🕓 更新日:2025年6月6日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています
年代
大和(奈良県)や難波(大阪市)を本拠とした「ヤマト王権」が地域の豪族を束ね、
日本の起源となる「大和朝廷」を成立させていった時代
3世紀中頃(250年頃)~7世紀中頃(650年頃)
*古墳時代と飛鳥時代の重複
考古学的区分:〜650年(古墳終焉までが古墳時代)
歴史学的区分:〜592年(推古即位からが飛鳥時代)
纏向遺跡について
📍場所:奈良県桜井市、三輪山の北西ふもと
🕰 時代:弥生時代末(180年頃〜)~古墳時代初期(4世紀前半)
→ つまり「邪馬台国〜初期ヤマト王権」のころ
→ 古墳時代のはじまりの地(ヤマト王権の原点)
▲特徴:日本初の都市っぽい複合遺跡
→ 面積3km²、東西2km×南北1.5kmの大規模集落
→ 高床建物・祭祀施設・流通施設(巨大運河)などを計画的に配置
・・・古代都市国家のはじまりとされる理由!
▲ その中に箸墓古墳を中心に、100m前後の前方後円墳が複数存在
・・・3世紀中〜後半に集中して築かれている
▲ 邪馬台国の有力候補地(年代がピッタリ)
しかし・・・九州・朝鮮半島系の土器は少なく、鉄器の出土が少ない
→ 大陸とのつながりはあまり感じられないが
→「卑弥呼の都=大陸との交易が活発」なはず
→ やっぱり邪馬台国ではない
→ いやいや
・・・大陸との交流拠点は別にあった
・・・鉄は再利用されやすく、遺跡に残りにくい
などの反論も😅
▲ 纒向遺跡は、広域的な交流と祭祀が行われていた都市
→ 日本全国から土器が運ばれている
→土器の搬入率が異常に高い(全国から人とモノが集まる)
伊勢・尾張 | とても多い(古くから交流が盛ん) |
吉備・東海・関東など | 中程度に見られる |
九州・朝鮮半島系 | ごく少ない |
古墳時代のはじまり
📌 3世紀前半~
→ 大和周辺に有力氏族が合流し、纒向を中心とした連合的王権が形成されはじめ
📌 3世紀中頃
→ 箸墓古墳(全長約280m、初期最大規模の✅前方後円墳)が造営されることで、古墳時代が本格化
→ 奈良盆地勢力が列島各地の豪族勢力と連合しヤマト王権へ次第に成長
✅ 前方後円墳の意味
→ 有力豪族たちは、自分の墓に「前方後円墳」という形を選ぶことで、「ヤマト王権の一員である」ことを示したと考えられている
→ また、古墳の規模や副葬品の違いには、被葬者の地位や役割が反映
古墳時代の区分
初期 (250年頃〜400年頃) ✅空白の4世紀 | ▲奈良盆地で巨大な前方後円墳が出現 → 大王(ヤマト王権の首領)中心の支配が確立 → 4世紀末から、徐々に地方へ広がる |
中期 (400年頃〜600年頃) | ▲倭の五王の時代(410〜478年頃) ▲ヤマト王権の全国支配が広がる → 5世紀は王権(ヤマト政権)が軍事的に主導権を握り始めた時期 → 6世紀は王権と地方の力が同時に強まった時期 ▲朝鮮半島との外交や軍事衝突の形跡 ▲ヤマト王権の中心 → 5世紀には王権の重心が河内へ傾き、 → 6世紀には大和へと回帰 ▲✅仏教伝来(538年 / 552年) |
後期(600年頃〜650年頃) | ▲✅ 前方後円墳が造られなくなる ▲蘇我氏の台頭 → 大化の改新(645年) |
✅「空白の4世紀」
倭国に関する中国正史の記録がほぼ消える約150年間(主に4世紀)
卑弥呼没(3世紀後半)〜 倭の五王登場(5世紀初頭)の国家形成の発展段階
卑弥呼の時代:小国が連合
・・・邪馬台国(クニ連合)が外交を通じて一定の国際的地位を得た
↓
空白の時代:ヤマト政権が成立
・・・巨大古墳を通じて権威を内外に示す
・・・七支刀(百済から倭への贈答)・広開土王碑(倭の朝鮮半島南部への侵攻)
↓
倭の五王の時代:外交の舞台に再登場
・・・南朝(宋)に朝貢し、「安東大将軍 倭王」などの称号を得て、朝鮮半島への影響力を訴えた
✅仏教伝来はいつ?
