都はなぜ移り、どこに集約する?(飛鳥〜藤原京の都城ネットワーク)

ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期〜飛鳥) ー

飛鳥〜藤原京の約1世紀は、都をどこに・どんな形で置くかを試しながら、最後に藤原京という本格的な都城へ“集約”していく時代でした。宮は飛鳥盆地の中を何度も移り、ときには難波や近江にも遷都しますが、その動きはバラバラではなく、海の玄関口=難波、内陸水運のハブ=琵琶湖〜瀬田、政治・儀礼の中心=飛鳥〜藤原、という役割をもったネットワークを形づくっていきます。最終的に、唐の長安などを参照した碁盤目状の藤原京が築かれ、王権はこのネットワークを一つの都城空間に「まとめ上げる」方向へ踏み出しました。

「飛鳥の宮があちこち動き、難波・大津も使いながら、最後に藤原京という本格的な都城にまとまっていく」という流れです。

都はどんな順番で動き、どこに「まとまる」のか

飛鳥盆地での「移動する宮」からスタート

592年に推古天皇が飛鳥豊浦宮で即位してから710年の平城京遷都までを、一般に「飛鳥時代」と呼びます。このあいだ、宮は飛鳥盆地の中で何度も場所を変え、豊浦宮・岡本宮・小墾田宮・難波長柄豊碕宮(出張型)・飛鳥板蓋宮・飛鳥浄御原宮…といった具合に、川沿いの小さな盆地の中に点々と置かれました。

発掘調査では、飛鳥京跡の周辺に宮殿・官衙・苑池・水時計台などが集中し、「一つの大きな都」というより、いくつもの宮と官衙が集まった政治景観が復元されています。宮の位置は変わっても、飛鳥盆地が「政治の中心」であり続けたことが、遺構の密度から読み取れます。

難波京・大津京:海と水運に開いた節点

7世紀半ばになると、飛鳥の外にも都が置かれます。一つは難波宮・難波京で、上町台地の先端部に築かれた宮は、瀬戸内海〜西アジアへつながる航路の「海の玄関口」として機能しました。高所から海を見下ろす立地や、正方位の軸線に沿って整然と並ぶ官衙・倉庫群は、対外的な威信を強く意識した造りだったと分析されています。

もう一つが近江大津宮(大津京)です。667年、天智天皇は飛鳥から近江大津へ遷都し、琵琶湖の南西岸に新たな宮を置きました。ここは琵琶湖〜瀬田川〜淀川を通じて畿内各地とつながる内陸水運の要地であり、宮跡の発掘では正殿・南門・回廊・倉庫などから成る大規模な宮城が確認されています。

このように、7世紀の都は飛鳥(政治中枢)・難波(海上交通)・大津(内陸水運)という三つの拠点を行き来しながら運用されていた、とイメージするとわかりやすいです。

藤原京への集約:初めての本格的「都城」

694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮から北西の平地へ移り、藤原宮・藤原京を開きます。藤原宮はおよそ一辺900mの方形区画で四方を柵で囲み、その南から幅広い朱雀大路が都の中心軸として伸びる構造でした。宮の東西南には、二官八省の官衙や寺院が整然と配置され、飛鳥期には分散していた宮殿と官衙が、一体の都城として再編されたと説明されています。

藤原京全体は東西・南北の大路で碁盤目状に区画され、条坊制と呼ばれるプランが採用されました。これは唐の都城(長安など)をモデルにした制度で、東西の列を「条」、南北の列を「坊」と呼び、左京・右京に分けて行政区画を整理する方式です。

この藤原京は、「律令にもとづく中央集権体制のもとでつくられた日本初の本格的な都城」と位置づけられており、飛鳥〜藤原の遺跡群は、古代律令国家成立を示す文化遺産として世界遺産候補にもなっています。

なぜ都はこれほど移り、最後に藤原京へ集約したのか

海外ルートと内陸ネットワークの両立

7世紀の倭国は、隋・唐や朝鮮半島諸国との外交・軍事・交易を活発に行っていました。そのため、「海の玄関口」と「内陸ネットワーク」の両方を押さえる必要がありました。

難波瀬戸内海〜東アジアへ開いた港湾都市。外国使節の来航や遣隋使・遣唐使の発着点として重要。
大津琵琶湖〜瀬田川経由で畿内各地と結びつく内陸水運の起点。北陸・東国とのルートとも結びつく。
飛鳥・藤原王権の儀礼・立法・行政が行われる中心部。大和三山と古代の道・川に囲まれた内陸の政治舞台。

都が難波や大津に動くのは、外交・戦略上の比重を一時的に海側/湖側に移す動きとして理解できます。一方で、最終的な「集約先」は、依然として大和の内陸平野(藤原京)に置かれました。

