天智天皇(てんじてんのう)は、7世紀の日本列島(主に飛鳥・近江地域)で活動した皇族の王子・天皇であり、蘇我氏打倒と大化改新、白村江の戦い、近江遷都と律令制の準備などを通じて、古代日本の中央集権化を大きく前進させた統治者である。
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中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)のあいだに生まれた皇子で、幼名として葛城皇子とも呼ばれた。7世紀前半には、蘇我氏が天皇家に対して圧倒的な影響力を持つ状態が続いていたが、皇子は中臣鎌足(のち藤原鎌足)らと結び、蘇我氏打倒に向けた政変計画を進めていった。
645年、皇子は飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺し、父の蘇我蝦夷を自殺に追い込んだ。この事件は「乙巳の変」と呼ばれ、蘇我氏による専横支配を終わらせる転機となった。続いて即位した孝徳天皇のもとで、中大兄皇子は皇太子として政務の中心に立ち、中国の律令制をモデルとした中央集権的な国家づくりをめざす一連の方針――「改新の詔」に象徴される大化改新――を推進したとされる。公地公民制や国郡制、班田収受法、租庸調制など、のちの律令国家の骨格をなす制度の原型がこの時期に構想されたと理解されている。
その後も中大兄皇子は、孝徳・斉明両天皇の皇太子として事実上の政権運営を担い、国内の政治改革とともに、朝鮮半島情勢にも深く関わった。660年代には、唐・新羅連合による百済攻撃に対して日本が百済救援軍を派遣し、663年には白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦ったが、倭・百済連合軍は大敗を喫した。この敗戦は、日本側が朝鮮半島への軍事的関与を縮小し、防衛強化と内政整備へと重点を移す契機となったと考えられている。
661年に斉明天皇が没すると、中大兄皇子は正式な即位を行わないまま政務をとる「称制」の形で政権を握り、近江の大津へ都の移転を進めた。668年になって近江大津宮で即位し、天智天皇として名実ともに第38代天皇となる。近江宮の天智政権は、戸籍「庚午年籍」の作成や、22巻からなるとされる近江令の編纂など、律令制下の人口把握と法典整備に向けた重要なステップを踏んだ。これらは大宝律令など後代の律令法典の先駆けとして評価されているが、原本は失われており、内容の詳細は不明な点も多い。
一方で、天智天皇の政治手法は強権的な側面も指摘される。改革の過程で多くの有力豪族が失脚・処罰され、国内の緊張も高まった。672年の天智崩御後には、子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子(天武天皇)とのあいだで壬申の乱が起こり、内戦の末に大海人側が勝利して天武朝が成立する。壬申の乱は、天智朝の権力構造や継承政策が残した矛盾が噴き出したものとして位置づけられている。
天智天皇の評価は、時代とともに変化してきた。伝統的には、大化改新と律令国家の準備を進めた「改革の立役者」として高く評価されてきたが、近年の研究では、彼個人の主導性とともに、藤原鎌足ら官人層の役割や、各種改革が実際にどこまで行き届いたのかを慎重に見直す動きもある。
クイック情報
| 別名・異表記 | 第38代天皇 / 葛城皇子/中大兄皇子 |
| 活動期 | 7世紀中葉(飛鳥時代中期)/生涯:626年生〜672年1月7日没 |
| 役割 | 蘇我氏の専横を打倒し、大化改新と近江令・戸籍制度などを通じて、天皇中心の律令国家体制への移行を大きく進めた改革推進者。 |
| 主な拠点 | 大和国飛鳥地域(飛鳥の宮)/難波宮/近江大津宮(近江宮・大津京)。 |
| 特記事項 | 大化改新や近江令・庚午年籍などの具体的な政策への関与度については、近年の研究で再検討が続いている。 |
ミニ年表
| 626年 | 舒明天皇の第2皇子として誕生。皇位継承に近い立場に置かれる。 |
| 645年 | 中臣鎌足らとともに蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追い込む「乙巳の変」を主導。蘇我氏の専横を終わらせる。 |
| 646年以降 | 孝徳天皇の皇太子として「改新の詔」に象徴される大化改新を推進し、公地公民制・国郡制・班田収受法・租庸調制などの改革路線を打ち出す。 |
| 660〜663年 | 斉明天皇・中大兄皇子政権が百済救援のために出兵し、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗する。 |
| 668年 | 近江大津宮で即位し、天智天皇となる。以後、近江宮を拠点として中央集権化政策を進める。 |
| 670年前後 | 戸籍「庚午年籍」の作成や、22巻からなるとされる近江令の編纂を行い、律令制下の法・人口把握の基盤づくりを進める。 (編纂の存在は知られるが、具体的内容や施行状況は断片的な伝承にもとづく) |
| 672年 | 近江宮で崩御。後継をめぐる対立から壬申の乱が勃発し、弟の大海人皇子(天武天皇)側が勝利して新たな王権が成立する。 |
事績(特集へのリンク)
天智天皇:蘇我打倒から近江遷都まで、律令国家準備を進めた改革の軸
天智天皇(中大兄皇子)は、乙巳の変で蘇我氏の専横を終わらせて大化改新を主導し、白村江の敗戦を経て近江大津宮に都を移し、戸籍(庚午年籍)や近江令などを通じて、倭王権を天皇中心の律令国家へ近づける「準備段階」の政治と空間づくりを担った人物である。
