蘇我氏は、5〜7世紀の日本列島(主に大和・飛鳥地域)で、大王家と姻戚関係を結びながら中央政治の中枢を担った有力氏族である。仏教受容と寺院造営を推進した一方で、豪族間抗争の焦点ともなり、乙巳の変(大化改新)のクーデターで一族の主流が滅ぼされた。
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蘇我氏の台頭は稲目に始まる。稲目は大王家と姻戚化し、仏教受容を政治課題に引き上げて基盤を整え、子の馬子が継承した。用明崩後、馬子は丁未の乱(587)で物部守屋を討って継承争いを制し、推古天皇の擁立と仏教保護体制を確立する一方、崇峻天皇が蘇我抑制の意志を示すと、592年に東漢直駒を使って弑し実権を掌握した。
のち本宗家は蝦夷が継ぎ、子の入鹿が皇位継承に強く介入して専横を強めたため、中大兄皇子と中臣鎌足は宮中で入鹿を誅する乙巳の変(645)を断行し、蝦夷は邸に火を放って自害、蘇我本宗家は崩壊した。
なお入鹿誅殺に協力して右大臣に進んだ蘇我倉山田石川麻呂は、649年に誣告で謀反嫌疑を受け山田寺で一族と自尽(のち冤罪と判明)し、改新政権内の権力調整が進む。
こうして蘇我氏は“悪役として断絶”ではなく、寺院政策・対外実務・官人ネットワークを残したまま、分流や旧臣層が新体制へ再配置され、乙巳の変以後も、蘇我氏の一族・旧臣層は、別の氏族名や官職を通じて政権運営に関わり続けたと考えられており、「完全に消えた」というよりは、政治構造の再編とともに表舞台から退いたと見る方が現実に近い。
クイック情報
| 活動期 | 5世紀後半〜7世紀中葉(古墳時代後期〜飛鳥時代)。 |
| 分類 | 中央政権中枢の有力豪族・行政エリート氏族(大臣家)。 |
| 勢力圏 | 大和(飛鳥・葛城周辺)を基盤とし、大王家との婚姻と官職を通じて全国支配に関与。 |
| 終局 | 645年、乙巳の変で蘇我蝦夷・蘇我入鹿ら主流派が討たれ、政治的な独占的地位を喪失。 |
| 影響 | 仏教公伝の受容・官寺造営・大王家後見などを通じて、飛鳥時代初期の国家形成に決定的な役割を果たした。 |
| 特記事項 | 乙巳の変以後も、蘇我氏の一族・旧臣層は、別の氏族名や官職を通じて政権運営に関わり続けたと考えられており、「完全に消えた」というよりは、政治構造の再編とともに表舞台から退いたと見る方が現実に近い。 |
ミニ年表
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| 5世紀後半ごろ | 蘇我氏が大和王権の有力豪族として台頭し、政権中枢に進出し始める。 C(系譜・後世史料の再構成による) |
| 6世紀中葉 | 蘇我稲目・馬子らが大臣の地位に就き、大王家と婚姻関係を結んで外戚としての地位を確立する。 B(『日本書紀』記事を主とするが、考古学的背景と整合) |
| 588〜596年ごろ | 飛鳥寺(法興寺)の造営が進み、蘇我氏が仏教と官寺建立を主導する。 B(文献と寺院遺構の年代観が概ね一致) |
| 587年 | 仏教受容をめぐる物部守屋との対立の末、勝者として蘇我氏が主導権を握る。 B(『日本書紀』記事が中心) |
| 593〜628年(推古朝) | 蘇我馬子が推古天皇・厩戸皇子とともに政治改革を推進し、飛鳥の宮と寺院ネットワークの形成に関与する。 B(文献史料に基づくが、政治構造の再現には議論余地あり) |
| 630〜640年代 | 蘇我蝦夷・入鹿が皇位継承問題に深く関与し、大王家に対する影響力を強める。 B(『日本書紀』を中心に再構成) |
| 645年 | 乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿が中大兄皇子らに討たれ、一族の主流が滅亡する。 A(年代と事件の存在は一次史料レベルで確実) |
事績(特集へのリンク)
蘇我氏:飛鳥王権を支えた仏教推進・政治中枢氏族
蘇我氏は、大王家の外戚として、仏教受容と律令国家への橋渡し段階で政治の実務中枢を担った有力氏族。仏教・寺院・飛鳥の宮タウンをガンガン推進する「古墳から寺・宮への転換の推進役」。
主要人物
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