538年説 | 552年説 |
『上宮聖徳法王帝説』 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』など | 『日本書紀』 |
欽明天皇7年、戊午(つちのえうま)年に百済から仏像・経典が献上された | 欽明天皇13年、戊寅(つちのえとら)年に百済の聖明王が仏像などを贈った |
仏教系資料に多く見られる記録 干支がはっきり一致している | 官製史書 年次の調整や整合性重視の編纂傾向がある |
仏教の受容は552年より前からすでに始まっていたという痕跡(遺物・文献)もある
近年では、実質的な仏教伝来は538年、552年は「正式受容(朝廷公認)」とされることも
✅ 前方後円墳の終焉
第30代敏達天皇(在位:572–585年)
・・・前方後円墳に埋葬された最後の天皇とされる(考古学的に確実視される最後の例)
📌 6世紀後半:築造停止へ
→ 大規模な前方後円墳の築造がこの時期を境にほぼ終息
📌 7世紀初頭までに消滅
→ 小規模の前方後円墳も造られなくなり、形制そのものが廃絶
▲ 群集墳の時代(過渡期)
📌 6世紀末~7世紀初頭
→ 各地の有力農耕民や中小豪族が築いた、小型の円墳・方墳が数十基単位で分布する「群集墳」が見られる
→ これも7世紀初頭には沈静化
▲ 終末期古墳(飛鳥時代前半)
📌 7世紀:古墳時代末期から飛鳥時代へ
→ 墳丘の形式が多様化(円墳・方墳・八角墳・上円下方墳など)
→ 横穴式石室を備え、内部には壁画・装飾・副葬品が施されたりする
→ 築造者は、大王級(天皇)や限られた上級豪族のみ
これらは「終末期古墳」と呼ばれ、前方後円墳の伝統とは一線を画す
日本と世界の対比
👑📌 歴代天皇の実在性について
▲第15代応神天皇以降で、史料の密度が上がる
→ かりに応神天皇が実在したとしても、4世紀末〜5世紀初頭の人物である可能性が高い
▲第21代雄略天皇は、名を刻んだ剣が発見されていて、倭の五王の「武」がほぼ確実視されている
▲第26代継体天皇からは「確実に実在した歴史上の人物」というのが一般的な理解
初期(250年頃〜400年頃)
日本 |
奈良県を本拠としたヤマト王権が登場 📌 3世紀後半〜4世紀前半 奈良盆地(纏向遺跡周辺)に大王墓級の前方後円墳が複数登場 📌4世紀中頃〜4世紀末ごろ(約50年) 奈良盆地北部(佐紀古墳群)に、4基の超巨大な大王墓級の前方後円墳が築かれる 📌 4世紀後半~6世紀には、前方後円墳は地方に拡散(ヤマト王権に属したと考えられる) 朝鮮半島南部と交流・軍事干渉がはじまる → ✅七支刀(372年頃:百済から倭への贈答) → ✅広開土王碑(391年頃:倭の朝鮮半島南部への侵攻) 👑📌 201年:神功皇后が即位 👑📌 270年:第15代応神天皇が即位 👑📌 313年:第16代仁徳天皇が即位 |
朝鮮半島 |
⬆️ 北部 ⬆️ 📌 313年:楽浪郡の滅亡(中国の支配が終わる) → 高句麗が中国の直轄地「楽浪郡」を滅ぼし、北部朝鮮の支配を確立 ⬇️ 南部 ⬇️ 📌 紀元前後〜3世紀:三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓) → 小国がいくつも分かれていた時代 📌 紀元2世紀:伽耶(弁韓)勢力が成長 → 鉄の交易を通じてが発展、日本との関係も深まる 📌 3世紀前半:馬韓の中から「伯済」が台頭 → 百済へと発展 📌 3世紀後半:辰韓の中から「斯盧国」が台頭 → 新羅へと発展 ・・・4世紀初頭:三国時代の成立・・・ → 高句麗・百済・新羅が国として成長し、朝鮮半島の三国時代に突入 ⬆️ 北部 ⬆️ 高句麗 ⬇️ 南部 ⬇️ 百済・新羅・✅伽耶(小国の集まり) 高句麗の南下政策に対抗するため 📌 366年〜4世紀末(第1次百済・新羅同盟) 百済:第13代近肖古王(346〜375年:実質的な初代王?)が王権を強化 → 📌 369年、雉壌城に侵入した高句麗軍を急襲 → 📌 371年、 高句麗王・故国原王を戦死させる(歴史的勝利) 🇯🇵👉このころ、倭国に✅七支刀を献上したと推測 → 📌 372年、百済は東晋に朝貢し「鎮東将軍・領楽浪太守」の冊封を受ける →「晋—百済—倭」ラインで高句麗を挟撃しようとした外交戦略🤔 → 📌 375年、 高句麗に攻め込まれ水谷城を奪われる (やや息切れ) → 📌 397年、第17代阿莘王が太子(腆支)を倭国へ人質にし、引き換えに倭国の軍事介入が行われたと見られる 高句麗の第19代広開土王(在位391〜412年)による強力な南下政策 新羅は高句麗と和睦を選び、新羅と百済との同盟崩壊 → 📌 396年:広開土王が漢江流域にまで侵攻 🇯🇵👉✅広開土王碑には、倭の関与(倭兵の朝鮮進出)がある、各勢力の関係が複雑化🤔 |
