はじめに
天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介
▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある
▲ 📚「異伝」について本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)
▲📍:地名などの由来
▲ 📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
→『記紀』では詳しく語られない「継体天皇の出自(系譜)」についての資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/上宮記
▲ 📘『先代旧事本紀』
→ 正史ではなく、物部・忌部など祭祀氏族の視点が色濃い別立場から書かれた歴史書
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/先代旧事本紀
基本情報
在位期間 | 前29年~後70年(享年140歳) |
皇居 | 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや:奈良県桜井市) |
陵 | 菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ:奈良市:宝来山古墳) |
和風諡号 | 活目入彦五十狭茅天皇 (いくめいりひこいさちのすめらみこと) |
父 | 崇神天皇(第三皇子) |
母 | ✅御間城姫(みまきひめ) |
皇后 | ✅狭穂姫命(さほひめのみこと):最初の皇后 ✅日葉酢媛命(ひばすひめのみこと):2番目の皇后 |
妃 | ✅綺戸辺(かにはたとべ) 渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ) 眞砥野媛(まとのひめ) 薊瓊入媛(あざみにいりひめ) 苅幡戸辺(かりはたとべ) |
系譜
✅ 母:御間城姫(みまきひめ)
→ 父:大彦命(おおひこのみこと)は、四道将軍(北陸)の一人
・・・大彦命の父:第8代孝元天皇(第一皇子)
・・・大彦命の母:欝色謎命(兄:欝色雄(うつしこおのみこと)は「穂積氏」の祖:ニギハヤヒ系の天孫氏族)
→ 子:活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと:第11代垂仁天皇)
→ 子:彦五十狹茅命(ひこいさちのみこと)
→ 子:国方姫命(くにかたひめのみこと)
→ 子:千々衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
→ 子:倭彦命(やまとひこのみこと)
→ 子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)
✅ 皇后:狭穂姫命は、彦坐王(第9代開化天皇の子)の娘
・・・『日本書紀』には系譜なし
→ 兄:狭穂彦王(甲斐国造の祖)から天皇の殺害を頼まれ失敗、兄妹とも自害
→ 子:誉津別命(ほむつわけのみこと)
・・・大人になっても言葉を話さず、白鳥を見て初めて言葉を発した
🔍 ひとこと:ちょっと気になる凡牟都和希王🫢
📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
乎富等大公王(継体天皇)につながる、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)は第15代応神天皇とされているが、
→ 応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)
→ 垂仁天皇の第一皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)の可能性は❓
凡牟都和希王(応神天皇)
↓
若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)
↓
大郎子(意富富等王)
↓
乎非王
↓
汗斯王(彦主人王)
↓
乎富等大公王(継体天皇)
✅ 皇后:日葉酢媛命は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子である丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)の娘
→ 子:五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
・・・弓矢を望んだので、石上神宮(武器庫のような場所)を管掌
・・・のちに、物部十千根(もののべのとおちね)に治めさせた(物部氏が石上神宮の祭祀となる起源)
→ 子:大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと:第12代景行天皇)
→ 子 : 大中姫命(おおなかつひめのみこと:第14代仲哀天皇の妃と同名?)
