ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期〜飛鳥) ー
6世紀末〜7世紀前半ごろ、日本列島の王権は「巨大前方後円墳で権力を見せる社会」から、「宮と官寺(王権直轄の寺)が集まる都城で権力を見せる社会」へ大きく転換しました。大規模な前方後円墳の築造は6世紀末〜7世紀初めにかけてほぼ終わり、その後は小型で多様な墳墓と、飛鳥一帯に密集して建てられる宮・寺院が、王と有力氏族の「顔」となっていきます。ただし、古墳が一気に消えて寺院に置き換わったわけではなく、地域差や共存の時期もあります。
ざっくりまとめると、「巨大前方後円墳が主役だった時代は6世紀末頃までで、その後は都城と官寺が王権の顔になる。古墳は消えずに小さく・多様になり、役割と見せ方が変わった」
いつ・どこで「古墳→寺院」の転換が起きたか
大規模前方後円墳の終わり(6世紀末〜7世紀初)
古墳時代の象徴だった巨大な前方後円墳は、3〜6世紀にかけて全国で築かれますが、6世紀末〜7世紀初めになると、新しく造られる大規模前方後円墳はほとんど見られなくなります。考古学的には、この時期を「終末期古墳」と呼び、墳丘の規模が小さくなり、形も円墳・方墳・方形+円形などバリエーションが増える段階として位置づけられています
7世紀中ごろには、天武天皇らヤマト王権中枢の墓として、八角墳など特別な形の墳墓が現れます。一方で、地方では横穴式石室を持つ小規模な古墳や横穴墓が多くなり、「一部の王族の大きな墓+各地の小さな墓」という、二層構造的な姿が見えてきます。
飛鳥に「宮と寺院が並ぶ」景観が生まれる(7世紀)
同じころ、ヤマト王権の中心だった飛鳥〜藤原地域では、宮と寺院が密集して建てられる景観が形成されます。7世紀を通じて、飛鳥の盆地には歴代の宮殿とその近くの官寺が次々と移転・建設され、道路や水路が張り巡らされた「初期の都城」の姿が見えてきます。発掘成果の蓄積から、飛鳥は「宮と寺院、官衙建物がひしめき合い、道と水路が縦横に走る政治都市」だったと描写されています。
仏教寺院の中でも、推古朝に造営された飛鳥寺(法興寺)は「日本で最初の本格的伽藍を持つ寺院」とされ、のちの官寺(国家中枢と結びついた寺)の原型とみなされます。飛鳥寺を皮切りに、7世紀には各地の有力氏族も自らの寺院を建立し、寺院の屋根瓦・礎石・伽藍配置が、その地域の権力の大きさを示す目印になっていきます。
古墳と寺院が「重なって見える」時期
6世紀後半〜7世紀前半の飛鳥周辺では、「終末期古墳」と初期寺院が同じ景観の中に並んで存在していたことも確認されています。終末期古墳を測量調査した報告書や、飛鳥地域の研究史を整理した論文では、終末期古墳群と古代寺院跡が近接して分布し、「古墳中心の景観」から「宮・寺・古墳が混在する景観」への過渡期があったことが指摘されています。
つまり、古墳がピタッと止まってから寺院が建つのではなく、終末期古墳のピークと初期寺院の造営ラッシュが、7世紀前半にしばらく重なっている、というイメージが現状の考古学像に近いと言えます。
なぜ「王権の見せ方」が古墳から寺院へ動いたのか
労働と資源の使い道が変わった(巨大墳丘→公共事業・寺院へ)
古墳時代の権力者は、巨大古墳を造ることで「これだけの人手と財を動かせる」という力を示していました。しかし、時代が進むにつれて、権力者が古墳造営にこだわる意識は薄れ、新しく築かれる古墳の規模は徐々に小さくなります。その一方で、同じ土木技術・労働力が、運河・水路など生産に関わる公共工事や、瓦葺きの寺院・宮殿の建設に振り向けられていったと説明する資料があります。
この見方に立つと、「巨大古墳に注いでいたエネルギーが、都城と寺院・インフラ整備に移動した」と整理できます。墳丘そのものではなく、政庁・官衙・官寺・水路といった「生きた空間」こそが、王権の力を示す舞台になっていった、というわけです。
「仏教を支える王」という新しいイメージ
