はじめに
天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』の内容を基にまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介
▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある
▲ 📚「異伝」について本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)
▲📍:地名などの由来
▲📘『新撰姓氏録』
→ 平安初期にまとめられた氏族リストで、古代豪族の由来や分類を知る重要な資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/新撰姓氏録
▲ 📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
→『記紀』では詳しく語られない「継体天皇の出自(系譜)」についての資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/上宮記
▲ 📘『百済三書』逸文
『百済三書』は『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書の総称(百済の歴史を記録した歴史書)
→ 現存せず、逸文が『日本書紀』にのみ引用されて残されている
→ 後世の言葉や潤色が見られ『日本書紀』用の捏造とも考えられるが、実際に書かれた歴史書とみなすのが妥当とされている
→ 『百済記』5か所・『百済新撰』3か所・『百済本記』 18か所
▲ 📘『三国史記』
成立年:1145 年、高麗王朝(新羅が朝鮮半島を統一したあとの国)
内容:三国時代(高句麗・百済・新羅)の王系と年表を、漢文編年体で整理
編者:新羅系儒学官僚 金富軾(キム・プシク)
特色:新羅びき・儒教色が濃く、神話や仏教説話は抑えめ
位置づけ:現存する最古の朝鮮正史
応神天皇の基本情報
渡来人を積極的に用い、後世には八幡神(軍神)として信仰された
応神天皇以降の天皇から、徐々に史実性が高まります
また、後に皇統が一時途絶えたのち、応神天皇の五世孫である第26代継体天皇によって男系が受け継がれ、現在の天皇にまでつながる皇祖でもあります
在位期間 | 270年~310年(享年110歳) 『古事記』130歳 |
皇居 | 『日本書紀』:遷都記事はなし 行宮 ▲難波大隅宮(なにわのおおすみのみや:大阪市東淀川区?) ▲吉野宮(よしののみや) ▲葦守宮(あしもりのみや:岡山市北区足守) 『古事記』:軽島豊明宮(かるしまとよあきらのみや:奈良県橿原市) |
陵 | 惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ:羽曳野市:誉田山古墳) |
諱 | 誉田別(ほむたわけ) |
和風諡号 | 誉田天皇(ほむたのすめらみこと) |
父 | 仲哀天皇(第四皇子) |
母 | 神功皇后 |
皇后 | ✅仲姫(なかつひめ) |
妃 | ✅高城入姫(たかきのいりひめ) 弟姫(おとひめ:皇后の妹) ✅宮主宅媛(みやぬしやかひめ) 小甂媛(おなべひめ) ✅弟姫(おとひめ:息長真若中比売) 糸媛(いとひめ) 日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ) |
応神天皇の系譜
✅ 皇后:仲姫(なかつひめ)
→ 子:荒田皇女(あらたのひめみこ)
→ 子:大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)
→ 子:根鳥皇子(ねとりのみこ:大田君の始祖)
✅ 妃:高城入姫(たかきのいりひめ:皇后の姉)
→ 子:額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
・・・倭の屯田をめぐり淤宇宿禰(出雲臣の祖)に訴えられ、証言により主張を退けられた皇子
・・・氷室を献上した逸話でも知られる
→ 子:大山守皇子(おおやまもりのみこ:土形君・榛原君の始祖)
・・・応神天皇の崩御後、王権を狙って反乱を起こすが敗北
→ 子:去来真稚皇子(いざのまわかのみこ:深河別の始祖)
→ 子:大原皇女(おおはらのひめみこ)
→ 子:澇来田皇女(こむくたのひめみこ)
妃:弟姫(おとひめ:皇后の妹)
→ 子:阿倍皇女(あへのひめみこ)
→ 子:淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)
