天武天皇(てんむてんのう)は、7世紀の日本列島(主に飛鳥・近江地域)で活動した皇族の王子・天皇であり、壬申の乱に勝利して即位したのち、皇族中心の支配体制や八色の姓による氏族再編、律令国家への橋渡しとなる諸改革を進めた統治者である。
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大海人皇子は、飛鳥時代の中枢を担った皇室の一員として生まれ、兄の中大兄皇子(天智天皇)とともに7世紀政治の舞台に登場する。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)で、いわゆる「天智・天武兄弟」は同母兄弟とされる。生年は伝承によって幅があるが、近年の研究では630年前後が有力視されている。
天智天皇のもとで大海人皇子は有力な皇位継承候補だったが、天智は自らの子である大友皇子に継承させようとし、兄弟関係は微妙な緊張をはらんだものとなったと伝えられる。天智晩年、大海人皇子はいったん出家して吉野へ退くが、これは表向きの出家であり、実際には政変への備えだったと見る解釈もある。
672年、天智崩御後に大友皇子を中心とする近江朝廷側と対立し、大海人皇子は吉野を出て東国方面に兵を募り、壬申の乱と呼ばれる内戦を起こした。結果として大海人側が勝利し、大友皇子は自殺に追い込まれる。壬申の乱は、古代日本における最大規模の王位継承戦争とされ、その勝利をもとに大海人皇子は自らの王権基盤を築き上げた。
673年、大海人皇子は飛鳥に戻り、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となる。即位後の天武は、兄の天智が進めた中央集権化路線を引き継ぎつつも、皇族を頂点とする新しい身分秩序を強化する方向へ舵を切った。とくに八色の姓と呼ばれる新たなカバネ制度を導入し、従来の「大臣家・大連家」など有力氏族の称号体系を組み替え、皇族や皇族に近い家系をヒエラルキーの最上位に置いたことは象徴的である。これにより、蘇我氏や大伴氏のような古い豪族中心の政治から、皇族とそれに連なる一門・官人層を軸とする国家へと重心が移っていった。
また、天武朝は律令国家成立に向けた制度整備を本格化させた時期でもある。行政組織として太政官・八省制を整え、刑罰や裁判を扱う司法機能を強化するとともに、法典編纂(のちの大宝律令へつながる作業)の指示を出したとされる。神祇面では、伊勢神宮(伊勢神宮内宮)を天皇家の祖神・天照大神をまつる特別な神社として位置づけ直し、仏教面では寺院統制の制度化や大規模な経典書写事業などを行った。これにより、神祇・仏教の両面で王権との結びつきがいっそう強まった。
空間政策の面では、天武は飛鳥に宮を構えつつ、新たな都城建設の候補地として藤原京の予定地を定めたとされる。実際の藤原京完成は、天武の没後に皇后の持統天皇のもとで実現するが、格子状の街路・宮城・官衙・寺院を組み合わせた本格的な都城構想の起点として、天武朝は重要な位置を占める。
686年、天武天皇は飛鳥で崩御し、長期にわたる喪と政治的空白ののち、皇后の持統天皇が後を継いだとされる。天武の子孫はのちの天武系諸天皇として続き、8世紀初頭に完成する『古事記』『日本書紀』は、天武朝のイニシアティブにもとづいて編纂準備が進められたと考えられている。こうした点から、天武天皇は「壬申の乱で即位した武闘派の勝者」であると同時に、「律令国家と神話的王権像の基礎を固めた構想者」としても評価されている。
クイック情報
| 別名・異表記 | 第40代天皇 / 大海人皇子 |
| 活動期 | 7世紀中葉(飛鳥時代中〜後期)/生涯:おおむね631年ごろ生〜686年10月1日没 |
| 役割 | 壬申の乱で天智系を倒して即位し、皇族中心の官僚制・八色の姓・律令法典編纂の準備・都城計画など、天皇権力の強化と律令国家の骨格づくりを進めた。 |
| 主な拠点 | 大和国飛鳥地域(飛鳥・浄御原宮)/吉野(出家・挙兵の拠点)/一時期は近江宮をめぐる政治・軍事行動にも関与。 |
| 特記事項 | 在位中に「天皇」号を実際に用いた最初期の君主とみなされることが多く、また八色の姓や皇族への高位授与を通じて、従来の有力氏族(蘇我・大伴など)の地位を相対的に下げたと理解されている。 |
ミニ年表
| 630年前後 | 舒明天皇の第2皇子として誕生。皇位継承皇極天皇と舒明天皇の皇子として生まれる(大海人皇子)。生年には諸説あるが、近年は630年前後と推定される。 |
| 671年ごろ | 天智天皇の病勢が深まるなか、いったん出家して吉野へ下る。形式上は出家だが、のちの壬申の乱の前史として解釈されることが多い。 |
| 672年 | 天智死後、大友皇子と対立して挙兵し、壬申の乱に勝利する。これにより、自らの王権基盤を確立。 |
| 673年 | 飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇として正式に皇位につく。以後、皇族中心の支配体制と諸制度の再編を進める。 |
| 684年 | 八色の姓と呼ばれる新たなカバネ制度を導入し、皇族・王に近い氏族・忠誠を誓った氏族に高位の称号を与えることで、従来の豪族秩序を組み替える。 |
| 686年 | 天武天皇が飛鳥で崩御。長期の服喪期間を経て、皇后の持統天皇が後を継ぎ、天武系王権が本格的な律令国家形成へ向かう。 |
事績(特集へのリンク)
天武天皇:壬申の乱から皇族国家へシフトさせた天皇
天武天皇(大海人皇子)は、672年の壬申の乱で天智系を倒して即位し、飛鳥浄御原宮を拠点に八色の姓や皇族中心の官僚制、藤原京構想・律令編纂準備などを進めることで、豪族連合的な倭王権を「天皇と皇族を軸にした律令国家」へと大きく近づけたキーパーソンである。天武朝で天皇号が制度的に定着したと考えられる。
