第14代 仲哀天皇(ちゅうあい)/ 足仲彦天皇

目次
  1. はじめに
  2. 基本情報
  3. 系譜
  4. 事績

はじめに

天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介

▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある

▲ 📚「異伝」について
本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。

→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)

▲📍:地名などの由来

▲ 📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
→『記紀』では詳しく語られない「継体天皇の出自(系譜)」についての資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/上宮記

基本情報

容姿端正で身長10尺(約303cm😵)だったと書かれている

在位期間192年~200年(享年52歳)
皇居(『日本書紀』では行宮のみ)志賀高穴穂宮(たかあなほのみや:大津市)
笥飯宮(けひのみや:敦賀市)
徳勒津宮(ところつのみや:和歌山市)
豊浦宮(とゆらのみや:下関市)
橿日宮(かしひのみや:福岡市)
恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ:大阪府藤井寺市:✅岡ミサンザイ古墳)
和風諡号足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
✅日本武尊(やまとたけるのみこと:第二皇子)
✅両道入姫命(ふたじのいりびめのみこ)
皇后✅気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
✅大中姫命(おおなかつひめのみこと)
✅弟媛(おとひめ)

✅ 岡ミサンザイ古墳について
仲哀天皇は非実在性が強く、築造年代も仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇の陵とする説が有力視

系譜

✅ 父:日本武尊(やまとたけるのみこと)
→ 父:第12代景行天皇
→ 母:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと:孝霊天皇の皇子で吉備氏の祖)の娘
→ 双子の兄:大碓皇子(おおうすのみこ:身毛津君(むげつうのきみ)・守君(もりのきみ)の祖)
📚「異伝」
→ 弟:稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)

✅ 母:両道入姫命(ふたじのいりびめのみこ)
→ 父:第11代垂仁天皇
→ 母:綺戸辺(かにはたとべ)は、山背大国の不遅(やましろのおおくにのふち)の娘
→ 同母兄:磐衝別命(いわつくわけのみこと:「三尾君」の始祖)
・・・📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』では、磐衝別命の五世孫の振媛(ふるひめ)は、彦主人王(ひこうしのおう)に嫁ぎ、乎富等大公王(おおどのおおきみ:第26代継体天皇)を生んだ

✅ 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
→ 父:息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)は、第9代開化天皇の玄孫
→ 母:葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)は、先祖に天日槍(アメノヒボコ:新羅の王子)
・・・葛城高顙媛の父:多遅摩比多訶
・・・葛城高顙媛の母:菅竈由良度(多遅摩比多訶の姪で、清彦の娘)
→ 子:誉田別尊(ほむたわけのみこと:第15代応神天皇)
・・・『古事記』だけ兄弟2人を列挙
・・・兄:品夜和気(ほんやわけ:誉屋別)
・・・弟:品陀和気(ほむだわけ:誉田別:応神天皇)

🔍 ひとこと:神功皇后の両親(息長宿禰王と葛城高顙媛)の系譜
『日本書紀』には、ほとんど記載されていない
神功皇后は新羅と関係が深そう🤔

彦坐王(父:開化天皇・母・姥津媛-和珥氏系の妃)
└ 山代之大筒木真若王(父:彦坐王・母:姥津媛の妹)
└ 迦邇米雷王(父:山代之大筒木真若王・母:丹波能阿治佐波毘売-伊理泥王の娘)
└ 息長宿禰王(父:迦邇米雷王・母:高材比売-丹波之遠津臣の娘)
多遅摩母呂須玖(父:アメノヒボコ・母・前津見)
└ 多遅摩斐泥
└ 多遅摩比那良岐
└ 多遅摩比多訶・清彦
        └ 菅竈由良度

🔍 ひとこと:アメノヒボコ(天日槍)は、新羅から海を渡り、鉄を鍛え、但馬を開いた「渡来・製鉄・開拓」の神
→ 妻:麻拕能烏(またのお:麻多烏(またお))は、但馬の国の前津耳(まえつみみ:📚「異伝」前津見(まえつみ)・太耳(ふとみみ))の娘
→ 子孫:諸助(もろすけ)→ 日楢杵(ひならぎ)→ 清彦(きよひこ)→ 田道間守(たじまもり)
→ 『古事記』の妻
・・・阿加流比売神(アメノヒボコの最初の妻)が、日本の難波にわたり、比売語曽社の神になった
・・・アメノヒボコは、阿加流比売神を追って来日するも、難波に入れずに但馬に滞在
・・・そこで前津見(但馬の豪族の娘)と結婚
・・・▲『日本書紀』では
・・・比売語曽社の神は童女(名前はない)
・・・童女を追って来日するのは都怒我阿羅斯等(大伽耶の王子)
→ 垂仁天皇の段での記述で、アメノヒボコ本人・清彦(曾孫)・田道間守(玄孫)が登場する矛盾❗️

