継体天皇(けいたいてんのう)は、5〜6世紀の日本列島(主に近江・越前・大和地域)で活動した天皇であり、ヤマト王権の王統が揺らいだのちに地方有力勢力から迎えられて即位し、王権の立て直しと古墳時代後期〜終末期への転換点を象徴する君主とされる。
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継体天皇は、『日本書紀』などによれば、応神天皇の五世孫・彦主人王の子として越前方面に住んでいた男大迹王が、ヤマト王権の王位継承が行き詰まった状況のなかで「外」から擁立された存在として描かれている。先行する武烈天皇に直系の子がなく、王家の血統をたどって地方に住む皇族を探し出し、大和の王位に迎えたという筋書きである。
こうした記述に対して、近現代の研究では、継体が本来は近江・越前地方の有力な在地王(ローカル・キング)の一人であり、それがヤマト王権の中枢に進出したのだとする見方も提示されている。いずれにせよ、継体の即位は、5世紀の強力な大王たちの時代から、6世紀の新たな勢力配置へと移る節目として重要視されている。
継体天皇は、即位後もしばらくの間は大和国内ではなく、河内や山城・近江など畿内周辺の諸地域に宮を構えていたとされる。『日本書紀』は、樟葉宮(河内国)、筒城宮(山城国)、弟国宮(近江国)といった宮を転々としたのち、大和に都を移したと記す。これは、当初は畿内の有力豪族間のバランスを取りつつ王権の基盤固めを行い、徐々にヤマトの中心部へ統治の軸足を移した過程を反映している可能性がある。
考古学的には、継体天皇の在位期は、巨大な前方後円墳が次第に縮小し、古墳の形や規模が多様化していく「古墳時代終末期」の入り口と、おおむね重なると考えられている。従来のような巨大墳墓による王権の誇示から、より小規模・分散的な墳墓群や新しい葬制への移行が進む時期であり、継体は「古墳国家」から「古墳国家+新たな王権構造」への過渡期の大王像として位置づけられる。
対外関係について直接継体の名が現れる史料は限られるが、5〜6世紀の日本列島は朝鮮半島南部の諸勢力(百済・新羅・加羅諸国)との関係のなかで軍事・外交を展開しており、継体期もそうした動きの連続上にあったとみられる。また、この時期の王権再編は、のちの欽明・用明・推古へ続く飛鳥時代の政治構造の前提条件ともなっている。
継体天皇の実像は、文献史料が限られ、後世の王権が自らの正当性を補強するために祖先系譜を整えた可能性もあるため、なお多くの不明点を含む。それでも、彼の即位が「地方有力者の王位進出」と「ヤマト王権の立て直し」という二つの側面を持っていたという理解は広く共有されており、古墳時代後期〜飛鳥時代への橋渡しを考えるうえで欠かせない人物となっている。
クイック情報
| 別名・異表記 | 第26代天皇 / 男大迹王(おおどのおおきみ) |
| 活動期 | 5世紀後半〜6世紀前半(古墳時代後期)/生涯:生年は不詳〜531年に没したと伝えられる。 |
| 役割 | 揺らいだヤマト王権の王統を地方有力勢力からの擁立によって再編し、巨大前方後円墳のピークを過ぎた「古墳終末期」の起点に位置づけられる天皇。 |
| 主な拠点 | 若い頃は越前・近江周辺を活動基盤とし、即位後は河内国樟葉宮・山城国筒城宮・近江国弟国宮などを経て、大和の宮へ政治の軸を移したとされる。 |
| 特記事項 | 血統上は応神天皇の子孫とされるが、ヤマト王権中枢から見れば「外部」から迎えられた王であり、地方豪族との関係や王権の連続性をめぐって、歴史学上さまざまな議論がある。 |
ミニ年表
| 5世紀後半 | 越前・近江方面に拠点を持つ男大迹王として活動し、地方の有力な王の一人であったとみられる。 |
| 507年ごろ | 前代の武烈天皇に直系の後継がいない状況のなかで、応神天皇の子孫とされる血筋から選ばれ、男大迹王がヤマト王権の大王として迎えられ、継体天皇として即位する。 |
| 6世紀初頭 | 河内国樟葉宮・山城国筒城宮・近江国弟国宮など畿内周辺の諸宮を転々としながら王権の基盤固めを進める。 |
| 6世紀前半 | 大和への宮の移転とともに、畿内の豪族勢力とのバランスを調整しつつ、大王家としての地位を安定させる。 (大和移転は伝えられるが、具体的な過程は不明) |
| 531年 | 継体天皇が没したとされる。在位期間は20年以上におよび、その後の欽明朝・用明朝・推古朝へ続く王権構造の基礎を残した。 (没年は通説、在位年数の細部には異説もある) |
事績(特集へのリンク)
継体天皇:地方王から迎えられた「立て直し」の大王
継体天皇は、ヤマト王権の王位が途絶えかけたときに越前系の男大迹王として外部から迎えられたとされる大王であり、巨大古墳のピークを過ぎた5〜6世紀の段階で、地方勢力を取り込みつつ王権を立て直した存在として、古墳終末期の起点を象徴している。
