はじめに
天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介
▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある
▲ 📚「異伝」について本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)
▲📍:地名などの由来
▲ 📘『先代旧事本紀』
→ 正史ではなく、物部・忌部など祭祀氏族の視点が色濃い別立場から書かれた歴史書
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/先代旧事本紀
基本情報
在位期間 | 71年~130年(享年106歳) |
皇居 | 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや:奈良県桜井市) |
陵 | 山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ:奈良県天理市:渋谷向山古墳) |
和風諡号 | 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) |
父 | 垂仁天皇(第三皇子) |
母 | ✅日葉酢媛命(ひばすひめのみこと) |
皇后 | ✅播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) ✅八坂入媛命(やさかいりびめのみこと) |
系譜(特記事項) | ✅ 妃が多く、子どもは計80人 |
系譜
✅ 母:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ:9開化天皇の皇子)の子である丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)の娘
→ 子:五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと:石上神宮(武器庫のような場所)を管掌)
→ 子:大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと:第12代景行天皇)
→ 子 : 大中姫命(おおなかつひめのみこと:第14代仲哀天皇の妃と同名?)
→ 子 : 倭姫命(やまとひめのみこと:初代斎王)
🔍 ひとこと:彦坐王(ひこいますのみこ)
『古事記』では日子坐王(開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)の第三皇子)とあり、詳細な系譜が記される人物、子孫に神功皇后(息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)がいる
→ 子:丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は、四道将軍の一人
・・・丹波道主命の娘:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の2番目の皇后
・・・丹波道主命の母は、息長水依比売命(アメノミカゲ(天之御影神)という神様の娘)
・・・この神さまは、近江国の三上山のご神体で、刀鍛冶の神
→ 子:狭穂姫命(さほひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の最初の皇后
・・・兄:狭穂彦王(さほひこのみこ)に天皇殺害をそそのかされ失敗し、兄妹は自害
・・・二人の母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の娘)
✅皇后:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
→ 父:稚武彦命(わかたけひこのみこと:孝霊天皇の皇子:吉備氏の祖)
・・・『古事記』では若建吉備津日子(わかひこたけきびつひこのみこと)
→ 子(双子の兄):大碓皇子(おおうすのみこ:身毛津君(むげつうのきみ)・守君(もりのきみ)の祖)
→ 子(双子の弟):小碓尊(おうすのみこと:日本童男(やまとおぐな)✅日本武尊(やまとたけるのみこと))
・・・『古事記』では、命令を無視した大碓命(兄)を小碓尊(弟)が殺害
→ 妹『古事記』にのみ登場:伊那毘能若郎女( いなびのわかいらつめ )は、同じく景行天皇の妃
・・・伊那毘能若郎女の子:彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)
・・・彦人大兄命の娘:大中姫は、第14代仲哀天皇の妃
・・・大中姫の子:麛坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の死後に反乱を企て、命を落とした
📚「異伝」
▲稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ)