✅ 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと)は、天皇の従姉妹にあたる
→ 父:彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)は、天皇の叔父
→ 子:麛坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)は仲哀天皇の死後に反乱を企て、命を落とす

🔍 ひとこと:彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)の系譜
仲哀天皇の母:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
→ 播磨稲日大郎姫の妹は、『古事記』にのみ登場する、伊那毘能若郎女( いなびのわかいらつめ )
・・・伊那毘能若郎女も、景行天皇の妃
・・・伊那毘能若郎女の子:彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)
📚「異伝」では稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ)で、この読みは、『古事記』で妹として登場する伊那毘能若郎女と一致

✅ 妃:弟媛(おとひめ)は、大酒主(くくまたのみやつこ)の娘
→ 父:大酒主(おおさかぬし:来熊田造(くくまたのみやつこ)の祖)
・・・来熊田造は、上総国北西部(現・千葉県市原市菊間周辺)を本拠とした古代豪族で、後に「菊麻国造(きくま・くくま)の祖」とされる氏族
→ 子:誉屋別皇子(ほんやわけのみこ)
・・・『古事記』では、母は神功皇后で、15応神天皇の同母兄弟

事績

第13代成務天皇には男子の子がなく、甥の足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)が選ばれ、成務48年に31歳で立太子
・・・父・日本武尊は成務天皇の即位前に30歳で没しているため、計算上「父の死後に生まれた子」になってしまい、年代が合いません😆

🌟 即位元年(太歲壬申年1月11日):即位

🌟 即位元年11月:天皇は、父・日本武尊(やまとたける)が白鳥となって昇天したので、父を偲びたいと、諸国へ白鳥の献上を命ずる
→ 越国が献上した白鳥を、蘆髮蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ:天皇の異母弟)が、「焼けば黒鳥だ」と奪ったので、礼を欠いたとして誅殺

🌟 即位2年1月:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とした

🌟 即位2年2月:角鹿(つぬが:福井県敦賀市)に笥飯宮(けひのみや)を建てて滞在
→ その月に淡路屯倉(あわじのみやけ)を定めた

🌟 即位2年3月:南方(紀伊方面)へ巡幸、徳勒津宮(ところつのみや)に滞在(皇后は同行せず)
→ 熊襲が朝貢を拒否したので、討伐を決意し出発
→ 船で穴門(あなと:山口県下関)へ
→ 角鹿(つぬが)にいる皇后に使者を送り「穴門で合流しよう」と伝える

🌟 即位2年6月
天皇のルート:天皇は、豊浦津(とゆらのつ:下関市)に滞在
皇后のルート: 皇后は、角鹿を出発し渟田門(ぬたのみなと:常神半島と敦賀半島のあいだの海)に到着
→ 皇后が、船上の酒を海に注ぐと海鯽魚(たい:鯛)が酔ったように浮かび上がり、漁民が「聖王の賜物」と喜んだ
・・・📍6月に当地の鯛が口をぱくぱくさる伝承の由来とされる
→ 🌟即位2年7月:皇后は、豊浦津(とゆらのつ:下関市)に滞在、如意玉(にょいのたま:思いどおりに宝を出す玉)を海中から得た

🌟 即位2年9月:天皇と皇后が合流したと考えれらる
穴門(あなと:山口県下関)に豊浦宮(とゆらのみや)を建てた
・・・(合流シーンなどの記述はないが)天皇と皇后が、5年間ほど同地に滞在したと読むのが通説

