中臣鎌足(藤原鎌足)

中臣鎌足(藤原鎌足)は、7世紀の日本列島(主に飛鳥・近江地域)で活動した中央貴族・政治家であり、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変を起こして蘇我氏を倒し、大化改新と律令体制への準備を進めたのち、死の直前に「藤原」姓を賜って藤原氏の祖となった人物である。

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中臣鎌足は、神祇祭祀を担当する中臣氏に生まれ、幼名を「鎌子」といった。出自については、大和(奈良)起源説と常陸の鹿島起源説などがあり、鹿島神宮との結びつきを語る伝承も残る。いずれにせよ、若い頃から利発で、宮廷に出仕してからは祭祀のみならず政治・儀礼全般に通じた官人として頭角を現したとされる。

7世紀前半の飛鳥政界では、蘇我蝦夷・蘇我入鹿ら蘇我氏が天皇家を凌ぐ勢いで権力をふるっていた。鎌足は、皇太子格の中大兄皇子と結び、蘇我氏打倒の計画を練る。645年、皇極天皇の御前・板蓋宮での朝儀の場で、鎌足と中大兄らは蘇我入鹿を急襲して殺害し、父の蝦夷も自害に追い込まれた。これが「乙巳の変」であり、日本史上はじめて意識的に仕組まれたクーデターとして位置づけられている。

乙巳の変ののち、中大兄皇子は叔父の孝徳天皇を擁立し、自らは皇太子として政務の中心に立つ。鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられ、朝廷の内政全般と儀礼を取り仕切る立場となった。646年の「改新の詔」に象徴される大化改新では、公地公民制・郡県制(国郡制)・班田収受の構想など、中国・隋唐風の中央集権的な国家体制が掲げられ、鎌足はその立案・実務に深く関わったとされる。ただし、どの条項を誰が具体的に設計したかについては、史料上は必ずしも明瞭ではなく、後世の理想化を差し引いて読む必要がある。

宗教的には、中臣氏は本来、神祇祭祀を通じて神道的権威を支える立場にあったが、鎌足個人は仏教信仰にも厚かったと伝えられる。長子の定恵を出家させたことや、維摩会の開催、元興寺の講説への財政支援などが記録されており、神祇氏族出身の官人が、仏教を国家統治の理念・教養として取り込もうとした姿がうかがえる。

天智朝に入ると、鎌足は近江大津宮を拠点とする新体制のもとで、礼制や法令の整備にも関わったとされる。『大織冠伝』などの伝承によれば、668年には礼を撰述し、律令を「刊定」したとされ、のちに大宝律令へとつながる近江令編纂の準備作業に関与したと理解されている。ただし、近江令そのものは現存せず、具体的な内容・施行状況は断片的な記録からの復元にとどまる。

669年、鎌足は近江で病に倒れた。天智天皇はその功績をねぎらい、当時最高位の冠位である大織冠(たいしょくかん)と、「藤原朝臣(ふじわらのあそん)」の新しい姓を授ける。これにより、中臣鎌足は名実ともに「藤原鎌足」となり、その子・不比等以降の藤原氏が奈良・平安の長期にわたる摂関政治の担い手となっていく。

20世紀以降、大阪府高槻市の阿武山古墳から出土したミイラと副葬品の調査により、この古墳が鎌足の墓である可能性が高いと報告された。最高級の冠帽や、スポーツマン型の骨格・落馬によるとみられる脊椎損傷などが記録に伝わる鎌足の最期と整合するとされるが、決定的証拠に欠ける点もあり、慎重な議論が続いている。

クイック情報

別名・異表記中臣鎌子/諡・神号として談山権現・談山大明神など
活動期7世紀中葉(推古末〜天智朝)/生涯:614年〜669年
役割中大兄皇子とともに蘇我氏打倒と大化改新を主導し、内臣として律令制・礼制整備の基礎づくりを進めたのち、「藤原」姓を与えられて後世の藤原氏政権の出発点となった中央官人・改革推進者。
主な拠点飛鳥の宮(皇極・斉明・天智朝の宮)/難波宮/近江大津宮(近江宮)/近江・大和一帯の別業(阿武山古墳周辺など、墓所候補地を含む)
特記事項本来は神祇祭祀を担う中臣氏の出身だが、のちには仏教への信仰も厚く、子の定恵を出家させるなど神祇と仏教双方に関わったとされる。大阪府高槻市の阿武山古墳は、X線調査などから鎌足の墓である可能性が高いとされているが、確定にはなお議論がある。

ミニ年表

614年中臣御食子の子として生まれる。幼名は中臣鎌子とされ、神祇祭祀を担う中臣氏の一員として育つ。
645年蘇我入鹿を急襲して討つ「乙巳の変」を中大兄皇子らとともに実行し、蘇我氏の専横を終わらせる。
646年以降孝徳天皇のもとで内臣に任じられ、「改新の詔」に象徴される大化改新政策を中大兄皇子とともに推進し、中国風の中央集権体制の導入を図る。
657年ごろ仏教に深く帰依し、維摩会を開くなど元興寺の講説を支援したと伝えられる。神祇氏族出身でありながら仏教保護にも積極的だったと理解される。
(『大織冠伝』など伝承色の強い史料に基づく)
668年近江令編纂作業への関与が推定される。
(令そのものが現存せず、作業内容は後代の記録による)
669年近江で病没する直前、天智天皇から大織冠内大臣の位と「藤原朝臣」の姓を賜り、藤原鎌足として没する。藤原氏はのちに摂関家として日本古代・中世政治の中心勢力となる。

事績(特集へのリンク)

中臣鎌足:大化改新で律令国家の制度づくりを動かした官人

中臣鎌足(藤原鎌足)は、神祇氏族出身の中央官人として中大兄皇子と結び、645年の乙巳の変で蘇我氏を倒して大化改新を推し進め、内臣として中国式の官制・律令・礼制の導入を準備したのち、死に際して「藤原」姓を与えられ、のちに日本国の律令国家を動かす藤原氏政権の出発点となった人物である。

⤴︎ 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期〜飛鳥)