→ 読みが『古事記』で妹として登場する伊那毘能若郎女と一致
📚「異伝」
→ 子:稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
✅ 日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃と子ども
妃:両道入姫命(ふたじのいりびめのみこ:垂仁天皇の皇女)
→ 子:稲依別王(いなよりわけのみこ:犬上君・武部君の始祖)
→ 子:足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと:14仲哀天皇)
→ 子:布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)
→ 子:稚武王(わかたけのみこ)
妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ:吉備武彦の娘)
→ 子:武卵王(たけかひごのみこ:讃岐綾君の始祖)
→ 子:十城別王(とおきわけのみこ:伊予別君の祖)
妃:弟橘媛(おとたちばなひめ:穂積氏忍山宿禰の娘)
→ 子:稚武彦王(わかたけひこのみこ)
🔍 ひとこと:日本武尊(記紀での描き方の違い)
『古事記』では、兄・大碓命を殺したことで、その残忍さを父・景行天皇に恐れられ、疎まれる存在として描かれる
『日本書紀』では、兄殺しのエピソードは無く、父に疎まれるという設定もない
✅皇后:八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)は、播磨稲日大郎姫の没後、皇后に昇格
→ 父:八坂入彦命(父:崇神天皇・母:尾張大海媛)・母:未詳
→ 子:稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:第13代成務天皇)
→ 子:五百城入彦皇子(いほきいりびこのみこ)
・・・『古事記』では五百城入彦の子:品陀真若王(ほんだのまわかのみこ)
・・・品陀真若王の娘(仲姫命)は第15代応神天皇の皇后
・・・品陀真若王の娘(高城入姫命)は第15代応神天皇の妃
・・・品陀真若王の娘(弟姫命)は第15代応神天皇の妃
→ 子:忍之別皇子(おしのわけのみこ)
→ 子:稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
→ 子:大酢別皇子(おおすわけのみこ)
→ 子:渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
→ 子:渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)
→ 子:五百城入姫皇女(いほきいりびめのひめみこ)
→ 子:麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)
→ 子:五十狹城入彦皇子(いさきいりびこのみこ:📘『先代旧事本紀』では「三河長谷部直」の祖)
→ 子:吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)
→ 子:高城入姫皇女(たかきいりびめのひめみこ)
→ 子:弟姫皇女(おとひめのひめみこ)
妃:水歯郎媛(みずはのいらつめ:三尾氏の磐城別の妹)
→ 父:磐衝別命(いわつくわけのみこと:11垂仁天皇の皇子)
→ 子:五百野皇女(いおののひめみこ:伊勢神宮に斎王として派遣された後、帰京途中に現在の三重県津市美里町五百野で亡くなった)
妃:五十河媛(いかわひめ)
→ 子:神櫛皇子(かみくしのみこ:「讚岐国造」の始祖)
→ 子:稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ:「播磨別」の始祖)
妃:高田媛(たかだひめ:阿倍氏木事の娘)
→ 子:武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ:「御村別」の始祖(伊予国))
妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
→ 子:日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ:「阿牟君」の始祖(阿武国:山口県萩市のあたり))
妃:襲武媛(そのたけひめ)
→ 子:国乳別皇子(くにちわけのみこ:「水沼別」の始祖(筑紫国))
→ 子:国背別皇子(くにせわけのみこ:📚「異伝」宮道別皇子(みやじわけのみこ))
→ 子:豊戸別皇子(とよとわけのみこ:「火国別」の始祖(肥前+肥後))
妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)
→ 子:豊国別皇子(とよくにわけのみこ:「日向国造」の始祖)
✅ 別王(わけのみこ)について
『日本書紀』には、「景行天皇の子どもは計80人。成務天皇・ヤマトタケル・五百城入彦を除く70余人の皇子を各地に封じ、国造・和気・稲置・県主などに任じた。ゆえに諸国の “○○別(わけ)” 姓はこれら別王(わけのみこ)の後裔である」とある