政局と安全保障の問題

遷都の背景には、政変や戦乱への対応もありました。特に663年の白村江の敗戦は、唐・新羅が西日本沿岸に軍事的圧力をかけうることを示し、九州北部や瀬戸内の防備を固めつつ、都そのものは大和平野の内陸に置くという発想を強めたと考えられます。
こうした対外・軍事状況のなかで、大津京は、天智天皇が飛鳥の勢力圏からやや距離をとり、北陸・東国へのルートも見込める場所に新しい拠点を築いたものと見ることができます。『日本書紀』が伝えるように、この大津京は壬申の乱(672年)で大津側が敗れると廃都となり、再び飛鳥へ政治の軸が戻りました。

その後、天武・持統政権のもとで律令体制の整備が進み、飛鳥浄御原宮から藤原京への移行は、政局がある程度安定した段階での「じっくり腰を据える都城建設」だったと考えられます。藤原宮跡の整備計画書でも、広大な平地を人工的に整地し、朱雀大路や宮城周辺の官衙群を体系的に配置したことが強調されています。

唐都城モデルの消化と「条坊制」導入

藤原京が画期的だったのは、唐の都城モデルをただ真似るのではなく、飛鳥時代に積み上げた政治・儀礼の「型」を、条坊制の枠の中に再配置した点にあります。

宮城大極殿・朝堂院など、天皇の居所と朝廷空間を北端にまとめる。
朱雀大路宮城から南へ伸びるメインストリートとして、都市の軸線を可視化。
条坊制碁盤目状の街路で京域を区画し、官衙・寺院・宅地を整理配置。
官寺大官大寺・薬師寺などの国家的寺院を都城内部に置き、仏教を国家秩序の支えとして組み込む。

Asuka–Fujiwara の世界遺産資料では、「飛鳥で育った律令制にもとづく中央集権国家が、藤原京で実を結んだ」と表現されており、藤原京が「移動する都」から「固定化した都城」への転換点だったことが強調されています。

ネットワークとして見る飛鳥〜藤原京

三つの軸で見ると、都の動きが整理しやすい

「都がやたらと移った」とだけ見ると混乱してしまうので、視点を変えて三つの軸で整理してみます。

飛鳥・藤原
=儀礼・立法の軸
宮殿・官衙・官寺が集中し、即位・朝賀・律令制定など国家儀礼が行われる中心舞台。
難波
=海上交通の軸
瀬戸内海・朝鮮半島・中国と結ぶ海の玄関口。遣隋使・遣唐使の拠点で、外に向けて王権の姿を示すショーウィンドウ。
近江(大津)
=内陸水運・防衛の軸
琵琶湖〜瀬田川ルートを押さえる位置にあり、北陸・東山道方面への展開も視野に入る拠点。壬申の乱という「内戦」の舞台にもなった。

7世紀の遷都は、この三つの軸のバランスを取り直す試行錯誤だと見ることができます。

「移動する都」から「固定した都城」へ

飛鳥盆地内の宮の移動や、難波・大津への短期的な遷都は、言い換えると「機能ごとに拠点を切り替える運用」でした。王権は、そのつど外交・軍事・政局に合わせて、どの節点を重視するかを変えていたとも言えます。

これに対して藤原京は、飛鳥で蓄積された政治機能と、難波・大津で試した対外・交通機能を、一つの計画都市のなかに集約しようとした試みでした。条坊制の都城はその後、平城京・平安京へと連続していき、日本の「首都」の標準形になります。藤原京は、その連鎖の「初号機」にあたる存在として位置づけられます。

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  • B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
  • C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)

Aレベル(一次資料・考古データからほぼ確実)

  • 592〜710年ごろにかけて、飛鳥盆地やその周辺に複数の宮殿・官衙遺構が確認されており、飛鳥が長期にわたる政治中枢だったこと。
  • 難波宮跡で、正方位を意識した宮城・官衙・倉庫群などが確認されており、7世紀半ばに都的機能をもった施設群が整備されたこと。
  • 近江大津宮が天智6年(667)に飛鳥から遷都され、壬申の乱(672年)後に廃都となったこと。宮跡からは正殿・南門・回廊など大規模な宮城遺構が見つかっていること。
  • 藤原宮・藤原京が、一辺約900mの宮城と、碁盤目状に区画された京域を持つ条坊制の都城として整備されたこと。

Bレベル(複数の一次資料が整合/有力な解釈)

  • 難波京・大津京が、それぞれ「海上交通」と「内陸水運・防衛」を意識した拠点として選ばれたという見方。地形・水系と発掘成果、および『日本書紀』の記事を総合した解釈。
  • 天武・持統政権期に律令体制整備が進行し、その「完成形」を受け止める都城として藤原京が計画されたという理解。
  • 藤原京が、飛鳥期に分散していた宮殿・官衙・官寺を統合し、「移動する都」から「固定した都城」への転換点となったという評価。

Cレベル(仮説寄り・研究中の論点)

  • 「7世紀の遷都を「海上・内陸・儀礼」の三つの軸を意識した長期的な戦略として、王権がどこまで計画的にデザインしていたか、というレベルの意図読み。
  • 難波・大津・飛鳥・藤原を「一つの多極ネットワーク都市」とみなすようなモデル化。地形・遺構・文献から再構成する試みは進んでいますが、どこまで一体として運用されていたかは、今後も発掘と議論が続くテーマです。