中国 |
📌 280年:西晋が中国を統一 → 三国のひとつ「呉」を滅ぼし、中国を再び統一 → 首都は洛陽 📌 300年ごろ:八王の乱 → 皇帝の一族たちが、政治の力をめぐって争いをはじめる → 戦争が続き、人々の生活もくるしくなる 📌 304年〜:北方の異民族が次々と国を建てる(五胡十六国時代のはじまり) → 匈奴・鮮卑など、北の民族が中国に攻め入り、自分たちの国をつくる → 北部(華北)はバラバラの小国がたくさんある状態になる 📌 316年:西晋が滅びる(永嘉の乱) → 匈奴などの異民族が西晋の都・長安を攻め落とし、皇帝がつかまる → 西晋は滅亡し、中国はふたたび分裂時代へ ━━━━━━━━━━━━━━━ 🏯 北部(華北):五胡十六国 (匈奴・鮮卑などの異民族政権) ━━━━━━━━━━━━━━━ 🏯 南部(江南):晋 → 東晋(317〜420年) 📌 317年:東晋が南で再出発(都:建康) → 西晋の王族や貴族たちが南へにげて、新しい都を建康(現在の南京)に定める → 東晋は、南で100年ほど続くが、北の異民族の国々とは対立が続く |
インド |
📌 3世紀ごろ:インドは、いくつかの国に分かれていた → 西北部では外来の王朝(サカ・クシャーナ朝など)が弱まり、混乱が続く 📌 320年ごろ:チャンドラグプタ1世が「グプタ朝(王朝)」を建国 → 北インドを中心に統一が進む → 仏教・ヒンドゥー教・インド哲学がさかえ、「インド古典文化の黄金時代」 📌 4世紀末:サンスクリット文学や数学・天文学が発展 → 「ゼロの概念」や「十進法」などが登場する → グプタ朝の支配はしばらく続き、インド文化は東南アジアや中国にも影響を与える |
オリエント |
📌 224年:パルティアが滅び、ササン朝ペルシャ(新しいイランの王国)が誕生 → ゾロアスター教を国教に → ササン朝はローマと戦いながら、オリエント東部を支配する 📌 3世紀後半:ササン朝ペルシャとローマ帝国が激しく戦争!(戦象も登場🐘⚔️) →📌 260年、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜に!😱(史上初の皇帝捕虜事件) → 戦争の長期化で陸のシルクロードが不安定に… → ローマは西でゲルマン人、東でササン朝ペルシャと戦い、国が弱くなる → オリエントのシルクロード交易は続くが、戦争が増えて不安定になる → 海のシルクロード(インド → 東南アジア → 中国ルート)が活発化 🕌 東側(イラン):ササン朝ペルシャ(ゾロアスター教、ローマと戦う) ⛪ 西側(エジプト・シリア):ローマ帝国の一部、キリスト教が広まる |
ヨーロッパ |
📌 3世紀後半:ローマ帝国が大ピンチに! ・・・皇帝が次々と変わり(軍人皇帝時代)、国が不安定になる ・・・西ではゲルマン人の侵入、東ではペルシャと戦争が続く 📌 284年:ディオクレティアヌス帝がローマを立て直す ・・・ 帝国を「東と西」に分けて、2人の皇帝で支配する「四分統治」を始める 📌 313年:キリスト教を公に認める(ミラノ勅令) ・・・コンスタンティヌス帝がキリスト教を信じるようになり、信仰の自由を出す ・・・ これまでひそかに信じられていたキリスト教が、ローマ全体に広がっていく 📌 330年:コンスタンティノープルを建てる ・・・ 東の都「ビザンティウム(のちのコンスタンティノープル)」に遷都 ・・・ 東のローマ帝国がより強くなっていく 📌 395年:ローマ帝国が東西に分かれる ・・・東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と、西ローマ帝国に分かれる ・・・西ではゲルマン人の動きが活発化し、崩壊のきざしが見える |
✅七支刀は、奈良県の石上神宮に伝わる鉄製の刀
・・・19世紀に錆を落とし文字を発見
→「泰和四年(369年:有力説)に百済王が倭王のためにこの刀を贈った」というのが定説
✅広開土王碑は、高句麗の広開土王の功績を顕彰する石碑
→ 414年に長寿王(広開土王の子)が建立(発見は19世紀末)
→ 倭の朝鮮進出に関する文字もほられている