→ 子:紀之菟野皇女(きのうののひめみこ)
3姉妹(仲姫・高城入姫・弟姫)の父は、『古事記』によると品陀真若王(ほんだのまわかのみこ:ヤマトタケルの異母弟の子(甥))です
✅ 妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、日触使主(ひふれのおみ:和珥臣の祖)の娘
→ 子:菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)
・・・兄の仁徳天皇に皇位を譲ろうとして自害
→ 子:矢田皇女(やたのひめみこ:八田皇女:仁徳天皇皇后)
→ 子:雌鳥皇女(めとりのひめみこ:隼別皇子(仁徳天皇の異母弟)の妃)
・・・仁徳天皇に求婚されたが隼別皇子と結婚し、のちに仁徳天皇に反逆したことにより隼別皇子と共に殺害される
妃:小甂媛(おなべひめ:宮主宅媛の妹)
→ 子:菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつめのひめみこ:仁徳天皇妃)
✅ 妃:弟姫(おとひめ:息長真若中比売)は、河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘
・・・応神天皇には、品陀真若王(ヤマトタケルの異母弟の子)の娘3人(仲姫・高城入姫・弟姫)が嫁いでいるが、この弟姫とは別人
→ 子:稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ)
・・・今日の皇室は稚野毛二派皇子の男系子孫(第26代継体天皇の高祖父)
・・・稚野毛二派皇子の子:忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の妃
・・・忍坂大中姫命の子:木梨軽皇子・安康天皇(20代)・雄略天皇(21代)
🔍 ひとこと:稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ)
応神天皇から彦主人王(継体天皇の父)までの系譜は『記紀』では省略され
具体的にわかるのは📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
凡牟都和希王(応神天皇)
↓
若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)
↓
大郎子(意富富等王)
↓
乎非王
↓
汗斯王(彦主人王)
↓
乎富等大公王(継体天皇)
古事記と上宮記で稚野毛二派皇子の母と妻が入れ替わっている解釈するのが通説
*いずれも息長氏(近江)系の姉妹との婚姻
表記名 | 父:応神天皇 表記名 | 母 | 妻 | |
日本書紀 | 稚野毛二派皇子 | 譽田天皇 ほむたのすめらみこと | 弟姫 *父:河派仲彦 かわまたなかつひこ | 記載なし |
上宮記逸文 | 若野毛二俣王 | 凡牟都和希王 ほむつわけのみこ | 弟比売真若(妹) *父:洷俣那加都比古 かはまたなかつひこ | 母々恩己麻和加中比売 =百師木真若中比売(姉) |
古事記 | 若沼毛二俣王 | 品陀和気命 ほむだわけのみこと | 息長真若中比売(姉) | 百師木伊呂弁 =弟日売真若比売命(妹) |
🔍 ひとこと:ちょっと気になる凡牟都和希王🫢
📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』では凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)は応神天皇とされているが、
→ 応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)
→ 垂仁天皇の第一皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)の可能性は❓
→ 応神天皇は、後の継体天皇の正統性を補強するための創作なんてことは❓
妃:糸媛(いとひめ)は、桜井田部連男鉏(おさひ)の妹
→ 子:隼総別皇子(はやぶさわけのみこ:隼別皇子)
・・・のちに仁徳天皇に反逆したことにより雌鳥皇女と共に殺害される
妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
→ 子:大葉枝皇子(おおはえのみこ)
→ 子:小葉枝皇子(おはえのみこ)
応神天皇の事績
🌟 筑紫の蚊田(かだ)で生まれた
