「アドゥリス碑文」は、紅海沿岸の港町アドゥリス(現エリトリア)にあったとされる二つのギリシア語碑文を指す。 一つはプトレマイオス3世のシリア戦争に関する戦勝碑文、もう一つは無名のアクスム王による遠征・征服を誇る碑文であり、 どちらも6世紀の旅行家コスマス・インディコプレウステスが現地で確認し、その著作『キリスト教地誌』に転写したことで知られる。 ヘレニズム期エジプトとアクスム王国という、異なる時代の支配者が紅海世界をどう意識していたかを示す一次資料である。
対象年代(カバー範囲)
アドゥリス碑文が記録する二つの歴史的状況を対象とする。 一つはプトレマイオス3世による第三次シリア戦争(前246年前後)と、その戦勝誇示。 もう一つは、2世紀後半〜3世紀初頭ごろと推定されるアクスム王の遠征・征服の記録である。
成立時期
プトレマイオス碑文は、プトレマイオス3世エウエルゲテスの治世(前246年頃)に、第三次シリア戦争の戦果を讃える目的で刻まれたと考えられる。 アクスム王碑文は、具体的な王名は明記されないが、文体と記述内容から、2世紀後半〜3世紀初頭のアクスム王の治世に作成された戦勝碑文と推定される。 現物の碑は失われており、6世紀にアドゥリスを訪れたコスマス・インディコプレウステスが『キリスト教地誌』の中でギリシア語テキストを写し取った形で伝わる。
構成
- プトレマイオス戦勝碑文: ギリシア語による単一の戦勝記録で、王の称号に続き、第三次シリア戦争での軍事行動と征服地リストが続く。 メソポタミア、バビロニア、ペルシス、メディアなどの地名が列挙され、実際の支配範囲以上に広い地理的スケールが誇張されていると考えられる。
- アクスム王の戦勝碑文: 同じくギリシア語による戦勝記録で、エチオピア高原・ナイル上流域・紅海沿岸・アラビア半島側への遠征と服属が列挙される。 「山岳地帯に住む人々」「ナイルを越えた人々」など、地理と社会をざっくり示す表現が多く、アクスム王国が高原内陸と紅海対岸の双方を視野に入れていたことがうかがえる。
- 伝存形態: いずれの碑文も現物は確認されておらず、6世紀の修道士・旅行家コスマス・インディコプレウステスが、アドゥリスの石の玉座に刻まれた文字を読み取り、 自著『キリスト教地誌』にギリシア語テキストとして転写した写しを通じてのみ伝わる。
よくある誤解と注意
- プトレマイオス3世の碑文は、列挙された地域すべてに実効支配が及んでいた確実な証拠である
→ 正しくは、戦勝碑文は王の威信を誇張する性格が強く、 列挙された地名のすべてが長期的・安定的支配を意味するわけではない。 他の史料(パピルス・歴史書・考古学)と付き合わせて、「どこまでが一時的な軍事進出で、どこまでが持続支配か」を慎重に評価する必要がある。 - アクスム王碑文はアクスム王国の実際の版図地図そのものである
→ 正しくは、アクスム王碑文もまた戦勝誇示のテキストであり、 王が到達した・服属させたと主張する範囲と、継続的な支配・行政が及んだ範囲は一致しない可能性が高い。 とくにナイル上流や紅海対岸のアラビア側では、「遠征・略奪・一時的服属」が混ざっていると考えるべきである。 - アドゥリス碑文は今も現地で読める石碑が残っている
→ 実際には、元の碑は失われており、6世紀のコスマスによる写本を通じてのみテキストが伝わっている。 そのため、文字の読み取りや欠損部の復元には不確実性があり、校訂版ごとに細部が異なる場合がある点に注意が必要である。