内容の解釈(一般的通説)
391年頃 倭が海を渡って朝鮮半島(百済・新羅など)に侵攻し、これらを「臣民にした」 👉 この時点では、倭が攻勢 396年頃 高句麗(好太王)が百済を攻撃 百済王は降伏 👉 このときは、高句麗が百済を下した 399年頃 百済王が誓約を破り倭国と和通 400年頃 倭軍がまた朝鮮半島にやってきた(百済の要請で出兵) 今度は新羅も攻撃され、新羅は高句麗に救援を依頼 高句麗軍が出動して、倭軍を撃退 404年頃 帯方に侵入した倭を撃退 👉 倭軍は高句麗に敗れる |
✅伽耶は、鉄資源の供給地だったと思われる
→ 任那(『日本書紀』に見られる地名)
・・・「広義」では伽耶諸国全体=任那
・・・「狭義」では金官国(今の金海市)=任那
→ 弥生時代中期(紀元前4~3世紀)以降、倭人が進出・定住し影響を及ぼしたと考えられる
・・・朝鮮半島南部(特に道金海市周辺)では弥生式土器が急増
→ 5世紀後半から6世紀中盤
・・・朝鮮半島南西部では、前方後円墳が確認されている
中期(400年頃〜600年頃)
日本 |
― ヤマト王権の制度化と国際関係 ― 渡来人の影響 → 百済・新羅・高句麗からの渡来人が、仏教・医術・建築・暦・鉄器製造などの先進技術を伝える ヤマト王権の中心 → 📌5世紀:河内平野へ(大阪府中南部) ・・・5世紀前半:✅難波の堀江と茨田堤の開削が行われた ・・・瀬戸内海 → 難波津(淀川・大和川の河口に位置)という水運ルートができ ・・・朝鮮半島や中国大陸との交流・外交・渡来人の受け入れ拠点として最適 ・・・古墳がさらに巨大化 ・・・誉田御廟山古墳(5世紀初頭)・大仙陵古墳(5世紀前半~中頃)・今城塚古墳(6世紀前半) → 📌 6世紀:ヤマト王権の中心は奈良盆地に戻る ・・・朝鮮半島の緊張と関係している🤔 ・・・古墳規模は縮小していく ヤマト王権の勢力は地方へ拡大 → 📌4世紀後半以降:全国各地にも巨大前方後円墳が築かれる → 📌5世紀末には、ヤマト王権の支配が関東から九州に広がっていたと考えられる ・・・ワカタケル大王(雄略天皇)の名を刻んだ剣が関東(稲荷山古墳)と九州(江田船山古墳)で出土 → 📌6世紀前半〜中頃(継体天皇~欽明天皇の時代)は、倭国が「古代国家」へと変貌していく超重要転換期(中央集権制が進んでいく) 一方北九州では → 📌527年:✅磐井の乱(筑紫国造・磐井がヤマト政権に反乱) ・・・任那(伽耶)の支援をめぐる軍事出兵に磐井が反発 ・・・これを契機に、ヤマト王権は筑紫(太宰府)を中心に九州支配を強化 国際関係の変化 少なくとも5世紀初頭から中国へ朝貢 ▲『晋書』:413年に倭国を含む複数国が朝貢したと明記 ▲『宋書』:「✅倭の五王」の朝貢(421年〜478年) ▲『南斉書』:南斉の高祖が即位(479年)すると、倭王は使者を派遣して貢物を献上と明記 ▲『梁書』:南朝梁が建国された年(502年)に、倭国が朝貢を行ったと明記 ・・・倭が朝鮮半島南部における軍事的支配権を主張 ・・・背景には朝鮮半島情勢(特に高句麗の南下、新羅との対抗)が存在🤔 日本は任那(朝鮮半島での拠点)を失う → 📌 512年:任那四県が百済に割譲(『日本書紀』による) ・・・百済が6世紀初頭に加耶西部へ進出している → 📌 527年:磐井の乱(任那の支援をめぐる軍事出兵に反発した反乱) → 📌 532年:新羅が金官国(伽耶の一国、新羅に隣接)を併合 → 📌 562年:新羅が残りの伽耶(大伽耶)を併合 氏姓制度と部民制 → 📌 5世紀〜6世紀初頭には氏姓制度が形成されたと考えられる ・・・物部氏・大伴氏・蘇我氏などが政権中枢に関わる → 📌 6世紀の中頃には部民制が施行 6世紀中頃~末:蘇我氏台頭(氏族連合政治 → 蘇我氏による専制) 📌512年:大伴金村の失脚 → 任那四県割譲(『日本書紀』)が外交的失敗とされ、主導した大伴氏が政権中枢から退く 📌540年代:蘇我稲目が「大臣」に就任 → 稲目は、娘たちを欽明天皇の妃にする(外戚戦略) → 同時期、物部尾輿が「大連」として軍事を掌握 📌538年:百済から✅仏教伝来(『日本書紀』は552年) → 蘇我氏(仏教支持) vs 物部氏(神道支持)による宗教・政治闘争が勃発 📌587年:丁未の乱 → 蘇我馬子が物部守屋を討伐し勝利 → 物部宗家は滅亡、軍事を担う氏族も蘇我に制圧される 📌587〜592年:蘇我氏による事実上の単独政権 → 馬子は崇峻天皇(崇峻)を立てるが → 