→ 子 : 倭姫命(やまとひめのみこと:初代斎王)
8孝元天皇
├ 大彦命(おおひこのみこと)
│ └ 御間城姫(みまきひめ)
└ 9開化天皇
├ 10崇神天皇(すじん)
└ 彦坐王(ひこいますのみこ)
├ 狭穂姫命(さほひめのみこと)
└ 丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)
└ 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
✅ 妃:綺戸辺(かにはたとべ:『古事記』弟苅羽田刀弁)
→ 父:山背大国の不遅
→ 子:両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)は、ヤマトタケルの妃で、第14代仲哀天皇の母
→ 子:磐衝別命(いわつくわけのみこと)
・・・「三尾君」の始祖(北近江から北陸地方に勢力を持った地方豪族)
・・・📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』には磐衝別命の後裔の系譜の記載があり
・・・五世孫の振媛(ふるひめ)は彦主人王(ひこうしのおう)に嫁ぎ、乎富等大公王(おおどのおおきみ:第26代継体天皇)を生んだ
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ:皇后(日葉酢媛命)の妹)
→ 子:鐸石別命(ぬてしわけのみこと)
→ 子:胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ:皇后(日葉酢媛命)の妹)
→ 子:池速別命(いけはやわけのみこと:息速別命(いこはやわけのみこ))
→ 子:稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
妃:苅幡戸辺(かりはたとべ:苅羽田刀弁:弟苅羽田刀弁の姉)
→ 子:祖別命(おおじわけのみこと)
→ 子:五十日足彦命(いかたらしひこのみこと:子は「石田君」の始祖)
→ 子:胆武別命(いけたるわけのみこと)
事績
🌟 即位元年(太歲壬辰年1月12日):即位
🌟 即位2年2月:狭穂姫命(さほひめのみこと)を皇后とした
🌟 即位2年10月:都を纒向(奈良県桜井市)の珠城宮(たまきのみや)に定める
🌟 即位2年:任那の使者・蘇那曷叱知(そなかしち:10崇神天皇の代に来日)が、帰国に際して天皇から任那王へ贈られた赤絹100匹(200段)を新羅に奪われた
→ これが任那と新羅の争いの始まりとなった
📚「異伝」――
意富加羅国(おおからのくに:大伽耶)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと:別名:于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき))が、天皇に仕えるため日本へ
→ 穴門(現・山口県付近)で伊都々比古(いつつひこ:偽の王)に行く手を阻まれ、出雲を経て越国の笥飯浦(けひのうら)に漂着
・・・📍 角鹿(つぬが:敦賀)の地名の由来:王子の額に角があった
→ 10崇神天皇の崩御後、11垂仁天皇に3年仕える
→ 帰国に際して贈られた赤絹を新羅に奪われ、これが両国の争いの始まりとなった
・・・📍彌摩那国(みまなのくに:任那):崇神天皇の名(御間城:ミマキ)を国名にするよう命じられた
📚「異伝」――
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は黄牛を追い、白い石を牛の代償として受け取る
→ 石が美しい乙女の姿になり、すぐにいなくなる
→ 妻に尋ねると、東の方へ向かったと答えたので、乙女を追って日本に渡った
→ 乙女は難波と豊国の国前郡で、比賣語曾社(ひめごそのやしろ)の神となった
🌟 即位3年3月:新羅の王子のアメノヒボコ(天日槍)が7種の神宝をもって来朝
→ 但馬国に納めて神宝にした
▲羽太玉(はぶとのたま)一つ
▲足高玉(あしたかのたま)一つ
▲鵜鹿々赤石玉(うかかのあかしのたま)一つ
▲出石小刀(いづしのこかたな)一つ
▲出石桙(いづしのほこ)一枝
▲日鏡(ひかがみ)一面
▲熊神籬(くまのひもろぎ)一具
📚「異伝」――
アメノヒボコ(天日槍)自らの国を弟に譲り、播磨国の宍粟邑(しさわのむら)に到着
→ 天皇は大友主(三輪君の祖)と長尾市(倭直の祖)を派遣して身元確認
→ アメノヒボコは8つの神宝を献上
▲羽太玉(はぶとのたま)は、葉細珠(はほそのたま)
▲膽狹淺大刀(いささのたち)が追加
→ 天皇は播磨または淡路島の邑を与えようとしたが、アメノヒボコは自ら選びたいと願い出る
→ 菟道河(宇治川)→ 近江国の北の吾名邑(あなむら)→ 若狭国 → 但馬国の西に住むことに決定