・・・仲哀天皇の段では、生まれた場所は、宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町)
🌟 名前の由来
腕についた肉の形が、弓を打つときにつける鞆(とも:昔の人は鞆のことを「ほむた」と呼んだ)に似ていたことから、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と名付けた
📚「異伝」では、角鹿(つぬが:敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)を参拝したときに太子と大神が名前を交換したという話があり、大神の名前が元は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名前が去来紗別尊(いぞさわけのみこと)となるが証拠がなく、未詳である
🌟 即位元年(太歲庚寅年1月1日):即位
🌟 即位2年3月:仲姫(なかつひめ)皇后とした
🌟 即位3年10月: 東方の蝦夷に厩坂道(うまやさかのみち)を作らせた
・・・奈良県橿原市周辺の道路整備
🌟 即位3年11月:ほうぼうで訕哤いている(さばめ:大声で騒いぐ)海人(あま)を大浜宿禰(おおはまのすくね:阿曇連の祖)が平定、その功で海人の宰(みこともち:統率者)にした
・・・📍佐麼阿摩(さばあま)ということわざが生まれた
🔍 ひとこと:阿曇氏(あずみ)について
福岡・志賀島を本拠とする玄界灘の海上ネットワークを牛耳った古代海人豪族
・・・ちなみに志賀島は、金印「漢委奴国王」が出土した場所
阿曇氏の一部は、奈良~平安初期に信濃・安曇野へ移住したとされる伝承がある
・・・安曇野の地名・祭り・神社にその痕跡が見られる
🌟 即位3年:この年に百済で✅辰斯王(しんしおう) が王になったが、天皇に礼をしなかった
→ 4人の重臣を百済に派遣して問い詰めました
紀角宿禰(きのつのすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木菟宿禰(つくのすくね)
→ 百済は、辰斯王を殺して謝罪
→ 紀角宿禰らは、✅阿花(あか)を王に立てて帰国
📘『三国史記』に記載される出来事
第16代辰斯王(在位年:385年〜392年)
→ 392年狩猟中に落馬死
第17代阿莘王(在位年:392年〜405年)
🔍 ひとこと:武内宿禰の子供について
武内宿禰は5代の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えた伝説の忠臣
『古事記』では、武内宿禰の子として 上記の7男(4人の重臣を含む)2女を列挙している
▲ 波多八代宿禰(はたのやしろのすくね:波多氏の祖)
▲ 許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね:巨勢氏の祖)
▲ 蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね:蘇我氏の祖)
▲ 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね:平群氏の祖)
・・・『日本書紀』仁徳天皇の段のエピソード
・・・大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれ、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)が飛び込んだので、鳥の名を交換した
▲ 木角宿禰(きのつののすくね:紀氏の祖)
▲ 葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ:葛城氏の祖)
▲若子宿禰(わくごのすくね:江野財臣の祖)
▲久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
▲怒能伊呂比売(ぬのいろひめ)
🌟 即位5年8月:諸国に、海人部(あまべ:海部)・山守部(やまもりべ:山部)を制定
・・・ 実際の部民制整備は5世紀後半以降(雄略〜継体期)と考えられる
🌟 即位5年10月:伊豆国に長さ十丈(約30m)の船を造らせた
→ 船は、軽くて速んだので「枯野(からの)」と命名
→ 本来は「軽野(かるの)」が正しく、訛って「枯野(からの)」になったのではと注記されている
🌟 即位6年2月:近江国に行幸し、菟道野(うじの:山城国宇治郡:京都府宇治市)で歌をよんだ
🌟 即位7年9月:高麗人・百済人・任那人・新羅人がやって来た