📌592年:馬子に不満を持った崇峻天皇が、蘇我馬子の手筈により暗殺される 📌592年:推古天皇の即位(初の女性天皇) → 聖徳太子(厩戸皇子)を摂政として登用 → 天皇+皇太子(聖徳太子)+蘇我氏という新体制へ 👑📌 400年:第17代履中天皇が即位 👑📌 406年:第18代反正天皇が即位 👑📌 412年:第19代弁恭天皇が即位 👑📌 453年:第20代安康天皇が即位 👑📌 456年:第21代雄略天皇が即位 👑📌 489年:第22代清寧天皇が即位 👑📌 485年:第23代顕宗天皇が即位 👑📌 488年:第24代仁賢天皇が即位 👑📌 498年:第25代武烈天皇が即位 👑📌 507年:第26代継体天皇が即位 👑📌 531年:第27代安閑天皇が即位 👑📌 535年:第28代宣下天皇が即位 👑📌 539年:第29代欽明天皇が即位 👑📌 572年:第30代敏達天皇が即位 👑📌 585年:第31代用明天皇が即位 👑📌 587年:第32代崇峻天皇が即位 👑📌 592年:第33代推古天皇が即位 |
朝鮮半島 |
再び、高句麗の南下政策に対抗するため、新羅・百済が再び同盟を結ぶ 📌433年〜553年(第2次百済・新羅同盟) 📌475年に高句麗:第20代長寿王(413〜491年)の百済への攻撃 → 百済の首都漢城が陥落、百済:第21代蓋鹵王は戦死(百済は滅亡にちかい状況) → 第22代文周王(475〜477年)が生き延び、新羅の助けにより熊津に遷都(百済再建) → 文周王が暗殺され、第23代三斤王(477〜479年)は在位3年で急死 → 日本にいた昆支王(蓋鹵王の弟/子?)の第二子: 第24代東城王(479年〜 501年)が即位 → 東城王は📌493年新羅の王族と婚姻 → 東城王は重臣に暗殺され第25代武寧王(502〜 523年)が即位 📌 500年:倭軍(日本)が新羅:長嶺鎮を落とす 新羅の政策変換の時期かな🤔 → 📌 532年:新羅が金官国(伽耶の一国、新羅に隣接)を併合 → 📌 551年:百済:第26代聖王(523年〜554年)が新羅、伽耶と連合、高句麗から漢江流域を奪回 → 📌 553年:新羅:第24代真興王(540〜576年)が漢江下流域を独占して百済を裏切る → 📌 554年:百済の聖王が新羅との戦いで戦死 → 📌 562年:新羅が残りの伽耶(大伽耶)を併合 → 📌 565年:真興王は北斉から「使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王」として冊封 新羅と百済の同盟解消 |
中国 |
━━━━━━━━━━━━━━━ 🏯 北部(華北):五胡十六国 (匈奴・鮮卑などの異民族政権) ━━━━━━━━━━━━━━━ 🏯 南部(江南):晋 → 東晋(317〜420) 南北朝時代 🏯📌439年:北部(華北) → 鮮卑が建てた「北魏」が北部(華北)を統一 → 洛陽に都をおき、仏教を推進 → 📌 534年:北魏の分裂 ・・・北魏の中で争いが起こり、東魏と西魏に分裂 → 📌550年 東魏を乗っ取って「北斉」が誕生 → 📌557年 西魏を乗っ取って「北周」が誕生 → 📌577年 北周が北斉を攻め滅ぼし、中国北部を再統一 🏯📌420年〜589年:南部(江南) → 南朝とよばれる国々が交代 →「宋→斉→梁→陳」という国々が交代しながら続く 🇯🇵👉倭の五王が宋に朝貢 隋が中国全体が再び統一 → 📌 581年:北周の臣下「楊堅(581〜604年)」が北周を乗っ取って「隋」を建てる → 📌 589年:隋が南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一 |
インド |
📌 4〜5世紀 グプタ朝が最盛期、文化が黄金時代へ ・・・仏教美術が花ひらいた 📌 5世紀後半 エフタルが西北インドに侵入 📌 550年ごろ グプタ朝が滅亡、分裂時代へ |
オリエント |
🕌 東側(イラン地域) ササン朝ペルシア(224年〜651年) → ゾロアスター教を国教としながら、 → 東ローマ帝国(ビザンツ)とたびたび戦争 → ホスロー1世(531年〜579年)の時代が「黄金期」 ⛪ 西側(シリア・エジプトなど) このころは、すでにローマ帝国は東西に分裂済み → エジプト・シリアは「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」の支配下 → キリスト教がすでに📌392年国教化されて広がっている |