・・・別(わけ)はもともと4〜5世紀に皇族が用いた尊称で、のちに地方豪族にも賜与・改姓されて広まった称号(後付けかな🤔)
事績
🌟 即位元年(太歲辛未年7月11日):即位
🌟 即位2年3月:播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后とした
🌟 即位3年2月:天皇は、紀伊国への行幸を中止(占いが吉兆でなかったため)
→ 屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと:📚「異伝」武猪心(たけいごころ))を代わりに派遣
→ 屋主忍男武雄心命は、阿備の柏原(あびのかしはら)に9年間住み、神々をまつった
→ その間に、影媛(かげひめ:菟道彦(うじひこ:紀直の祖)の娘)と結婚
→ 武内宿禰(たけのうちのすくね)が生まれた
🌟 即位4年2月:天皇は、美濃で弟媛(おとひめ:八坂入彦皇子(やさかいりびめのみこと:10崇神天皇の皇子)の娘)を、妃にしようとした
→ 弟媛(おとひめ)は 、断りきれず関係を持ったが、妃になることは拒否、姉の八坂入媛(やさかいりびめ)を推薦
→ 天皇はそれを受け入れ、八坂入媛(やさかいりびめ)を妃に迎えた
🌟 即位4年2月:美濃国造の神骨(かんぼね)の娘で美しいと評判の姉妹:兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)の噂を聞いた天皇は、大碓命(おおうすのみこと)を派遣
→ 大碓命(おおうすのみこと)は、姉妹と通じて報告しなかったので、天皇は恨みに思った
🌟 即位4年11月:美濃から戻り、都を纒向(奈良県桜井市)の日代宮(ひしろのみや)に定めた
即位12年〜19年:天皇の九州巡幸(熊襲・土蜘蛛の討伐)
🌟 即位12年7月:九州の熊襲(くまそ)が朝貢を拒む
🌟 即位12年8月:討伐のため、筑紫へ向かう
🌟 即位12年9月:周芳の娑麼(すわのさば:山口県防府市佐波)に到着
→ 武諸木(たけもろき:多臣の祖)・の菟名手(うなて:国前臣の祖)・夏花(なつはな:物部君の祖)を偵察に派遣
→ 神夏磯媛(かんなつそひめ:女首長)が登場
→ 4人の賊(鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおちいおり))の情報を提供
→ 天皇の配下は、贈り物を使って誘き寄せて4人とも誅殺
→ 豊前国の長狹県(ながおのあがた)に到着し、行宮(仮の宮)を建てた
・・・📍京(みやこ:福岡県京都郡)の由来
🌟 即位12年10月:碩田国(おおきたのくに:大分県)に到着
・・・📍碩田国(おおきたのくに:大分県の古名):国土が広く美しかったため(大きな田)
→ 速津媛(はやつひめ:女首長)が登場
→ 5人の土蜘蛛(青(あお)・ 白(しろ)・打猨(うちさる)・八田(やた)・国摩侶(くにまろ))の情報を提供
→ 天皇は、強行せずに一時進軍を止め、來田見邑(くたみのむら)に行宮(仮の宮)を建てた
→ 討伐を決断
→ 海石榴(つばき:椿)の木から武器(槌)つくり討伐
・・・📍血田(ちだ):血が流れてくるぶしまで達したところ
・・・📍海石榴市(つばきち):海石榴の槌をつくったところ
→ 禰疑山(ねぎやま)を越える際に、矢が降り注ぐ
→ 天皇は、占いをして戦力を整えた後に出撃(八田、打猿を討伐)
→ 天皇は、柏峡大野(かしわおのおおの)に泊まり、大きな石に「土蜘蛛を滅ぼせるなら、この石は飛ぶはず」と祈る
→ 石を蹴ると、空へ舞い上がり「蹈石(ほみし)」と名付けた
→ この時祈った神々は:志我神(しがのかみ)・直入物部神(なおいりのもののべのかみ)・直入中臣神(なおいりのなかとみのかみ)
🌟 即位12年11月:日向国(ひむかのくに:宮崎県)に到着
→ 高屋宮(たかのみや:行宮(仮の宮))を建て、滞在
🌟 即位12年12月:熊襲八十梟帥(くまそのやそたける:襲国(南九州)の反乱勢力の首領:厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや))の討伐
→ 熊襲梟帥の娘(姉:市乾鹿文(いちふかや)・妹:市鹿文(いちかや))を後宮に迎えて情報入手
→ 姉:市乾鹿文(いちふかや)は、父の熊襲梟帥を酔わせて殺害
→ 姉:市乾鹿文(いちふかや)は、「親を殺した行為は非道」として処刑
→ 妹:市鹿文(いちかや)は、火国造(ひのくにのみやつこ)に与えた
🌟 即位13年5月:襲国(そのくに:南九州)を平定
→ 高屋宮(たかのみや:宮崎県)に 6年滞在
→ 御刀媛(みはかしひめ)を妃とし、豊国別皇子(とよくにわけのみこ:「日向国造」の始祖)が生まれた
🌟 即位17年3月:子湯県(こゆのあがた:宮崎県児湯郡)に到着
・・・📍日向(ひむか):この国は日の出る方向に向いている
🌟 即位18年3月:大和へ戻るための道中で、筑紫国(つくしのくに:九州北部)を巡視