→アメノヒボコの従者が、近江国鏡村の陶人(すえびと:陶器を作る職人)となった
🔍 ひとこと:アメノヒボコ(天日槍)は、新羅から海を渡り、鉄を鍛え、但馬を開いた「渡来・製鉄・開拓」の神
→ 妻:麻拕能烏(またのお:麻多烏(またお))は、但馬の国の前津耳(まえつみみ:📚「異伝」前津見(まえつみ)・太耳(ふとみみ))の娘
→ 子孫:諸助(もろすけ)→ 日楢杵(ひならぎ)→ 清彦(きよひこ)→ 田道間守(たじまもり)
→ 『古事記』の妻
・・・阿加流比売神(アメノヒボコの最初の妻)が、日本の難波にわたり、比売語曽社の神になった
・・・アメノヒボコは、阿加流比売神を追って来日するも、難波に入れずに但馬に滞在
・・・そこで前津見(但馬の豪族の娘)と結婚
・・・▲『日本書紀』では
・・・比売語曽社の神は童女(名前はない)
・・・童女を追って来日するのは都怒我阿羅斯等(大伽耶の王子)
→ アメノヒボコは、神功皇后の母方の祖先
・・・▲清彦(アメノヒボコの子孫)の娘:葛城高顙媛(神功皇后の母)の母
・・・▲清彦(アメノヒボコの子孫)の兄弟:葛城高顙媛(神功皇后の母)の父
→ 垂仁天皇の時代に、アメノヒボコ本人・清彦(曾孫)・田道間守(玄孫)が登場する矛盾❗️
🌟 即位4年9月:皇后の同母兄・狹穗彦王(さほひこのみこ)が謀反を企て、皇后・狹穗姫(さほびめ)のに天皇殺害をそそのかした
🌟 即位5年10月:天皇が來目の高宮で皇后の膝枕で昼寝していたとき、皇后は小刀で暗殺を遂行できず涙を流した
→ その涙で目覚めた天皇が不吉な夢(小蛇と大雨)を語ると、皇后は謀反の計画を告白
→ 兄の意志を否定できず、天皇の恩にも背けず、苦悩の末に涙があふれたと語り、小蛇は小刀、雨は涙の象徴だと説明
→ 天皇は、狹穗彦(さほひこ)討伐のため八綱田(やつなた:豊城入彦(10崇神天皇の皇子)の子)に兵を率いさせた
→ 狹穗彦は、稲を積んだ稲城(いなぎ)に立てこもり抵抗
→ 皇后は、皇子(誉津別命:ほむつわけのみこと)を抱いて稲城に入る
→ 天皇は、皇后と皇子の退去を求めたが応じず、八綱田が城に火をかけた
→ 皇后は、焼け落ちる中から皇子を抱いて出て、罪を詫びて自死を決意、後宮の世話を丹波道主王の娘たちにに託した
・・・丹波道主王は:彦坐王(ひこいますのみこ:9開化天皇の皇子)の子
・・・📚「異伝」では、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと:9開化天皇の別皇子)の子
→ 狹穗彦と皇后は、共に命を落とした
→ 天皇は、八綱田の功を褒め、名を倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)とした
🔍 ひとこと:彦坐王(ひこいますのみこ)
『古事記』では日子坐王(開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)の第三皇子)とあり、詳細な系譜が記される人物、子孫に神功皇后(息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)がいる
→ 子:丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は、四道将軍の一人
・・・丹波道主命の娘:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の2番目の皇后
・・・丹波道主命の母は、息長水依比売命(アメノミカゲ(天之御影神)という神様の娘)
・・・この神さまは、近江国の三上山のご神体で、刀鍛冶の神
→ 子:狭穂姫命(さほひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の最初の皇后
・・・兄:狭穂彦王(さほひこのみこ)に天皇殺害をそそのかされ失敗し、兄妹は自害
・・・二人の母は、沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の娘)
🌟 即位7年7月:野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たぎまのくえはや)の相撲
→ 天皇は、當麻蹶速(たぎまのくえはや:當麻邑(奈良県葛城市)の怪力男)に勝つ者を求め
→ 長尾市(倭直祖)を派遣して、出雲国の野見宿禰(のみのすくね)を召喚
→ 捔力(すまい:相撲)を取らせた
→ 當麻蹶速(たぎまのくえはや)が肋骨と腰を踏み折って死んだ
・・・📍腰折田(こしおれだ)という地名が残る
→ 天皇は蹶速の土地を野見宿禰に与え、野見宿禰(のみのすくね)は朝廷に仕えた
🌟 即位15年2月:丹波の娘5人を宮中に召し入れた