6世紀に仏教が公伝すると、ヤマト王権は仏教を新しい権威づけの道具として積極的に利用します。飛鳥寺は、推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子らが推進した大寺院で、「仏教を保護する近代的な国家」という自己イメージを示す象徴的な建物だったとする解釈があります。
これは、古墳が「死後の王の威光」を示す装置だったのに対し、寺院は「生きている王が、仏の力を背景に統治することを示す舞台」だという違いでもあります。大伽藍の建立や仏像・舎利の安置は、天の加護を受ける正当な支配者である、というメッセージを内外に発信する役割を持ちました。
都城と律令国家という新しい枠組み(東アジア標準への接続)
飛鳥時代は、ヤマト王権が隋・唐の国家モデルを受け入れ、「都城+律令」による中央集権的な国家をめざした時期でもあります。中国では、皇帝の都城(長安・洛陽)と国立寺院が、法と教えの両面から帝国の秩序を支える空間として位置づけられていました。ヤマト王権も、遣隋使・遣唐使を通じてこうしたモデルを学び、飛鳥〜藤原京に官寺と官衙を備えた都城を形成していきます。
その結果、大王の権威は「巨大な個人墓」よりも、「律令国家の中心として整えられた都城空間」全体で表現されるようになります。国号が「倭」から「日本」へ、君主号が「大王」から「天皇」へと移っていく動きも、この新しい枠組みの中で理解できます。
古墳は本当に「終わった」のか?
小型化・多様化・皇族墓──「使われ方」が変わった古墳
「古墳が終わる」と聞くと、ある時点で墓がまったく造られなくなるように感じますが、実際にはそうではありません。7世紀以降も、地方では横穴式石室を持つ小さな墳墓や横穴墓が多数造られていますし、ヤマト王権中枢でも、八角墳など特別な形の墓が皇族用に築かれます。
むしろ変わったのは、「誰のために、どのスケールの古墳を造るか」です。
かつては、地方首長から大王クラスまで、広い範囲のエリートが前方後円墳に葬られていましたが、終末期には
- ごく一部の王族:特別な形の大型墳(八角墳など)
- 多くのエリート・在地首長:小型の古墳・横穴墓・火葬墓など
というかたちで棲み分けが進みます。その上で、「政治の顔」は古墳よりも宮・官寺・都城の景観が担うようになった、と捉えるとイメージしやすいと思います。
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- A 公的・一次級で直接確認(一次が複数一致でもA)
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- C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
Aレベル(一次資料・考古データからほぼ確実)
- 6世紀末〜7世紀初めごろ、大規模な前方後円墳の築造が終わり、円墳・方墳など小型・多様な終末期古墳が増える。
- 飛鳥地域では、7世紀を通じて宮と寺院・官衙が高密度に分布し、道路と水路が走る政治都市景観が形成された。
- 飛鳥寺は日本で最初期の本格的伽藍を持つ仏教寺院であり、推古朝に王権中枢の主導で造営された。
Bレベル(複数の一次資料が整合/有力な解釈)
- 古墳の規模縮小と同時期に、公共土木(運河・水路)や寺院建設など別の大規模土木事業が拡大し、権力者が資源配分を切り替えたという見方。
- ヤマト王権が隋・唐の国家モデルを学び、「都城+官寺」を中心にした国家像へ移行し、その中で国号「日本」・天皇号・律令体制が整えられていったという流れ。
- 飛鳥寺などの官寺が、「仏教を保護する王権」を内外に示す象徴施設として機能したという解釈。
Cレベル(仮説寄り・研究中の論点)
- 「古墳の衰退=寺院の隆盛」という一対一の置き換えモデル(古墳がそのまま寺院に替わった、というイメージ)。実際には、終末期古墳と寺院が同じ地域で並存する例があり、地域差も大きいため、単純なスイッチ説は慎重に扱う必要があります。
- 王権が意識的に「死のモニュメント(古墳)」から「生きた宗教・政治空間(寺院・都城)」へ象徴戦略を切り替えた、というレベルの意図読み。方向性としては妥当ですが、「どこまで意識的だったか」は今後も議論が続くテーマです。