→ 人だかりを見つけ兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)に様子を探らせた
→ 泉媛(いずみひめ:諸縣君(もろかたのきみ)の娘)が、天皇にご馳走を用意するため親族と集まっていた
🌟 即位18年4月:天皇は熊県(くまのあがた:熊本県球磨郡人吉市)に到着
→ 兄:兄熊(えくま)は、使者に従ってやってきた
→ 弟:弟熊(おとくま)は、従わなかったため討伐した
→ 海路で移動中に、葦北(あしきた:熊本県葦北郡)の小島に立ち寄り食事をした
→ 水のない小島で、小左(おひだり:山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖)に冷水の献上を命じた
→ 天神地祇(あまつかみ・くにつかみ)に祈ると泉が湧き出した
・・・📍水嶋(みずしま)と名付けた
🌟 即位18年5月:天皇は、葦北(あしきた)から船で出発し、火国(ひのくに)に到着
→ 暗闇の中で、不思議な火の光に導かれて岸(八代県の豊村)にたどり着いた
・・・📍火国(ひのくに)と名付けた
🌟 即位18年6月:天皇は、高来県(長崎県島原市)から玉杵名邑(たまきなのむら:熊本県玉名市)へと渡った時に、津頰(つつら:土蜘蛛)を討ち取った
→ 阿蘇国(あそのくに:熊本県阿蘇郡)に到着
→ 人の気配がなかったため、天皇が「人はいないのか?」と問うと、二柱の神(阿蘇津彦・阿蘇都姫)が人の姿で現れ、「私たちがいる」と答えた
・・・📍阿蘇国(あそのくに)と名付けた
🌟 即位18年7月:筑紫後国の御木(つくしのみちのしりのくにのみけ:福岡県大牟田市)に到着
→ 天皇は、約1750mの巨大な倒木について尋ねた
→ 老人が「これは歴木(くぬぎ)で、倒れていなかった頃は、朝日を浴びれば杵嶋山を隠し、夕日を浴びれば阿蘇山を隠した」と答えた
・・・📍御木国(みけのくに)と名付けた
→ 天皇は、八女県(やめのあがた:福岡県八女市)に到着
→ 天皇が、美しい山を見て「神がいるのでは」と問うと、地元の人が「八女津媛(やめつひめ)という女神がいます」と答えた
・・・📍八女国(やめのくに)の由来
🌟 即位18年8月:天皇は的邑(いくはのむら:福岡県うきは市)に到着、食事をした
→ 膳夫(かしわで:給仕役)が盞(うき:酒杯)を忘れた
・・・📍的(いくは):盞を忘れた場所の浮羽(うきは)がなまった
🌟 即位19年9月:天皇は、日向から大和へ帰った
🌟 即位20年2月:五百野皇女(いおののひめみこ)に天照大神を祀らせた
🌟 即位25年7月:武内宿禰(たけのうちのすくね)を北陸と東国の視察のため派遣
🌟 即位27年2月:武内宿禰が帰還
→「 日高見国(ひたかみのくに)には入れ墨を入れた勇猛な蝦夷(えみし)が住み、土地は肥沃で広く、討つべきです」と報告
日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲討伐
🌟 即位27年8月:熊襲の侵入が続いた
🌟 即位27年10月:16歳の日本武尊(やまとたけるのみこと)が、討伐のため派遣される
→ 美濃国の弓の名手・弟彦公(おとひこのきみ)が、石占横立(いしうらのよこたち)・田子稲置(たごのいなき)・乳近稲置(ちちかのいなき)を伴って、日本武尊にお供した
🌟 即位27年12月:熊襲国に到着
→ 熊襲魁帥(くまそたける:熊襲の首領で名を取石鹿文(とろしかや)または川上梟帥(かわかみたける))がいた
→ 日本武尊は、宴に女装して潜入、酔った熊襲魁帥(くまそたける)を剣で刺す
→ 熊襲魁帥(くまそたける)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と名乗るようにと言い残して絶命(尊号の由来)
→ 帰路、吉備から穴海(広島県福山市の海)を渡り、荒ぶる神を退治
→ 難波の柏済(かしわのわたり:かつて大阪平野に広がっていた河内湖)の荒ぶる神を退治
・・・航路を開いたって感じかな🤔
🌟 即位28年2月:日本武尊は帰還し、天皇に報告
→ 天皇はその功績を高く評価し、いっそう寵愛した
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征と死去
🌟 即位40年6月:東夷(東国の異民族)が反乱を起こし、国境が混乱した
🌟 即位40年7月:日本武尊は、討伐に大碓皇子(おおうすのみこ:兄)への任命を願うが、大碓皇子(おおうすのみこ)は逃げ出す
→ 天皇は、大碓皇子(おおうすのみこ)を美濃に封じた(身毛津君(むげつうのきみ)・守君(もりのきみ)の祖)
→ 日本武尊は東征を志願
→ 天皇は斧と鉞(まさかり)を授け、吉備武彦(きびのたけひこ)・大伴武日(おおとものたけひ)を従者に、七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしわで:食事の世話係)として随行させた
🌟 即位40年10月:日本武尊は出発
→ 伊勢神宮に立ち寄り、倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女で伊勢斎宮)に東征を報告