🌟 即位15年8月:長女・日葉酢媛(ひばすひめ)を皇后とした
→ 次女・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりびめ)を妃とした
→ 三女・眞砥野媛(まとのひめ)を妃とした
→ 四女・薊瓊入媛(あざみにいりびめ)を妃とした
→ 五女・竹野媛(たけのひめ)は醜いため国に返され、葛野で輿から落ちて自害した
・・・📍弟国(おとくに:山城国乙訓郡)の地名の由来:堕国(おちくに)がなまった
🌟 即位23年9月:天皇は「誉津別皇子(ほむつわけのみこ)は30歳になっても言葉を話さず泣くばかり」と相談
🌟 即位23年10月:誉津別皇子(ほむつわけのみこ)が鳴鵠(くぐい:白鳥)を見て「これは何?」と問いかけた
→ 天湯河板舉(あめのゆかわたな:「鳥取造」の祖)が、出雲(📚「異伝」但馬国)で白鳥を捕獲
🌟 即位23年11月:誉津別皇子に白鳥が献上され、皇子は言葉を話せるようになる
→ 湯河板舉は、功績により鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を与えられた
→ 鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかいべ)・譽津部(ほむつべ)を定めた
🌟 即位25年2月:天皇は五大夫(天皇の側近)に、崇神天皇の徳を称え神祇への祭祀を怠らぬことを誓った
🌟 即位25年3月:それまで天照大神を祀っていた豊耜入姫命(とよすきいりびめ:10崇神天皇の皇女)に代えて、倭姫命(やまとひめのみこと)を斎王に任命
→ 倭姫命(やまとひめのみこと)は各地を巡る
・・・菟田の筱幡(ささはた)→ 引き返して近江国 → 美濃 →伊勢国
→ 天照大神から「この国に留まりたい」との神託を受ける
→ 斎宮(いわいのみや:斎王の宮)を五十鈴川(いすずがわ)のほとりに建てた
・・・📍磯宮(いそのみや)という
・・・天照大神が天から初めて地上に降りたとされる場所(伊勢神宮・内宮の起源)
📚「異伝」――
天皇は、倭姫命(やまとひめのみこと)を依代(よりしろ)として天照大神を祀らせ、神意により伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷座
→ 大水口宿禰(おおみなくちのすくね:穂積臣の祖)に倭大神(やまとのおおかみ)が降臨
→「正しい神祀りの姿勢」を説いた
・・・天照大神 → 天界(高天原)を治める
・・・天皇(皇御孫)→ 地上世界(葦原中国)を治める
・・・倭大神(地の神)→ 大地の神々を治める
・・・深い理解と敬意が必要、正しく祀れば寿命は延び天下は平和になる
→ 大倭大神を誰に祀らせるかを占い、渟名城稚姫命(ぬなきいりびめのみこと:10崇神天皇の皇女)が選ばれたが病により果たせず
→ 大長尾市宿禰(ながおちのすくね:「大倭直」の祖)が祀った
🔍 ひとこと:五大夫(天皇の側近)について
▲武渟川別(たけぬなかわわけ:「阿倍臣」の祖)
・・・大彦命(第8代孝元天皇の皇子)の子、四道将軍の1人(東海)
▲彦国葺(ひこくにふく:「和珥臣」の祖)
・・・天足彦国押人命(第5代孝昭天皇の皇子)の子孫
▲十千根(とおちね:「物部連」の祖)
・・・📘『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒ(饒速日命)の七世孫
・・・父:伊香色雄命(いかがしこおのみこと:伊香色謎命(8孝元天皇の妃・9開化天皇の皇后)の兄)
▲武日(たけひ:「大伴連」の祖)
▲大鹿島(おおかしま:「中臣連」祖)
🌟 即位26年8月:出雲の神宝を調べるために、物部十千根大連(とおちねのおおむらじ)を派遣
→ 神宝は、献上され、物部十千根大連が取り扱いをまかされた
🌟 即位27年8月:兵器(武器)を神の幣(まひ:捧げ物)とする祭祀開始
→ 弓矢・横刀を神社に奉納、神地(かみどころ)・神戸(かんべ)を定めて季節ごとに祀らせた
🌟 即位27年:屯倉(みやけ:天皇の直轄地)を來目邑(くるめのむら)に定めた
🌟 即位28年10月:天皇の同母弟の倭彦命((やまとひこのみこ)が亡くなった
🌟 即位28年11月:倭彦命の身狹(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬った
→ 殉葬(従者などを一緒に埋葬する風習)を哀れんだ天皇は「古き風習でも良くなければ従うべきでない」として殉葬を禁じた
🌟 即位30年1月:天皇は皇子たちに「欲しいものを言え」と問い
→ 兄の五十瓊敷命(いにしきのみこと)は弓矢を望んだ
→ 弟の大足彦尊(おおたらしひこのみこと:景行天皇)は皇位を望んだ
天皇はそれぞれの願いを受け入れ、兄に弓矢を、弟に皇位継承を命じた