→ 武内宿禰に命じて、それぞれの韓人たちを率いて池を造らせ、池を韓人池(からひとのいけ)と名付けた
🌟 即位8年3月:百済人が来朝
📘『百済記』によると
阿花王(あくえおう)が王になったとき、天皇に対して礼をしなかった
→ そのため、枕彌多禮(とむたれ)・峴南(けんなん)・支侵(ししむ)・谷那(こくな)・東韓(とうかん)の地を奪われたので、王子の✅直支(とき)を天皇のもとに送った(人質)
📘『三国史記』に記載される出来事
第17代阿莘王(在位年:392年〜405年)
→ 397年王子の腆支(直支)を倭へ人質として派遣
・・・倭の軍事援助を引き出すためでは🤔
↓↓↓↓
🔍 ひとこと:広開土王碑からわかる4世紀末から5世紀初頭の倭と朝鮮半島情勢
広開土王碑は、高句麗の第19代広開土王(在位391〜412年)の功績を顕彰する石碑
→ 414年に長寿王(広開土王の子)が建立(発見は19世紀末)
→ 倭の朝鮮進出に関する文字もほられている
一部内容の解釈(一般的通説)
391年頃 倭が海を渡って朝鮮半島(百済・新羅など)に侵攻し、これらを「臣民にした」 👉 この時点では、倭が攻勢 396年頃 高句麗(好太王)が百済を攻撃 百済王は降伏 👉 このときは、高句麗が百済を下した 399年頃 百済王が誓約を破り倭国と和通 400年頃 倭軍がまた朝鮮半島にやってきた(百済の要請で出兵) 今度は新羅も攻撃され、新羅は高句麗に救援を依頼 高句麗軍が出動して、倭軍を撃退 404年頃 帯方に侵入した倭を撃退 👉 倭軍は高句麗に敗れる |
🌟 即位9年4月:武内宿禰が弟に讒言(ざんげん:嘘の告げ口)され、無実を証明
→ 筑紫(九州)視察に派遣された武内宿禰を、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が「筑紫と三韓を合わせて謀反を企んでいる」と讒言
→ 天皇は武内宿禰の殺害を命じるが、武内宿禰に似た真根子(まねこ:壱岐直の祖)が身代わりとなり自殺
→ 武内宿禰は、密かに紀水門(現在の和歌山市周辺)経由で、朝廷へ到着し、無実を訴えた
→ 天皇は、兄弟に探湯(くがたち:熱湯に手を入れて火傷しなければ無実という神明裁判)をさせ、勝利した武内宿禰は名誉を回復
→ 甘美内宿禰は、紀直らの祖の奴隷とされた
🔍 ひとこと:壱岐氏について
壱岐島を拠点とした外交・航海・占術を担った氏族で「神別系」と「渡来系」の2系統あり
▲神別系:壱岐直→壱岐公へ
→ 中臣氏系統とされ、海神信仰・亀卜を司った
▲渡来系:壱岐史→壱岐連へ
→ 百済・唐の系統を称し、外交や通訳を担った
🌟 即位11年10月:剣池(つるぎ)・軽池(かる)・鹿垣池(しかかき/かのかき)・厩坂池(うまやさか)を作った
・・・いずれも大和盆地南部(奈良県橿原市・軽‑石川地区)に集中する灌漑用ため池
・・・築造は古墳時代前〜中期(4〜5世紀)
・・・694年の藤原京造成時も主要堤は残され、条坊計画に既存水利を組み込んだ
・・・第8代孝元天皇陵の周濠=剣池(現 石川池)は現存
髪長媛(かみながひめ)を皇子・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に譲る
🌟 即位11年:この年、日向国(宮崎県)の美しい乙女・髪長媛(かみながひめ:諸県君牛諸井の娘)のうわさを聞いた天皇は、妃に迎えたいと思った
🌟 即位13年3月:天皇は、髪長媛(かみながひめ)を呼ぶために使者を派遣
🌟 即位13年9月:日向から都へやってきた髪長媛を桑津邑(くわつのむら:大阪市東住吉区桑津町)住まわせた
→ 皇子・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:のちの仁徳天皇)が心を奪われ、天皇はそのことを察し、皇子に与えるという意思表示の歌をよみ、皇子はその歌に深く喜び、返歌を詠んだ
→ 大鷦鷯尊と髪長媛は慇懃(ねんごろ:親しく関係でむすばれる)となった
📚「異伝」によると
日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)は、年老いて朝廷に仕えることができなくなり、帰郷するときに、娘の髪長媛(かみながひめ)を献上することにした
→ 髪長媛が途中の播磨国(兵庫県南部)についたときに、天皇は淡路島で狩りをしていた
→ 天皇は、数十頭の大鹿が海を渡って鹿子水門(かこのみなと:現在の加古川河口付近)に到着するのを見て、家臣に確認させた
→ 鹿に見えたのは、角をつけた鹿の皮をまとった人々で「諸県君牛は都を離れますが、娘・髪長媛を献上する」答えた