ヨーロッパ |
📌 395年:ローマ帝国が東西にわかれる ・・・都を分けて、「東ローマ帝国」と「西ローマ帝国」に ・・・「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」)はギリシャ文化中心で長く続く ・・・「西ローマ帝国」はだんだん弱くなっていく 📌 410年:ローマ市がはじめて異民族におそわれる ・・・ゲルマン民族の一つ「西ゴート族」がローマに侵入⚡️ 📌 476年:西ローマ帝国が滅亡 ・・・ゲルマンの傭兵隊長「オドアケル」が皇帝をしりぞける 📌 5〜6世紀:ゲルマン人たちが各地で王国をつくる(民族大移動の結果) ▲西ゴート族 :西ゴート王国(スペイン) ▲東ゴート族 :東ゴート王国(イタリア) ▲フランク族 :フランク王国(フランス・ドイツ) 📌 500年ごろ:フランク王国を強くなる ・・・フランク族の王「クローヴィス」がカトリックに改宗 ・・・ローマ教会と協力しながら国を広げていく → この後、ヨーロッパ中世のスタート |
✅ 難波の堀江と茨田堤について
→ 仁徳天皇の時代(5世紀前半)に行われたと伝えられる古代の大規模土木事業(地形・考古のデータでもある程度一致している)
難波の堀江(なにわのほりえ) | 大和川や淀川と海をつなぐ運河(人工の水路) |
茨田堤(まんだのつつみ) | 河川の氾濫を防ぐための大きな堤防 |
古代の大阪平野は、「河内湖」と呼ばれるような浅い海や湿地が広がっており、こうした工事によって、海だった場所が少しずつ陸地として整備されていったと考えられる
✅ 磐井の乱について
→ 磐井(筑紫国造)が新羅出兵に反対し、倭軍の通行を阻んで反乱を起こした
→ 磐井が新羅と独自の外交関係を結び、ヤマト政権と対立していた可能性も指摘されているが、朝鮮半島側の資料に磐井の記載は存在しない
→ 継体天皇は軍を送り鎮圧
→ 磐井の死後、息子の葛子が屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた
✅「倭の五王」について
5世紀初め~末(約100年間)中国南朝(宋)に使者を送り続けた、倭の5人の王たち
『宋書』に記載
→ 称号と朝鮮南部の支配権を要求
→ 南朝宋は、それを基本的に認めた
→『日本書紀』や『古事記』に、倭の五王の記録はない
421年 | 讃(さん) | 仁徳天皇?または応神天皇? |
438年 | 珍(ちん) | 履中天皇?反正天皇? |
443年・451年 | 済(せい) | 允恭天皇? |
462年 | 興(こう) | 安康天皇? |
478年 | 武(ぶ) | 雄略天皇(ほぼ確実) |
後期(600年頃〜650年頃)
日本 |
聖徳太子(厩戸皇子)の改革(593〜622) ・・・推古天皇の摂政として政務を主導(+蘇我馬子) 📌603年:冠位十二階 (官僚的序列の始まり) → 氏族の血統でなく「個人の才能」で官位を決める制度 📌604年:憲法十七条 → 官人に対する道徳・政治的行動規範(仏教と儒教を根幹に据える) ・・・氏族政治から「中央官僚国家へ」進もうとする意識の現れ 📌607年 小野妹子が隋の煬帝に派遣される(遣隋使) →「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 → 隋が激怒するも国交成立 📌 608年:裴世清が倭国に来訪 📌 618年:隋が滅び唐が成立 (唐と直接の国交は様子見) 📌 622年:聖徳太子死去 (再び氏族間の緊張が高まる) 蘇我氏中心とした政治 → 天皇を中心とした中央集権国家へ 📌 645:乙巳の変 → 中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で暗殺 → 蝦夷(入鹿の父)は自害 📌645〜: 大化の改新 ▲公地公民制 :土地・人民を天皇のものとする(豪族の私有制の否定) ▲班田収授法(の前段階): 土地を口分田として民に分け与える制度の準備 ▲評制の導入 :地方行政の再編、「国郡」制度の原型 ▲戸籍と計帳の整備 :民を把握し税や兵を徴発する基礎情報とする ▲薄葬令発布(646年『日本書紀』):身分に応じて墳墓の規模などを制限 ・・・厚葬から薄葬へシフト 👑📌 629年:第34代舒明天皇が即位 👑📌 642年:第35代皇極天皇が即位 👑📌 645年:第36代孝徳天皇が即位 👑📌 655年:第37代齊明天皇が即位 |