→ 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授けられた
→ 駿河(静岡)に到着、地元の賊に騙されて野に誘い出され、火攻めに遭う
→ 草薙剣の力で切り抜け(📚「異伝」では叢雲(むらくも)の剣が自動で草を薙ぎ払い難を免れたのでその剣を「草薙」というようになった)、反撃して賊を滅ぼす
・・・📍焼津(やきつ:静岡県焼津市):族を焼き滅ぼしたのが由来
→ 相模から上総(千葉)に渡る途中、荒れる海を鎮めるために弟橘媛(おとたちばなひめ:穂積氏忍山宿禰の娘)が入水し、船を救う
・・・📍馳水(はしるみず:東京湾の浦賀水道)とその海を名付けた
→ 上総から大きな鏡を船にかけて海路を北上し、葦浦・玉浦を経て陸奥国(みちのくのくに:東北地方の太平洋側)に入り、蝦夷との境(東北の辺境)に到着
→ 竹水門(たけのみなと)に集まった蝦夷の首領・嶋津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)らは、日本武尊の威光に恐れをなし、戦わずして降伏
→ 首領たちは従者とされ、蝦夷は平定
→ 日高見国(ひたかみのくに)より帰還、常陸(ひたち:茨城県)・甲斐国(かいのくに:山梨県)を経て酒折宮(さかおりのみや)に滞在
→ 日本武尊が旅の長さを歌で問うと、火を灯す役の従者(=武日と考えられる)が即座に歌で返し、才知を褒められた
→ その功績により、武日(たけひ:大伴連の祖)は靫部(ゆけいのとものお:矢筒係)に任命された
・・・靫部(靫負部:ゆげいべ)は、大化改新以前、5〜6世紀に編成された天皇親衛・弓矢担当の職能部で、地方国造の子弟を人質兼護衛として組織し、大伴氏が統率した
→ 信濃国(長野県)・越国(北陸)はまだ服していないと、武蔵・上野をまわり碓氷坂(うすひのさか:群馬県の碓氷峠)に到着
・・・📍吾嬬国(あがつまのくに:東国):弟橘媛(おとたちばなひめ)偲んで「吾嬬はや」と嘆いたので、碓氷峠の東側一帯を名付けた
→ 日本武尊:信濃へ・吉備武彦(きびのたけひこ):越国へ
→ 日本武尊は、山の神が白鹿に化けて襲うが、蒜(ひる:にんにく)で退け、道に迷うも、白い犬の導きで美濃へ抜けて、越国から来た吉備武彦と合流
・・・📍信濃坂(しなのざか:昼神(ひるがみ))を超える時は、蒜(ひる:にんにく)を噛んで越える習慣が生まれた
→ 尾張に戻り、宮簀媛(みやずひめ:尾張氏の娘)を娶り、滞在
→ 五十葺山(いぶきやま:伊吹山)の荒ぶる神を討つため、草薙剣を置いたまま出発
→ 神が大蛇となって現れるが軽視し、嵐と氷に遭い、疲労
・・・📍居醒泉(いさめがい:滋賀県米原市醒井):泉の水を飲み少し回復
→ 体を痛めたまま、尾張に戻るが宮簀媛の元へは戻らず伊勢へ、尾津(おづ)に到着(歌を詠む)
→ 能褒野(のぼの)に到着するも病状は悪化、捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を派遣して天皇に東征の報告を送り、死去(享年30歳)
日本武尊の訃報と白鳥伝説
🌟 即位43年:日本武尊の死を聞いた景行天皇は深く悲しみ、昼夜泣き続けた
→ 群臣に命じて、日本武尊を伊勢国・能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬った
→ 日本武尊は白鳥となつて、倭国を目指して飛び立つ(棺の遺体は消えていた)
→ 白鳥は倭の琴弾原(ことひきのはら)にとどまる(陵を建てた)
→ 河内内の旧市邑(ふるいちのむら)に移動(陵を建てた)
・・・📍白鳥陵(しらとりのみささぎ):能褒野陵(三重県亀山市)・琴弾原陵(奈良県御所市)・旧市邑陵(大阪府羽曳野市)の三つの陵
→ 最終的に白鳥は天に昇ったとされ、衣冠(装束)を代わりに葬り、武部(たけるべ:日本武尊の名を伝えるため部民)を創設
草薙剣と佐伯部(さえきべ)
→ 草薙剣は、尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり:愛知県)の熱田社(あつたのやしろ:熱田神宮)にある
→ 伊勢神宮に献上された蝦夷は、御諸山(三輪山)近くへ移されたが、問題行動が続き、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5国へ移住(5国の「佐伯部」の祖)
🔍 ひとこと:草薙剣(くさなぎのつるぎ)
三種の神器の一つ(熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の2つがある)
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
→ スサノオがヤマタノオロチを退治した時、大蛇の体内から見つかった神剣
→ スサノオが天照大神に献上
→ 天孫降臨の際、ニニギノミコトとともに地上へ
→ 倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女で伊勢斎宮)からヤマトタケルへ授けられる