→ 天皇は喜び、髪長媛を自分の船に乗せた
・・・📍鹿子水門(かこのみなと:加古川河口付近):到着した場所の地名の由来
・・・📍水夫(ふなこ)を鹿子(かこ)と呼ぶのはこのときから
🌟 即位14年2月:百済王は真毛津(まけつ:来目衣縫の始祖)という名前の縫衣工女を貢上
🌟 即位14年:弓月君(ゆづきのきみ:秦氏の祖)が百済より帰って来て「私の国の民120県(数千~1万人超の大集団と推定される)が、帰化する途中で新羅の妨害にあって、加羅国に足止めされいる」と訴える
→ 天皇は、解決するために葛城襲津彦を派遣
→ ところが襲津彦は、3年間戻って来なかった
🔍 ひとこと:秦氏について
5~7世紀のヤマト政権に絹織物・土木・鉱山などを伝えた最大級の規模と技術力をもつ渡来系大豪族
📘『新撰姓氏録』では、弓月君は始皇帝の末裔とされているが
→「秦氏=朝鮮半島南東部(新羅~伽耶圏)を母体にした渡来集団」とみる説が現在いちばん説得力がある
🌟 即位15年8月:百済王が阿直伎(あちき:阿直伎史(あちきのふびと) の始祖)と良馬2頭を献上
→ 軽(かる:奈良県橿原市大軽)の坂上の厩(うまや)で飼い、阿直伎を馬飼いの担当とした
・・・📍厩坂(うまやさか):馬を飼っていた所
→ 阿直伎は経典が読めたので、太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした
→ 天皇は、阿直伎に「お前よりも勝る博士がいるか?」と尋ね「王仁(わに)という人が優れている」と答えた
→ 上毛野君の祖先の荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)を百済に派遣して王仁を呼び寄せた
・・・神功皇后49年の段で、新羅討伐のために荒田別・鹿我別(巫別と同一人物と思われる)を将軍として派遣している
🌟 即位16年2月:王仁(わに:書首(ふみのおびと)始祖)が百済から来日し、太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった
→ 太子は、諸々の典籍を理解できないことはなかった(優秀だった)
🔍 ひとこと:王仁(わに)について
『古事記』には、百済から渡来した 和邇吉師(王仁) が 「論語」十巻と「千字文」一巻 を携えたと明記されている。
▲「千字文」は6世紀初頭成立で、応神朝(4〜5世紀)には存在せず、年代が合わない
▲「論語」は成立が早いため渡来の可能性はあるが、朝鮮半島側に王仁を示す同時代史料は皆無
→ そのため 王仁は伝説上の人物、または複数の渡来学者の合成像と見る説が主流
→現在は 大阪・枚方市と韓国・霊岩郡の「伝王仁墓」を介した日韓友好の象徴として顕彰されている
🌟 即位16年:百済の阿花王の死去
→ 日本の人質となっていた直支王(ときおう)を東韓の3城(甘羅城・高難城・爾林城)を与えて帰国させた
📘『三国史記』に記載される出来事
第17代阿莘王(在位年:392年〜405年)
第18代腆支王(=直支王:在位年:405年〜420年)が倭から帰国して即位
*3城譲渡の話はない
🌟 即位16年8月:平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に派遣、弓月の民と葛城襲津彦を連れ戻す
🌟 即位19年10月:天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人(くずびと:奈良県吉野地方の先住民族)が来朝し、醴酒(こざけ)を献上して歌をよんだ
→ 人となりは淳朴で、木の実やカエルを煮た毛瀰(もみ)を食べ、険しい山に住んでいたため朝廷にはほとんど来なかっが、その後はしばしば来朝しては栗・菌(たけ:きのこ)年魚・(あゆ)などを献上した
・・・国樔人は、縄文由来の文化・血統を色濃く受け継いでいたのでは🤔
🌟 即位20年9月:阿知使主(あちのおみ:倭漢直(=東漢氏)の祖)・その子供の都加使主(つかのおみ)が17県の人々を率いて帰化した
🌟 即位22年3月:難波の大隈宮に滞在中、妃の兄媛(えひめ:御友別(みともわけ:吉備臣の祖)の妹)が「しばらく吉備に帰りたい」と願ったので、淡路の御原の海人80人をつけて吉備へ帰らせた
→ 4月:兄媛(えひめ)は難波大津(難波津)より出発、天皇は高台から兄媛の船を見送りながら別れの歌を詠んだ
🌟 即位22年9月:天皇は、淡路島で狩りをして、吉備へ向かい、途中小豆島にも立ち寄って遊んだ
→葉田(はだ)の葦守宮(あしもりのみや)に滞在中に、御友別(みともわけ:妃・兄媛の兄)が参上し、兄弟子孫を膳夫(かしわで:食事の調理や配膳)としてを奉仕させた