朝鮮半島 |
📌598〜614年:隋の高句麗遠征(4度すべて失敗) ▲598年:疫病・気候不良、高句麗の反撃で隋軍撤退 ▲612年:乙支文徳の戦術で百万隋軍壊滅(薩水の戦い) ▲613年:楊玄感の乱により撤兵 ▲614年:高句麗の講和提案で撤退 📌618年:隋滅亡 → 唐の建国 📌642〜648年:百済・高句麗の新羅攻撃 → 百済・義慈王(641〜660年)、高句麗・淵蓋蘇文と連携して新羅を圧迫 → 新羅・善徳女王〜真徳女王時代、最大の危機 📌648年:新羅は唐と同盟 → 新羅の金春秋(のちの武烈王)、唐と軍事同盟を締結 |
中国 |
📌 6世紀中頃:南北朝の対立が続く 北(華北):北周・北斉 → 鮮卑族が建てた国(武力でしのぎを削る) 南(江南): 梁→ 陳 → 漢民族の政権(文化的だが弱体化) 📌 581年:隋(581年〜 618年)が華北を統一 → 北周の部将「楊堅」が帝位につき、隋を建国(文帝) → 📌589年:南朝陳を滅ぼし中国統一(300年ぶり) 📌 618年:唐(618年〜907年)の成立 → 高祖(李淵)が長安で即位 → 📌 626年:太宗(李世民)が皇太子を打倒して皇帝に即位 → 📌 649年:高宗が即位(649〜683年) ・・・655年以降:妻の武則天(中国史上唯一の女帝:690〜705年)が実権を握る |
インド |
📌 小国分立の時代(6世紀中頃〜7世紀初) → 北インドは多数の王朝に分裂 → 南インドではタミル系の諸王国が繁栄(チョーラ朝・パーンディヤ朝など) → 仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教が共存しながら展開 📌 606年:ヴァルダナ朝(ハルシャ朝)の成立 → カナウジ(中部ガンジス川流域)を都に、北インドを再統一 → 初代王: ハルシャ・ヴァルダナ(在位:606〜647年ごろ) が登場 ・・・グプタ朝以後の北インドをほぼ再統一(南インドまでは及ばず) ・・・仏教を厚く保護(自らも仏教徒)・他宗教(ヒンドゥー教・ジャイナ教)にも寛容 ・・・詩人・学者としても有名(サンスクリット文学を保護) → 📌 641年:中国から僧 :玄奘が訪れる ・・・帰国後に『大唐西域記』を著しインド仏教文化を中国に伝える → 647年:ハルシャ王死去 (後継者が現れず、王朝はすぐに滅ぶ) 再び分裂 → 北インドは再び小国群に(10世紀以降にイスラム勢力が進出) |
オリエント |
📌 602〜628年:ササン朝 vs 東ローマ帝国の最終戦争 → ササン朝ホスロー2世、東ローマに大攻勢 → エルサレムを占領し「聖十字架」を奪う(614年) → 東ローマ皇帝ヘラクレイオスの反撃で、最終的にササン朝が敗北(628年) 📌 622年:ムハンマドの「ヒジュラ(聖遷)」 → 迫害を受けたムハンマドがメッカからメディナへ移住 → イスラム暦の元年 → メディナで宗教+政治の指導者として共同体を形成 📌 632年:ムハンマド死去 → 正統カリフ時代の始まり → アラブ部族の統一が進み、征服活動(ジハード)が本格化 📌 636年:ヤルムークの戦い → アラブ軍が東ローマ軍を破る → シリア・パレスチナを獲得 📌 642年:ニハーヴァンドの戦い → アラブ軍がササン朝ペルシャを事実上滅ぼす → オリエントがイスラムの時代へ 📌 661年:ウマイヤ朝が成立(カリフ:ムアーウィヤ) → シリアを拠点とし、イスラム初の世襲王朝に → ダマスクスを首都に、支配地域が急拡大中! |
ヨーロッパ |
📌 534年:東ゴート王国が滅亡(東ローマ帝国が滅ぼす) → ビザンツ皇帝ユスティニアヌスの「西方回復政策」 → 一時的にイタリアを奪回(のち再び混乱) 📌 568年:ランゴバルド族がイタリアに侵入 → 北イタリアに「ランゴバルド王国」建国 → 東ローマの支配が弱まる 📌 6世紀後半:西ゴート王国がイベリア半島で安定 → イスラム到来(8世紀)まではキリスト教王国として存続 📌 6~7世紀:フランク王国が拡大・安定 → クローヴィスの子孫(メロヴィング朝)が支配 → 各地を分割統治(分割相続のため) → しだいに宮宰(実務担当者)が力を持つ 📌 7世紀:イスラムの登場(アラビア半島でムハンマドが登場) → 7世紀末:イスラム勢力が地中海東部に迫る |
氏姓制度と部民制
🌟 氏姓制度について
→ ヤマト王権が地方の豪族を支配下に組み込むための仕組み