🌟 即位32年7月:皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった
→ 野見宿禰(のみのすくね)の提案により、殉葬の風習に替えて埴輪(はにわ)を埋納
→ 野見宿禰は、功績により土部臣(はじのおみ)の姓を与えられ、「土師連」の始祖
・・・考古学的には、埴輪は吉備の土器が起源、古墳時代に大和で発展、人物・馬の埴輪は5世紀ごろに現れ、殉死の代わりではなく儀式や権威の象徴と考えられている❗️
・・・野見宿禰の話は、土師氏(古墳造営や葬送儀礼に関った氏族)が後に作った由来伝説かな🤔
🌟 即位34年3月:山背(やましろ:山城国(京都府南部))に行幸
→ 家臣が美しい女性・綺戸邊(かにはたとべ:山背大国の不遲の娘)の存在を伝えた
→ 天皇が「この女性と結ばれるなら、何か道にしるしがあるはず」と誓った直後に「大きな亀が現れて石になる(吉兆)」
→ 綺戸邊(かにはたとべ)を後宮に迎える
・・・子:磐衝別命(いわつくわけのみこと:「三尾君(みをのきみ)」の始祖)を生みました
🔍 ひとこと:第26代継体天皇と三尾氏
継体天皇の母・振媛(ふりひめ)は、近江国三尾(現在の滋賀県高島市)の有力豪族「三尾氏」の出身で、継体天皇はこの三尾氏の血筋を引くとされています
🌟 即位35年:灌漑(農地への水の供給)を拡充
皇子・五十瓊敷命(いにしきのみこと)を河内国に派遣し高石池と茅渟池
続いて倭(やまと)でも狭城池と迹見池
さらに全国に命じて大小あわせて800余を作った
🌟 即位37年1月:大足彦尊(おおたらしひこのみこと)を立太子
🌟 即位39年10月:五十瓊敷命(いにしきのみこと)は茅渟(和泉国)の菟砥の川上宮で、剣1000本を鍛造
→ 彼の従者は川上部(またの名を裸伴(あかはだたとも))と呼ばれる
→ 剣は石上神宮に納められ、五十瓊敷命(いにしきのみこと)は石上神宮の神宝管理の責任者になる
📚「異伝」――
五十瓊敷命(いにしきのみこと)は茅渟(和泉国)の菟砥の河上という名の鍛治に太刀一千口を作らせた
→ この時、五十瓊敷命(いにしきのみこと)の配下に10の品部(職業部民) が設置され
・・・楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部
→ 太刀一千口は最初は忍坂邑(奈良県高市郡)に保管され、のちに石上神宮へ移された
→ 神託により春日臣の族の市河(いちかわ)に治めさせた
→ 市河(いちかわ)は、物部首(もののべのおびと:物部氏の中でも特定の職務を担う系統や下級氏族の始祖)といわれている
・・・市河は春日臣(和珥氏系)の出身だが、神宝管理という職務を通じて神宝・軍事を担う「物部氏グループ」に編入されたってことかな🤔
🌟 即位87年2月:五十瓊敷命(いにしきのみこと)は老いを理由に、妹の大中姫(おおなかつひめ)に神宝の管理を任せようとしたが「高い神庫には登れません」と断る
→ 兄は「梯子をかければ登れる」と説得
→ 「天の神庫も樹梯(はしだて)のままに」(困難も工夫次第)ということわざの所以
→ 大中姫(おおなかつひめ)は神宝を物部十千根大連(もののべのとおちね)に託した
→ 物部連が石上神宮に神宝を管理する起源
→ 丹波国の桑田村の甕襲(みかそ)の家にいた足往(あゆき)という犬が牟士那(むじな)という獣を食い殺し、その獣の腹にあった八尺瓊(やさかに)の勾玉が献上され、今も石上神宮にある
・・・三種の神器の八尺瓊勾玉とは、別物と見なすのが一般的な見解❗️
🌟 即位88年7月:天皇は、但馬にある「アメノヒボコの神宝」を見たいと思い、清彦(アメノヒボコの曾孫)に献上を命じた
→ 清彦は出石(いずし:小刀)だけは隠したが、酒席で見つかりやむなく献上
→ 小刀は、神府(みくら:宝物を保管する倉)に納められたが、消えた
→ 清彦のもとに戻り、また消えた
→ 霊力を感じた天皇は、それ以上追及しなかった
→ 後に、小刀は淡路島に流れ着き、神として祀られている
🌟 即位90年2月:田道間守(たじまもり:アメノヒボコの玄孫:清彦の子)に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかくのみ:不老不死の霊薬:橘(柑橘系の木)のこと)を求めさせる
→ 天皇が崩御した翌年に、常世国で「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を得て帰国
→ 任務を果たせなかったことを嘆き、天皇の陵で自害した
→ 田道間守(たじまもり)は三宅連の始祖
🌟 即位99年7月:崩御(140歳)
🕓 更新日:2025年7月9日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています