日本の古代史を知りたいと思ったとき、『日本書紀』は避けて通れない
でも、神話と歴史が入り混じっていて、どう読めばいいのか迷ってしまう…💦
そこで、「読み解く入り口」としてこのページを作りました
前提として知っておきたいことをまとめています
歴代天皇についての個別ページへのリンクなどを追加していきます
🕓 更新日:2025年5月23日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています
古事記と日本書紀
『古事記』『日本書紀』は現存する最古の史書で、天皇の系譜や神話伝承を元に作られた歴史書です
第40代天武天皇の命によって編纂が始りました
帝紀・旧辞について
「帝紀・旧辞」は、飛鳥後期以前に宮廷が編纂・保存していた「天皇系図(帝紀)」と 「古伝承集(旧辞)」 の総称
現存しないが、その要素が再編集されて記紀に組み込まれたと考えられている
帝紀・旧辞が存在したとされる理由
▲『古事記』の序文に 「帝紀及び旧辞は、すでに多くの間違いや嘘が混ざってしまっている。だから天武天皇は、阿礼に暗誦させて記録しなおそうとした」 → 記紀編纂の「素材」として重要だったことがわかる |
▲『日本書紀』にも似た話が出てくる 📌 推古28年条:聖徳太子と蘇我馬子が、「天皇記」「国記」「臣民の本記」を作ったという記事あり → 「天皇記」= 帝紀、「国記」= 旧辞とみなされることが多い 📌 皇極4年(乙巳の変):蘇我蝦夷が「天皇記・国記を焼いた」と記録 焼け残った『国記』が中大兄皇子(後の天智天皇)に献上されたとある → 「国記」は焼け残って献上され、記紀編纂の前提になる史料があった → この「天皇記」(帝紀系譜)と「国記」(旧辞・国史)という史書の焼失は、記紀編纂以前に存在した史料が散逸した一因とも考えられる |
▲『日本書紀』では「一書に曰く(ある伝えによると…)」という異伝が多数登場 → これは各地の古伝承=「旧辞」に由来する部分だと考えられる |
▲『帝王本紀』『日嗣』『登極次第』などと書かれた文書が記紀の注釈に登場 特に持統紀の「皇祖の『登極次第』を読み上げる」という記述がある → 「帝紀(帝紀系譜)」が儀式の中で使われていたことを示している → 記紀の編纂者の手元にあった資料と考えられる |
一般的にどのように理解されているか(主な論点とコンセンサス)
▲内容は?
帝紀 | 旧辞 |
皇室の系譜、治績、陵墓などの記録 | 神話・伝承・民間説話 *6世紀ごろまでの神話・伝説の記録と考える人が多い |
▲書面か口伝か? | 部分的書面+口承のハイブリッド説が優勢 *また、「一つの本」というより、複数の記録の集まり説が有力 |
▲主体は? | 複数氏族の寄稿を役所が束ねた説が優勢 |
▲内容の信頼度は? | 改訂・脚色されたと考え 「史実の手がかり」と「政治的作文」を峻別して読むのが通例 |
▲もともと口伝やメモがあった(各地の豪族や宮廷で語り継いでいた神話・系譜)
↓
▲6〜7世紀:「帝紀・旧辞」 という形でまとめ直された
ここで既に「並べ替え・削除・脚色」が発生
↓
▲712・720年: 古事記・日本書紀として再編集
国家プロジェクトなので、さらにイデオロギーに合わせて取捨選択が発生
記紀は 「ゼロからの創作」ではなく、先行する〈帝紀・旧辞〉を土台に編集された歴史書
ただし、その土台自体も古代王権の都合で整えられており、
記紀は 「重ね書きされたフィルター」を通して古代日本を映した作品
この視点を押さえると
神話がどこまで史実を反映するのか?
皇統譜に不自然な継ぎ目があるのはなぜ?
などが少しは見えてくるかも❓🤔
古事記と日本書紀の比較
古事記(上中下の3巻) | 日本書紀(全30巻+系図1巻) *系図1巻は現存しない |
伝承・物語色が強い 日本語ベース(和文・訓読み) | 政治・正史としての性格が強い 漢文 ✅異説を併記 |
成立年:712年 元明天皇が完成させた | 成立年:720年 元正天皇が完成させた |
稗田阿礼が口伝、太安万侶が筆録 | 舎人親王ら朝廷の編纂チーム |
天皇家の正統性を国内に示す | 対外的にも通用する国家の正統性を整える |
天地のはじまり〜第33代✅推古天皇まで 口語調で記述 | 神代〜第41代持統天皇の在位10年目(696年) 編年体で記述 |
✅『日本書紀』の異伝について
中国の『史記』や『漢書』に倣って異説を併記する形式を意識
本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
このように『日本書紀』は複数の別バージョンが書き添えられている
→「本編ではこの説を採用するけど、こんな伝承もあった」と提示する
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録かな🤔)
『古事記』には「一書曰く〜」のような異伝併記の形式はなく、『古事記』自体が異伝の集合体のような構造
→ 並列化せず、『古事記』は1つの物語に融合している
→ 同じ神の名前や行動が矛盾していたり、章間で展開が食い違ったり
→ 異なる伝承の痕跡が随所にある
✅推古天皇の時代以降、国家制度整え、七世紀の終りはじめて律令制度による国家ができあがる