→「氏(名前)」+「姓(地位・役割)」のセットで地方支配を可視化・整理
・・・氏:血縁グループの名前
・・・▲地名由来:(蘇我氏、吉備氏)、
・・・▲職掌由来:(物部氏、弓削氏)などバラバラ
・・・姓:ヤマト王権が与えたランク・役割(臣・連・伴造・国造・県主など)
・・・▲臣=王権に直接仕える官僚系氏族(蘇我臣、大伴臣など)
・・・▲連=特定の職能に特化した技術系・軍事系氏族(物部連、阿曇連など)
・・・▲伴造=部民を率いる管理者的豪族
・・・▲国造・県主=地方単位の支配担当(のちの国司的な役割)
成立時期については歴史的に議論があるが、主流的見解では、その萌芽は5世紀後半頃に見られ、制度としての整備・定着は6世紀前半~中頃(継体天皇以降)とされる
古墳時代は、氏姓制度を基盤にした氏族連合国家の時代
📌5世紀: 氏姓制度の原型(有力氏族+王権支配のしくみ)が確立
📌6世紀: 氏姓制度がさらに整備・拡大
🌟 部民制について
→ 王権や有力氏族(伴造)が、自分たちに属する労働力集団(部民)を私有・支配するしくみ
・・・伴造:氏姓制度のもと姓を持つ者
・・・部民:一般庶民や渡来人系集団
例
海部(あまべ) | 漁撈・航海・水軍要員 | 阿曇連 |
山部(やまべ) | 山林伐採・狩猟・鉱山開発 | 紀氏・吉野首 |
鍛冶部(かぬちべ) | 武器・工具製作 | 多氏 |
織部(はとりべ) | 織物生産 | 服部連 |
造船部(ふなつくりべ) | 船の建造 | 海部系氏族 |
📌5世紀:王権直轄(国家直属の軍事・資源班)
・・・海人部(航海・漁撈)・山守部(山林管理)
📌6世紀:豪族の私有化
・・・「蘇我臣海部」「紀臣山部」みたいに氏族名が前につき、地方豪族の私有財産化
・・・ヤマト王権はこれらの部を通じて間接的に人々を支配
📌大化の改新でリセット
・・・「氏姓制度そのものは存続(官位制度と融合)」するけど、部民制(労働力私有)は廃止
厚葬から薄葬へ(古墳の推移)
厚葬思想から薄葬思想へ
古墳時代のはじめには、巨大な古墳を築き、たくさんの副葬品をおさめる「厚葬」の考え方が主流
6世紀の後半からは、大きなお墓を作らず、質素に葬る「薄葬」の考え方が広まり、天皇や豪族のお墓も小さく・簡素になる
これは、仏教の「無常観」や、国家の制度化にともなう節約や秩序を重んじる社会の変化が関係していたと考えられている
古墳の推移
3世紀後半〜4世紀前半 | 奈良盆地に前方後円墳が登場する *箸墓古墳(3世紀中頃)を古墳時代の幕開けと見るのが通説 |
4世紀中頃〜末ごろ(約50年) | 奈良盆地北部の佐紀地域に、4基の超巨大な大王墓級の前方後円墳が築かれる → 佐紀古墳群(例:佐紀陵山古墳など) |
4世紀末〜5世紀前半 | 大阪平野(河内)を主要拠点とした超大型前方後円墳 → 百舌鳥・古市古墳群(例:大仙陵古墳) |
4世紀末〜 | 畿内に群集墳が出現 → 豪族層の拡大と関係している |
5世紀半ば〜 | 巨大前方後円墳が全国に波及 → ヤマト王権の勢力拡大を反映 → 備中・吉備、近江、東海、筑紫・肥後など |
5世紀末〜6世紀前半 | 畿内に先進的群集墳・家形石棺が登場 南東九州・北部九州に地下式横穴墓が造られ始める/装飾古墳が出現 |
6世紀〜 | 今城塚古墳(継体天皇陵とされる)が畿内最後の200m級前方後円墳となり、この頃をピークに古墳規模は急速に縮小する |
6世紀後半 | 全国各地で前方後円墳は終息 → 畿内の大王墓も円墳・方墳・八角墳へ移行 → 地方豪族の首長墓(関東以西)も前後の円・方墳や横穴式石室主体の小規模墓が主流 *関東・周防などでは7世紀初頭まで小型の前方後円墳が点在 |
645年の大化の改新を契機に、古墳時代的な政治・制度・文化は大きく姿を変え、天皇を中心とする中央集権国家が形づくられていきます
その集大成が、701年に完成した大宝律令による「律令国家」
▲ 葬制の変化
「薄葬令」により、豪華な墳墓(厚葬)から質素な埋葬(薄葬)への転換が制度化され、さらに仏教の影響により「火葬」も登場
▲ 土地と人民の管理
「公地公民制」が掲げられ、すべての土地と人民は国家(天皇)のものとされ、「部民制」による豪族の私的支配は廃止された
▲ 氏姓と官位制度の再編
「氏姓制度」は制度として残されつつ、やがて「八色の姓」などの官位制度と融合し、律令国家の枠組みへと再編されていく
こうして日本は、古墳時代から飛鳥時代へと歩みを進め、律令による国家体制へと移行してく