推古天皇(すいこてんのう)は、6〜7世紀の日本列島(主に大和・飛鳥地域)で活動した、日本史上初の女帝とされる天皇であり、蘇我氏や厩戸皇子(聖徳太子)とともに飛鳥時代初期の政治と仏教受容を主導した統治者である。
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推古天皇は、欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛とのあいだに生まれた皇女で、和風諡号は豊御食炊屋姫尊(炊屋姫)とされる。若い頃は額田部皇女と呼ばれ、のちに敏達天皇の妃・皇后となった。血筋のうえでは、父方で天皇家の直系、母方で蘇我氏の有力な一門に属し、政治的にも宗教的にも重い立場にあった。
6世紀末、用明天皇の崩御後に穴穂部皇子と物部守屋が皇位をめぐって動いた際、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じたと伝えられ、皇后の立場でありながらすでに強い政治的発言力を持っていたことがうかがえる。その後、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を蘇我馬子とともに擁立するが、やがて崇峻と馬子は対立し、崇峻天皇は592年に馬子の差し金で暗殺された。翌年、群臣の推戴を受けて額田部皇女が豊浦宮で即位し、第33代推古天皇となる。これが日本史上、かつ東アジアでも最初の「在位した女帝」とされる。
推古朝の政治運営では、甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を摂政・皇太子として起用し、また外戚である蘇我馬子との協調関係を保ったことが特徴的である。『日本書紀』などによれば、この時期には冠位十二階の採用(603年)や十七条憲法の制定(604年)といった官制・行動規範の整備が行われ、飛鳥の宮廷を中心とする統治の枠組みが形づくられていったとされる。これらの施策の具体的な立案や実施主体については、厩戸皇子・蘇我氏・他の官人たちとの分担や後世の脚色をめぐって議論があるが、「推古朝に国家形成への一歩が進んだ」という見方自体は広く共有されている。
対外関係では、推古天皇の名のもとで遣隋使が派遣され、隋の煬帝宛てに「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とする書簡を送ったと伝えられている。これが史実通りの表現かどうかには慎重な検討も必要だが、7世紀初頭の倭王権が中国王朝と対等性を意識した外交レトリックを用いたことを示す象徴的な逸話として重視されている。また、仏教をはじめとする大陸文化の受容も推古朝に加速し、官寺の造営や仏像・経典の輸入などが行われた。
推古天皇の治世は36年に及び、その間、大規模な内乱や王位継承の断絶は起きなかったとされる。これは、崇峻天皇暗殺後の不安定な状況を引き継いだにもかかわらず、推古が蘇我氏・皇族・官人たちの利害を調整し、一定の安定を保った統治者であったことを示すと解釈されている。一方で、推古自身の政治判断と、厩戸皇子や蘇我馬子ら周囲の有力者の役割分担をどう評価するか、また推古がどこまで主体的に仏教・大陸制度を選び取ったのかについては、近年の研究でもさまざまな見直しが進んでいる。
628年に推古天皇が崩御すると、その後の皇位継承は必ずしも円滑ではなく、舒明・皇極・斉明・天智へと続く過程で壬申の乱など大きな変動が起こる。そうした揺れ動く時代と対比すると、推古朝は「女帝のもとでの相対的安定期」として位置づけられる。
クイック情報
| 別名・異表記 | 第33代天皇/額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)/豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)/炊屋姫・豊御食炊屋姫 など |
| 活動期 | 在位は592/593〜628年/生涯:554年ごろ〜628年 |
| 役割 | 日本史上初の女帝として、蘇我氏・厩戸皇子と協調しつつ、仏教政策と官制整備・対隋外交など飛鳥政権の安定と国家形成を進めた |
| 主な拠点 | 大和国(飛鳥地方)―豊浦宮・小墾田宮などの飛鳥の宮 |
| 特記事項 | 日本初かつ東アジア初の女帝とされる(中国・朝鮮で女性君主が即位するのは推古の後代)。主要な事績は『日本書紀』『古事記』など8世紀の編纂史書に依存しており、細部には伝承的要素や後世の解釈も含まれる。 |
ミニ年表
| 554年ごろ | 欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛とのあいだに生まれる。 |
| 571〜576年ごろ | 敏達天皇(渟中倉太珠敷皇子)の妃・皇后となり、大王の正妻として宮廷の中心に立つ。 |
| 592年 | 崇峻天皇が蘇我馬子の指示で暗殺され、翌年、豊浦宮で推古天皇として即位し、日本初・東アジア初の女帝となる。 (暦法の違いから592/593年表記のブレがある) |
| 593年 | 厩戸皇子(聖徳太子)を摂政・皇太子として起用し、政務を行う体制が整う。 |
| 603〜604年 | 冠位十二階の採用(603年)と十七条憲法の制定(604年) |
| 607年 | 遣隋使(小野妹子ら)が派遣される。隋の皇帝への国書に「日出づる処の天子…」とする文言があったと伝えられ、倭王権の対等意識を示す逸話として知られる。 |
| 628年 | 崩御し、36年に及ぶ治世を終える。 |
事績(特集へのリンク)
推古天皇:飛鳥政権と仏教受容を主導した初の女帝
推古天皇は、日本初・東アジア初の女帝として、蘇我馬子と厩戸皇子を調整しながら飛鳥の宮と寺院を軸とする政権を運営し、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使などを通じて、巨大古墳の時代から「宮+寺+都城+律令」へと向かう国家形成の初期段階を担った統治者である。