→ 天皇は喜び、吉備国を分割して与えた
▲川嶋県(かわしま):長男の稲速別(いなはやわけ:下道臣の始祖)
▲上道県(かみつみち): 次男の仲彦(なかつひこ:上道臣・香屋臣の始祖)
▲三野県(みの) 三男の弟彦(おとひこ:三野臣の始祖)
▲波区芸県(はくぎ)弟の 鴨別(かもわけ:笠臣の始祖)
▲苑県(その) 兄の浦凝別(うらこりわけ:苑臣の始祖)
→ 妃の兄媛にも織部(はとりべ:織物を司る部民)を与え、今も吉備国にその子孫がいる
🌟 即位25年:百済の直支王が死去、子供の✅久尓辛(くにしん)が王になった
→ 王は幼少で、木満致(もくまんち)が政治を行った
→ 木満致は、王の母と関係を持ち、振る舞いが横暴だった
→ 天皇は、それを聞いて召還した
📘『百済記』
木満致(もくまんち)は、木羅斤資(もくらこんし:神功皇后49年の新羅討伐で登場する百済の将軍)が新羅遠征時に娶った女性との間に生まれた
父の功で任那を治め、百済と日本を行き来し、日本の命で百済の政務を執ったが、専横が過ぎて天皇に召還された
📘『三国史記』に記載される出来事
第19代久尓辛王(在位年:420年〜427年)
→ 若年のため実政不明
*木満致の話はないが
*久尓辛王の母で直支王の妃・八須夫人は、近年は倭人と見る説が有力
🌟 即位28年9月:高麗(こま)の王が使者を派遣して
→ 届けられた 表(文書)に「高麗王、教日本国也」とあった
→ 太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)はこれを読んで激怒、使者を叱責し、表を破り捨てた
・・・相手国の君主への敬称がなく、「教」は「教示する、命じる」の意で、相手を臣下と見なす表現
・・・菟道稚郎子は、王仁(わに)から教わり外交文書に精通してたってことかな🤔
🌟 即位31年8月:天皇は、老朽化した枯野(からの:即位5年に製造した船)の名を後世に残したいと詔した
→ そこで、木材を薪にして塩を作り、諸国に塩を配布して船を作る費用にあてた
→ 結果、全国から500隻の新船が献上され、武庫水門(むこのみなと)に集結した
→ 武庫水門に停泊中の新羅の使者の失火により、集められた多くの船が焼失
→ 新羅王は、恐れて、匠者(たくみ:木工技術者)を献上
・・・📍猪名部(いなべ)らの始祖となった
→ 天皇は、枯野船を薪として燃やした際、燃え残った木材を珍しく思い、琴を作らせた
→ その音はさやかで遠くまで聞こえ、天皇は歌をよんだ
🌟 即位37年2月:阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ:中国江南地方)へ派して、縫工女(ぬいめ:織物の技術者の女性)を求めさせた
→ 高麗(こま)に到着し、呉への道がわかるものを要請
→ 高麗王は、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)を道案内として付き添わせ、呉に到着
→ 呉王は、縫工女として以下の4人の女性を与えた
兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)
・・・『晋書』では、413 年に倭・高句麗が一緒に朝貢したとある
・・・応神37年=413年はあり得るが決め手不足
🌟 即位39年2月:百済の直支王は、妹の新斉都媛(しせつひめ)を日本へ派遣
→ 新齊都媛は、7人の婦女を従えて来日
・・・死んだはずの直支王が再登場❓
🌟 即位40年1月8日:天皇は、息子の大山守命(おおやまもりのみこと)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇) に、「長男と末子では、どちらがより愛おしいか?」と質問
→ 兄の大山守命は、長子(年長の子)と答え
→ 弟の大鷦鷯尊は、天皇の顔色を見て「成長した長子より、未熟な下の子は心配で愛おしい」と答えた
→ 天皇は 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を皇太子に立てたいと考えていたので、大鷦鷯尊(仁徳)の答えを喜んだ
🌟 即位40年1月24日:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を立太子
→ 大山守命(おおやまもりのみこと)には、山川林野の管理を命じ
→ 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)には、太子を助けて国政を担わせた
