小野妹子

小野妹子(おののいもこ)は、6〜7世紀の日本列島と中国大陸(隋)とのあいだで活動した飛鳥時代の官人・外交使節であり、推古朝の遣隋使として「日出づる処の天子…」の国書を携えて隋の煬帝のもとに赴いた人物として知られ、のちには華道・池坊の祖とされる伝承も持つ。

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小野妹子は、推古天皇の時代に活躍した廷臣で、近江国滋賀郡小野村を本拠とする小野氏(小野臣)の一員である。小野氏は和珥氏・春日氏と同族とされ、文筆や学問に長けた一族として後世も知られ、その子孫には和歌の小野小町、詩人・学者の小野篁、書家の小野道風などが含まれると伝えられている。

『日本書紀』などによれば、妹子は推古天皇15年(607年)、聖徳太子の意を受けて遣隋使の大使として隋に派遣された。このとき携えた国書は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」(「日出處天子致書日沒處天子無恙」)という有名な文言で始まり、日本列島側の君主を「天子」と称し、中国皇帝と対等の立場を示すような表現になっていた。隋の煬帝はこの国書を無礼と受けとめて不快を示したと伝えられるが、同時に隋は倭国との外交的パイプを持つことに一定の利益を見いだしており、結果として妹子は返書とともに隋使・裴世清らを伴って帰国している。

608年、妹子は裴世清らとともに再度隋へ渡る第3回遣隋使の大使にも任命され、多くの留学生・学問僧を伴って渡海した。このとき高向玄理・南淵請安・僧旻らが随行し、隋〜唐の転換期の中国に長期滞在して学んだのち、大化改新期の律令国家形成に大きく貢献したことが知られている。妹子自身は609年に帰国し、その後の具体的な事績は史料からほとんど姿を消すものの、冠位十二階の枠内で功績に応じて最上位の「大徳」まで昇った事例として、能力主義的人材登用の象徴としてもしばしば取り上げられる。

小野妹子を通じた遣隋使派遣は、日本列島が東アジア国際秩序の中で、自らを「日出づる処の天子」の国として位置づけ、単なる朝貢国でもなく、中国と対等に近いかたちを模索しようとした外交実験としても評価されている。その一方で、実際には中国の制度・仏教・文化を積極的に吸収する経路としての側面が大きく、国書のレトリックと、現実の学習・受容という二面性を体現した外交使節でもあった。

中世以降の伝承では、妹子は遣隋使ののちに出家し、山城国(のちの京都)の六角堂(頂法寺)に住して仏前に花を供える作法を整えた人物とされる。これが華道・池坊の始祖とされ、池坊家元では妹子を「初世」と位置づけて墓所での献花などを行っている。ただし、この系譜意識は芸道側が自らの歴史をさかのぼって構成した要素を含むため、歴史学的には伝承として慎重に扱われる。

妹子の生没年や個人的な思想・性格については確かな史料が乏しいものの、推古・聖徳太子政権のもとで、位階制度のもとに登用された官人が外交の最前線で活躍した例として、また「倭国」が自らの王権像と国号を東アジア世界にどう提示したかを考える際のキーパーソンとして位置づけられている。

クイック情報

別名・異表記妹子臣/蘇因高(そいんこう・隋側での音写名)
活動期6世紀末〜7世紀初頭/生涯:生没年ともに不詳。
役割推古朝・聖徳太子政権のもとで遣隋使として隋に2度渡り、倭国の対隋外交と国号・位階・王権イメージの対外表現を体現した官人・外交使節。
主な拠点近江国小野村(出自)/飛鳥(推古朝の政庁・宮廷)/隋の都(大興城・洛陽など)/伝承上は山城国六角堂(頂法寺・六角堂)での出家・池坊の祖とされる。

ミニ年表

607年推古天皇15年、第2回遣隋使の大使として隋に派遣される。聖徳太子の意を受け、「日出づる処の天子…」ではじまる国書を煬帝に奉じる。
608年隋の使者・裴世清らを伴って帰国するが、隋からの返書は「百済人に奪われた」と奏上したと伝えられる。その真相については、自ら破棄したという説も存在する。
608〜609年再度遣隋使の大使として隋に赴き、高向玄理・僧旻・南淵請安など留学生・学問僧とともに渡海する。翌609年に帰国し、その後史料上からほぼ姿を消す。
630年前後第1回遣唐使が派遣された頃までに没したとする伝承があり、6〜7世紀前半の人物として位置づけられる。大阪府太子町などに伝承上の墓所が残る。

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