持統天皇(じとうてんのう)は、7世紀後半の日本列島(主に飛鳥・藤原京地域)で活動した女帝であり、天武天皇の皇后として壬申の乱後の新王権を支え、その崩御後には自ら即位して飛鳥浄御原令の施行や藤原京遷都を進め、律令国家体制の整備と皇位継承の新たな枠組みを方向づけた統治者である。
もっと詳しく
持統天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の皇女として生まれ、幼名を鸕野讃良皇女といった。母は蘇我氏系の蘇我遠智娘とされ、父方で大化改新を推し進めた王統に属し、母方で古くからの有力氏族につながる血統を持つ。657年には、父の弟にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり、草壁皇子らをもうけた。
672年の壬申の乱では、夫の大海人皇子が兄の天智天皇の系統と争って挙兵し、勝利して天武天皇として即位した。持統はこの過程で大海人側の中核に位置する皇女・妃として行動したと想定されており、新王権成立後は皇后として天武政権を内側から支えた。天武朝では、皇族中心の新たな身分秩序(八色の姓)や律令法典編纂の準備、伊勢神宮の位置づけ直しなど、のちの律令国家の基盤が整えられていく。
686年に天武天皇が崩御すると、草壁皇子が皇太子として想定されていたものの即位には至らず、持統皇后が「称制」の形で自ら政務に当たる体制が取られた。689年には飛鳥浄御原令が施行されたとされ、律令制の運用規則(令)の一部が実際に適用され始める。翌690年、鸕野讃良皇女は正式に即位して持統天皇となり、皇后称制から女帝としての統治へと移行した。
持統朝の大きな事績のひとつが、藤原京遷都である。藤原京は、格子状の街路と宮城・官衙・寺院区画を備えた、唐の都城制を意識した日本初の本格的都城とされる。天武天皇の代から構想・造営が始まり、持統天皇は690年に造営を再開し、694年に遷都を実現した。これにより、飛鳥時代の宮の移転を繰り返す政治スタイルから、固定的な都城を持つ律令国家への転換が現実のものとなった。
持統はまた、皇位継承のあり方に大きな影響を与えたとされる。壬申の乱までの王権は、兄弟間継承も多く、継承ルールが必ずしも固定されていなかったが、持統は草壁皇子の血統を中心とした子・孫への継承を強く志向し、自らの孫にあたる文武天皇への譲位を実現した。このプロセスは、天武系王権内部での親子継承を重視する方向づけとして理解されることが多い。
697年、持統天皇は文武天皇に譲位し、以後は太上天皇としてなお政治的影響力を保ったとみられる。703年(あるいは702年)に没した際には、遺言により倹約的な葬儀と火葬が行われ、天武天皇とともに檜隈大内陵に合葬されたと伝えられる。火葬された最初の天皇とされる持統の葬制は、仏教と王権の関係が深まった飛鳥時代後期の変化を象徴するものとも言える。
このように、持統天皇は、壬申の乱後の新王権を継承しつつ、律令法の施行と都城制の都の実現、皇位継承の安定化を通じて、「天武国家」を「律令国家」へとつなぐ役割を担った女帝であったと評価される。
クイック情報
| 別名・異表記 | 第41代天皇 / 鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ) |
| 活動期 | 7世紀後半(天智朝の皇女期〜天武朝の皇后期〜持統朝の女帝期)/生涯:645年生〜703年(702年没とする異説もある) |
| 役割 | 天武王権を継承して女帝として即位し、飛鳥浄御原令の施行徹底と藤原京遷都によって律令国家の都城と皇位継承ルールを固めた。 |
| 主な拠点 | 大和国飛鳥地域(飛鳥浄御原宮)/藤原京(現・奈良県橿原市付近) |
| 特記事項 | 日本史上3人目の女帝であり、日本で初めて火葬された天皇とされる。藤原京は日本最初の本格的な都城制都城と評価され、持統の治世は古墳・飛鳥から律令国家への橋渡し期として位置づけられている。 |
ミニ年表
| 645年 | 天智天皇(中大兄皇子)の皇女として生まれる。 |
| 657年 | 大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となる。のちに草壁皇子らをもうる。 |
| 686〜689年 | 天武天皇崩御後、草壁皇子が即位しないまま、皇后として「称制」の形で自ら政務を執り、飛鳥浄御原令の施行準備と運用を進める。 |
| 690年 | 正式に即位し、持統天皇となる。天武王権を継承した女帝として、律令国家体制の整備を進める。 |
| 694年 | 藤原京に遷都し、日本初の本格的都城制都市を完成させる。以後、藤原京は文武・元明朝にかけて都として機能する。 |
| 697年 | 孫の文武天皇に譲位し、自身は太上天皇となる。 |
| 702〜703年 | 持統天皇が没し、天武天皇とともに檜隈大内陵に合葬される。火葬された最初の天皇とされ、仏教の影響と葬制変化の象徴とみなされる。 |
事績(特集へのリンク)
持統天皇:藤原京と継承ルールで律令国家を固めた女帝
持統天皇は、天武天皇の皇后として壬申の乱後の新王権を支え、その崩御後に自ら女帝として即位して飛鳥浄御原令の施行と藤原京遷都を実現し、親子継承を重視する皇位継承の運び方とともに、「天皇と都城・律令」をセットにした日本古代国家のかたちを実地に固めていった人物である。