🌟 即位8年1月 4日:筑紫(現在の福岡県)へ(天皇・皇后は別航路
天皇のルート:周芳の沙麼の浦(すわのさばのうら:山口県防府市佐波)では
熊鰐(くまわに:筑紫の岡県主の祖)が、✅「三種の神器をかたどった賢木を掲げた船」で、天皇を出迎え、魚塩の地(なしおのち:漁獲・製塩の権益)を献上
→ さらに、✅「関門海峡の両端を東西の関門として区切り」、✅「島々を天皇の食料庫のように見立て」て差し出し、逆見海(さかみのうみ:福岡県北九州市若松区の逆水という地名と関係?)が塩地と報告
→ ✅「海路の案内」をした
✅「三種の神器をかたどった賢木を掲げた船」
九尋(ここのひろ:尋は両手を左右に広げたときの幅)の船の先に五百枝(いおえ:数多くの枝)の賢木(さかき:榊:神事に用いられる常緑樹)を立て、 賢木(さかき:榊:神事に用いられる常緑樹)の上枝には白銅鏡・中枝には十握剣・下枝には八尺瓊を掛けた(三種の神器をミニチュアで再現)✅「関門海峡の両端を東西の関門として区切り」
▲東門:穴門(あなと:山口県下関市あたり)〜向津野大済(むかつのおおわたり:周防灘側への出口)
▲西門:名籠屋大済(なごやのおおわたり:=福岡県北九州市戸畑区の名籠屋崎?)
✅島々を天皇の食料庫のように見立て
▲ 沒利嶋(もとりしま:六連島?)・阿閉嶋(あへのしま):藍島?)は、御筥(みはこ:?)
▲ 柴嶋(しばしま:柴山・馬島説あり)は、御甂(みなへ:?)
・・・関門海峡の島々を皇室専用の漁場・塩場・備蓄庫として献上
✅ 海路の案内
→ 山鹿岬(やまかのさき:福岡県北九州市岩屋崎)を巡って岡浦(おかのうら)に入る
→ 岡水門(岡という地名にある水門(遠賀川河口))で進まなくなり、熊鰐(くまわに)に理由を問うと、「男女二柱の神:大倉主(おおくらぬし)・菟夫羅媛(つぶらひめ)の神意です」と答えた
→ 伊賀彦(いがひこ:倭国の菟田の舵取り)を祝(ほふり:祭祀役)に任命して神を祭ったら進んだ

🔍 ひとこと:三種の神器について
3~5世紀(弥生末~古墳前期) 各地の首長墓から鏡・剣・玉の3点セットが頻繁に出土していることから、権威を示すという感覚自体は、古墳時代の地方豪族まで共有されていたと考えらる
ただし「皇室だけの神器」というイメージは、7世紀の中央集権化と律令制の整備の中で形づくられたもの

皇后のルート:洞海(くきのうみ:北九州市洞海湾)入った際、潮が引いて進めなくなった
→ 熊鰐(くまわに)が戻り、魚や鳥を集めて皇后をなぐさめたところ、皇后の怒りが和らぎ、潮も満ちて船が動き、岡津に泊まった

天皇のルート:五十迹手(いとて:筑紫の伊覩県主の祖)が、天皇を迎える
→ 船に賢木を立てて三種の神器(上枝には八尺瓊・中枝には白銅鏡・下枝には十握剣)を飾り
→「八尺瓊の曲がっているように天下を治め、白銅鏡のように明らかに山川海原を看て、十握剣をひっさげて天下を平定していただきたい」と述べた
→ 天皇は 、「伊蘇志(いそし:勤))」と褒めた
・・・📍伊覩(いと:福岡県糸島郡):五十迹手の本土を「伊蘇国(いそのくに)」と名付けてなまった

🌟 即位8年1月12日:天皇と皇后が合流したと考えれらる
儺県(なのあがた:博多:奴国(なこく)とも関連?)に到着
橿日宮(かしひのみや)に滞在
・・・正月21日に天皇が橿日宮入り、皇后も加わり、橿日宮(かしひのみや)を拠点に九州での軍事・祭祀が展開したと考えられる

🌟 即位8年9月:天皇は、熊襲討伐を群臣と相談
→ 神が神功皇后に乗りうつってお告げ(熊襲ではなく新羅を得るべき)をした
→「熊襲は荒れ痩せた国である。挙兵するに足らない。海の向こうに、処女の睩(まよびき:眉・目を動かす意)のごとく、わが港に向く宝の国、目もくらむ金・銀・色鮮やかな品に満ちた「栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに:栲衾(たくぶすま)は白く清らかな布という意味あいの枕詞)」だ。
もしよく私を祭れば、その国は必ず自ずから服従し、また熊襲も服従するであろう。その祭りをするには天皇の御船と大田(おおた:穴門直践立が献上した水田)をお供えしなさい。」
→ 天皇は「海しか見えず国は見えない」と疑い、神の言葉を信じなかった
→ 神は、神功皇后に乗りうつって「あなたはその国(新羅)を得られないが、皇后が宿している子はそれを得るだろう」と告げた
→ 天皇は、熊襲討伐を強行したが失敗し、帰還した

🌟 即位9年2月5日:天皇は急に病にかかり、翌日崩御(52歳)
→ 神を信じなかった罰だと理解された
📚「異伝」では、熊襲討伐中に敵の矢を受けて亡くなった
→ 皇后と大臣・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連の4人に、天皇の死を隠すように命令し、宮中を守らせた
→ 遺体は武内宿禰が、海路で穴門へ運び、豊浦宮で无火殯斂(ほなしあがり:死を秘するために灯火をたかない殯(もがり))をした
🌟 即位9年2月21日:武内宿禰は穴門から帰って皇后に報告
→この年、新羅遠征のため葬儀は行えなかった

🕓 更新日:2025年7月18日

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