→ 日本の歴史の重要なターニングポイント
→ 『日本書紀』には、その編纂当時と同時代に近い出来事が記録されている
日本書紀の内容
『日本書紀』は神代から持統天皇までを描く正史
「神代巻」を除き「巻」が進むにつれ神話的伝承から編年体の歴史叙述へ徐々に移行する
6世紀以降は外交記事や年号が増え、相対的に史料価値が高まる
史実を読み解くには編纂の意図や後世の価値観を考慮し、他の史料や考古学的成果との照合が不可欠
巻1〜2:神代篇 | 天地開闢〜神武東征 → 国家神話:史実性ほぼゼロ |
巻3〜5:伝承天皇篇(古墳前・中期) 3世紀?〜5世紀前半 | 神武〜応神 → 王統伝承中心 → 考古学と点対応:年代の大幅ズレ |
巻6〜10:古墳〈後期〉篇 5世紀前半〜6世紀前半 | 仁徳〜雄略〜継体・安閑・宣化 → 実年代は概算、考古・朝鮮文献と一部整合 |
巻11〜20:飛鳥篇 6世紀後半〜7世紀後半 | 欽明〜天智・天武 → 他史料との整合度アップ |
巻21〜30:同時代篇 7世紀後半〜 | 持統〜編纂直前 → 実録的記録(官人名・詔勅・年次が具体的) |
編纂の意図を考える
天武天皇が記紀の編纂を命じた歴史的背景
📌 660年 百済が唐・新羅連合に滅ぼされる |
📌 663年 白村江の戦い(百済の復興支援の失敗) → 日本軍が唐・新羅連合に大敗 |
📌 672年 壬申の乱(天智天皇の死後の皇位継承争い) → 弟(大海人皇子)VS 息子(大友皇子) → 弟が即位して天武天皇となる |
📌 682年ごろ 天武天皇が記紀編纂を命じる →「帝紀(天皇の系譜)」と「旧辞(神話・伝承)」を正し、口伝の神話・歴史を整理せよ❗️ |
📌 686年 天武死去 → 草壁皇子(天武の子)が継ぐ予定だったが即位前に早世 |
📌 690年 持統天皇即位(天武の皇后) |
📌 697年 持統天皇譲位 → 文武天皇(孫:草壁皇子の子)即位 → 藤原不比等の娘(宮子)が文武天皇の妃に(外戚戦略が発動❗️) |
📌 701年 大宝律令完成 → 唐の制度に倣った律令国家が成立(藤原不比等が主導) |
📌 707年 文武天皇死去 → 元明天皇(文武の母)即位 → 📌 712年『古事記』完成 |
📌 715年 元明天皇譲位 → 元正天皇(文武の妹)即位 → 聖武天皇(文武の子:不比等の孫)への中継ぎ → 📌 720年『日本書紀』完成 → 藤原不比等は同年死去(集大成を見届ける形に) |
▲白村江の戦いで、唐・新羅連合に対し日本は大敗
→ 「日本が一つにまとまらないとヤバい」という危機感
→ 中国(唐)との関係を意識し、日本が「一貫した王朝の歴史がある」ことを示す必要性
▲壬申の乱で、本来の後継から皇位を奪った
→ 自分の正当性を神話の時代から証明する(即位の正統化)
▲ 藤原不比等が外戚&律令国家の設計者として台頭(記紀編纂の最高責任者の一人)
→ 天皇を中心とした中央集権体制や、神話によって統治の正統性を演出することなど
→ 不比等の国家観が反映され、その後の藤原氏の礎にもなったかも❓🤔
▲記紀には、多くの豪族(物部氏、蘇我氏、葛城氏、筑紫氏など)が登場
→ 考古学的に存在が裏づけられる一方で
→ 神話の神々に祖先をつなげるなどの脚色や、朝廷にとって都合のよい取捨選択があったことは否定できない(壬申の乱の功臣に対する忖度もあったかも❓🤔)
後世の価値観ついて考える
日本の歴史の中で「信仰と政治」は切り離すことのできない関係
『古事記』『日本書紀』は「信仰と政治」を「同期させるOS」のようなもの
ただの古典ではなく、信仰が政治を正当化し、政治が信仰を制度化する、日本史に特有なこのループ構造を可視化し、駆動させるエンジンとして機能
🌟 OSにたとえると…
記紀の本文=カーネル(核)
祭祀・儀礼=ドライバー
注釈・学問・国学=アドオン
政治体制や宗教制度=設定ファイル
神社や宮中儀式=ハードウェア
🌟時代とともに再インストールされてきた
記紀OSは、「読み手」と「支配者」が変わるたびに再起動され、その時代に合った構成にカスタマイズされてきた
🌟誰がアップデートしてきたのか?
単なる支配者だけでなくむしろ、次の三位一体で成り立っていた
▲政治権力(王朝・幕府・近代国家)
→ 法や制度として初期設定を定める
▲宗教実践者(神官・僧侶・庶民)
→ 儀礼・信仰・巡礼を通じて現場でOSを運用
▲知識人・解釈者(学者・国学者・文人)
→ 注釈や翻訳で拡張パックを提供
日本史の中で、神話が政治的に再構築される特に重要なタイミングが、飛鳥時代と明治時代です
どちらの時代も、外からの強い圧力(白村江の敗戦・欧米列強の脅威)にさらされる中で、国家としての正当性やアイデンティティを再定義する必要に迫られていた
▲飛鳥時代(記紀編纂期)
→ アマテラスと神武天皇は、天皇家の祖先として「皇室の正統性を示すため」に構築
→ 宗教的というより、王権の継承を神聖化するための神話的設定として登場
▲明治時代以降(国家神道)
→ アマテラス=「日本最高の神」(天照大御神)
→ 神武天皇=「日本建国の初代天皇」
→ 教育や国家儀礼の中で「全国民が共有すべき建国神話」として再構築
→ 橿原神宮の創建・天皇の伊勢神宮参拝は明治時代
古代の人々はアマテラスや神武天皇を知らないのでは❓🤔