→ 火攻めに遭った際、この剣で草をなぎ払って脱出に成功し、草薙(くさなぎ)と呼ばれるように
→ 東征の帰途、剣を尾張国の妃・宮簀媛(みやずひめ)に預けたまま死去
→ ヤマトタケルの死後、剣は尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の、熱田社に
🌟 即位51年1月:天皇が連日宴を催した際、皇子・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと:13成務天皇)と重臣・武内宿禰だけ姿を見せなかった。
→ その理由(宴で警備が手薄になることを懸念し、門のそばで警戒にあたっていた)を聞いて稚足彦尊を特に寵愛するようになった
🌟 即位51年8月:稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を立太子
・・・成務天皇の段での記述(景行天皇即位46年)と食い違いあり
→ 武内宿禰を棟梁之臣(むねはりのまえつきみ:屋根の棟と梁のように重任に耐える臣=大臣)
🌟 52年5月:皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が死去
🌟 52年7月:八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を皇后とした
天皇の晩年の巡幸
🌟 即位52年8月:天皇は、日本武尊(小碓命)が平定した東国への行幸を望まれ、伊勢から東海へ
🌟 即位53年10月:上総国(千葉県)に到着
→ 海路で淡水門(あわのみなと:房総半島の館山湾?)で、沖へ出て白蛤(はまぐり)を得る
→ 磐鹿六鴈(いわかむつかり:膳臣の祖)が蒲の葉でたすきをかけ(蒲の葉を代用して身なりを整えた)、白蛤を膾(なます)にして献上し、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った
・・・膳大伴部の子孫=膳臣(のち高橋朝臣:天武期に「朝臣」姓を授けられ格上げ:食のエリート)
🌟 即位53年12月:東国から戻り、伊勢の綺宮(かにはたのみや)に滞在
🌟 即位54年9月:伊勢から帰還
彦狹嶋王と御諸別王の東国統治
🌟 即位55年2月:彦狹嶋王(ひこさしまのみこ:崇神天皇の孫:豊城入彦命の子)が、東山道十五国の都督(地方統治官)に任じられたが、奈良の春日の穴咋村(あなくいむら)到着したところで病死
→ 東国の百姓が悲しみ、ひそかに遺体を上野国(群馬県)へ運び埋葬
🌟 即位56年8月:天皇は、彦狹嶋王の子・御諸別王(みもろわけのみこ)に命じて、父に代わり東国を統治させる
→ 足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おおはふりべ)、遠津闇男辺(とおつくらおべ)の3人の蝦夷らが降伏し、土地を献上
→ 東国は安定し、御諸別王(みもろわけのみこ)の子孫は今も東国に住みつくいている
🌟 即位57年9月:坂手池(さかてのいけ)つくり、堤に竹を植えた
🌟 即位57年10月:全国の諸国に命じて、田部屯倉(たべのみやけ:皇室直轄の農地と労働者集団)を設置
🌟 即位58年2月:近江国(滋賀県)に行幸し、志賀(大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)に3年間滞在
🌟 即位60年11月:高穴穂宮にて崩御(享年106歳)
歌
景行天皇は日向に滞在中に、大和(やまと)を思い詠んだ思邦歌(くにしびのうた)
*思邦歌は、故郷を偲んで詠まれた歌のことで、景行天皇や日本武尊が大和を懐かしんで詠んだ歌を指すことが多い
愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立来も
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣
山篭れる 倭し麗し
命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の
白樫が枝を 髻華(うず)に挿せ この子
ああ、恋しいなあ。わが家(大和)の方から雲が立ちのぼってくるのが見える。
大和の国は本当に住みよい良い国だ。
幾重にも連なる青い山々が垣のように囲んでいて、山に守られているような、美しい国だ。
健やかに生きている者よ、平群(へぐり)の山にある白樫の枝を、髪飾りとして挿しておくれわが子よ。
日本武尊は、体調が悪化する帰路の途中、尾津浜でかつて置き忘れた剣が松の下に残っているのを見つけ、一本松を人に見立てて歌を詠んだ
尾張に直(ただ)に向(むか)へる 一つ松あはれ
一つ松 人にありせば 衣(きぬ)着せましを
太刀(たち)佩(は)けましを
尾張の方角へまっすぐ伸びている一本松よ
いとおしいものだ。
この一本松がもし人間だったなら、衣を着せてやり、太刀を佩(は)かせてやっただろうに。
🕓 更新日:2025年7月16日
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