアンカーにすれば
日本書紀に登場する百済の王の没年・即位年は 『三国史記』の年表と揃う
▲13代近肖古王(在位346年〜375年)
▲14代近仇首王(在位375年〜384年)
▲15代枕流王(在位384年〜385年)
▲16代辰斯王(在位385年〜392年)
歌
太子と武内宿禰が角鹿への参拝から帰京した時の宴会で、皇后は酒を注ぎながら祝いの歌を詠み、太子の代理として武内宿禰が歌を返すというやりとり
皇太后の歌
此の御酒は 吾が神酒ならず
神酒の司 常世に坐す
いはたたす 少御神の
豊寿き 寿き廻ほし
神寿き 寿き狂ほし
奉り来し御酒そ
あさず飲せ ささ
このお酒は私だけの酒ではありません。
常世の国におられる酒の神・少名彦命(スクナヒコナ)が、豊かに楽しく、祝って歌い踊りながら造った酒なのです。
さあ、残さず飲んでくださいね。さあさあ!
武内宿禰の返歌
此の御酒を 醸みけむ人は
その鼓 臼に立てて
歌ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやにうた楽しさ さ
この酒を造った人は、太鼓(鼓)を臼のように立てて、歌いながら仕込んだのでしょう。
この酒の楽しいこと、なんと素晴らしい。さあさあ!
🔍 ひとこと:少名彦命(スクナヒコナ)について
少名彦命は、大国主神と共に国づくりを行い、常世国に渡ったとも言われる小さな神
医薬・温泉・農耕と並んで 「酒造りの神」 として語られることが多い
🕓 更新日:2025年7月26日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています