物部氏

物部氏は、4〜6世紀の日本列島で、大王家に近い立場から軍事・武器管理・祭祀を担当した有力氏族である。ヤマト王権の武力基盤を支えた一方、仏教受容をめぐる対立の中で蘇我氏との抗争に敗れ、6世紀末に政治的主導権を失った。

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系譜上では、物部尾輿(おごし)、物部麁鹿火(あらかひ)、物部守屋(もりや)といった人物が知られ、大王家の近臣として重要な役割を果たしたとされる。古墳時代の王権が、周辺勢力との戦いや内紛を通じて勢力圏を拡大していく過程で、物部氏はその軍事的支柱として機能していた可能性が高い。考古学的には、鉄製武器や甲冑の副葬、武人を象徴する埴輪などとも関連づけられることが多い。

6世紀に入ると、物部氏は仏教受容をめぐる政治闘争の中心に立つことになる。伝統的な神々への信仰を重んじる立場から、物部氏の指導者たちは新来の仏教信仰に慎重・反対の姿勢をとったとされ、仏教を推進する蘇我氏と対立した。『日本書紀』は、この対立を「蘇我・物部の宗教対立」として描き、最終的に物部守屋が討たれて蘇我氏が勝利する場面を強調している。

史料表現には誇張や後世の編集も含まれると考えられるが、いずれにせよ、物部氏が6世紀末の政変を経て中央政治から大きく後退したことは確かである。その後も、物部の名を継ぐ一族や地方豪族的な系統は残存した可能性があるが、「王権軍事の表看板」としての立場は、他の氏族や律令制下の官僚・軍制に徐々に吸収されていった。

物部氏の歴史は、古墳時代の「武力をともなう王権」のあり方と、飛鳥時代初期の宗教・政治の転換(仏教受容・豪族政治から律令国家へ)をつなぐ重要な手がかりである。軍事力と祭祀を握る古いエリートが、制度化された官僚制と新しい宗教文化の中でどう位置づけ直されていったのかを考えるうえで、物部氏は欠かせない事例となっている。

クイック情報

別名・異表記物部臣、物部連
活動期4世紀ごろ〜6世紀末(古墳時代中期〜後期)。
分類軍事・武器管理を中心とする中央豪族・武の氏族。
勢力圏大和盆地周辺(河内・河内湖沿岸など)を基盤とし、王権の軍事行動・物資動員に広く関与。
終局587年の崇峻天皇即位前後の政変(仏教受容をめぐる対立)で物部守屋が滅ぼされ、氏族としての政治的主流は後退。
影響ヤマト王権の拡大期における軍事力・武器庫管理、仏教受容の是非をめぐる抗争を通じて、古墳時代から飛鳥時代初期の政治構造に大きな影響を及ぼした。

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4〜5世紀ごろ物部氏が大和王権のもとで武器管理・軍事活動を担う氏族として台頭し、中央豪族の一角を占める。
C(系譜・古記録の伝承をもとにした概略)
6世紀前半物部尾輿・物部麁鹿火らが王権中枢で軍事・政務に関与し、他の有力氏族と並ぶ地位を確立する。
B(『日本書紀』の記事に基づく再構成)
6世紀中葉新来の仏教受容をめぐり、物部氏は慎重・反対の立場をとり、蘇我氏との対立が表面化する。
B(宗教対立として描かれるが、実態には政治・人事要素も含まれると考えられる)
587年物部守屋が蘇我氏との戦いに敗れ、討たれたとされる。これにより物部氏の中央政治における主導的地位が失われる。
B(年代・事件は史書に明記されるが、詳細な経緯には議論が残る)
6世紀末〜7世紀初頭物部氏の勢力は後退し、軍事・祭祀の役割は他の氏族や律令制下の官制へと再配分されていく。
C(直接の記事は少なく、政治構造の変化からの推定を含む)

事績(特集へのリンク)

物部氏:武器と祭祀を担った王権軍事氏族

物部氏は、古墳〜飛鳥移行期のヤマト王権で武器庫と軍事力、神々の祭祀を担った氏族であり、仏教受容をめぐる対立の中で蘇我氏に敗れて古い軍事エリート秩序が崩れていく過程を象徴している、いわば終末古墳時代の秩序を体現した側である。

⤴︎ 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期〜飛鳥)

主要人物

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