🌟 即位41年2月:明宮(あきらのみや:軽島豊明宮?)で崩御(110歳)
📚「異伝」では、大隈宮(おおすみのみや)で崩御
🌟 即位41年2月:同月に、阿知使主たちが呉から筑紫に到着
→ 胸形大神(宗像大神:むなかたのおおかみ)に求められ、呉の工女の兄媛(えひめ:御使君(みつかいのきみ)の祖)を献上
→ 残る3人の婦女(弟媛・呉織・穴織)を連れて津国(現在の兵庫県)の武庫(むこ)に着いた時に天皇が崩御していたので、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと/後の仁徳天皇)に献上した
→ 彼女たちの子孫が呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)です
🔍 ひとこと:宗像大神について
宗像大神は、宗像三女神(海と往来を守る三柱の女神)を総称した呼び名
宗像大社(福岡県宗像市:3つの宮を合わせた総称)は、宗像三女神を祀る神社の総本社
▲田心姫(たこり):奥津宮(沖ノ島)で沖を守る
▲市杵嶋姫(いちきしま): 中津宮(大島)で島を守る
▲湍津姫(たぎつ): 辺津宮(本土)で岸を守る
→ 宗像氏(古代海人系豪族)が奉斎
→ 玄界灘〜瀬戸内〜畿内を結ぶ海上ルート(古代外交・交易の大動脈)の玄界灘口に位置
→ 祭祀開始:4世紀後半に沖ノ島の無社殿の磐座(いわくら:岩に対する信仰)祭祀と考えられ、大島・本土は6〜7世紀まで物的痕跡がない
→沖ノ島は、女人禁制で、今も一般参拝・観光は全面不可
玄界灘〜瀬戸内の海上交通

歌
応神天皇が、宇治の高地(菟道野)に登り、近江から山城へ広がる盆地を一望(国見)してよんだ「国ほめ歌」
*国ほめ歌は、天皇や有力者が国土を見渡して、その豊かさ・美しさをほめたたえる歌のことで、国見(高い所に登って見渡す)の直後に国ほめ歌(土地の豊かさを言葉で讃える歌)を詠むのがワンセット
千葉の葛野を見れば 百千足る
家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
葛野のあたりを見渡すと、
家々がたくさんあって、国のすぐれた景色も見えるなあ
応神天皇が、髪長媛を皇子・大鷦鷯尊に与える気持ちを歌に託して伝える
いざ吾君
野に蒜摘みに 蒜摘みに
我が行く道に 香ぐはし 花橘
下枝らは 人皆取り
上枝は 鳥居枯らし
三栗の 中枝の ふほごもり
赤れる乙女
いざさかばえな
さあ、我が君よ。野に蒜を摘みに行きましょう。
その道には、香り高い橘の花が咲いています。
下の枝の花は、人がすべて取ってしまいました。
上の枝は、鳥が散らしてしまいました。
でも中ほどの枝には、ふっくらとした赤い乙女が残っています。
さあ、その花を咲かせましょう。
応神天皇の贈歌を受けて、大鷦鷯尊が喜びと感謝を返す返歌を詠む
水溜まる 依網池に
蓴繰り 延へけく知らに
堰杭築く 川俣江の
菱茎の さしけく知らに
我が心し いや愚にして
水がたまった依網池で、
蓴菜(じゅんさい)を採ろうと手を伸ばしていたが、
その奥にある川の入り江では、菱の茎が遠くまで伸びていた。
そんなことも知らずにいた私は、なんと愚かだったのか。
* 髪長媛のようなすばらしい女性がいたのに気づかなかったという意味
妃の兄媛(えひめ)を見送りながら別れの歌を詠んだ
淡路島 いや二並び
小豆島 いや二並び
寄ろしき島々
誰かた去れ放ちし
吉備なる妹を
相見つめもの
淡路島も小豆島も、二つ並んで寄り添っているのに、
愛しい吉備の君(兄媛)だけが離れていってしまった。
誰が、私から君を引き離したのか…。
長年使われてきた船の枯野(からの)を薪として燃やした際、燃え残った材で琴を作った
天皇は、その音に感動して武庫水門からこれから航路に入る由良の門(紀伊水道西口=由良瀬戸説が有力)をイメージとして詠んだ
枯野を 塩に焼き
其が余り 琴に作り
掻き弾くや 由良の門の
門中の海石に
振れ立つ なづの木の さやさや
枯野船を塩を作るために焼き、
その余りを琴に作って弾いたら、
由良の港の海石で震えているナズノキ(=意味未詳)のようにさやさやと音がするよ

瀬戸内〜畿内の海上交通
由良瀬戸 → 紀伊水道 → 鳴門海峡は、瀬戸内海の内側を通る淡路島の南回りルート(大船団向き)
*ちなみに、明石海峡をとおる淡路島の北回りルートは、最短で潮流が早い
🕓 更新日:2025年7月30日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています