倭はなぜ「日本」と名乗り、何を整えた?(国号・天皇号・律令パッケージ)

ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期〜飛鳥) ー

7世紀後半〜8世紀初めにかけて、ヤマト王権は「倭国の大王」から「日本国の天皇」へと名乗りを切り替え、その看板にふさわしい律令パッケージ(法・戸籍・官僚制・都城)を整えていきました。ただし、ある年に突然切り替わったわけではなく、対外文書の呼び方 → 国内の称号 → 法体系という順で、20〜30年ほどの時間をかけて段階的に固まっていった、というのが現在の研究から見える像です。

「7世紀末〜8世紀初めに、『倭国の大王』が『日本国の天皇』と名乗り、律令国家としてのルールと都城をそろえた」

いつ・どこまで「倭→日本」「大王→天皇」が確認できるか

対外関係:倭国から「日の本」へイメージを上書き

中国側は、古くから日本列島の勢力を「倭(倭国)」と呼んでいました。一方、日本側は自称として「ヤマト」などを使いながら、対外的にはしばらくこの「倭」を受け入れていたと考えられます。7世紀初頭の有名な書簡では、推古朝の使節が隋の皇帝に対し、「日が昇るところの天子」から「日が沈むところの天子」へという表現で、自らを「日の昇る国の支配者」と位置づけていることが記録されています。

その後、唐の正史『旧唐書』などには、7世紀末〜8世紀初頭の時点で、日本側が自国を「日本」と呼ぶようになり、倭国の名を改めるよう求めたことが記されています。「日本」は「日の本(ひのもと)」に由来し、太陽の昇る方角にある国、というイメージを前面に出した国号です。研究者の間では、国内での名称変更は、概ね665〜703年のあいだに進行し、703年の使節団が唐朝に正式な改称を申し出たという見方が有力です。

国内の称号:大王から「天皇」へのシフト

7世紀前半まで、日本列島の支配者は、国内では「大王(おおきみ)」、対外的には「倭王」などと呼ばれていました。607年の隋への書簡でも、「天子」という語を使って自らを称していますが、この段階ではまだ、「天子」は中国的な皇帝号をまねた表現であり、日本国内での固定した称号ではありませんでした。

現在確認されている範囲では、固有の称号としての「天皇(てんのう)」が文書に現れるのは、天武・持統朝の7世紀後半です。1990年代に奈良県明日香村の遺跡から出土した木簡には、「天皇」の文字が記されており、天武〜持統期にこの称号が実際に用いられていたことが裏付けられました。歴史学の整理では、「天皇」という語は当初は大王に重ねて用いられる敬称的な意味合いを持ち、7世紀末ごろまでに、王権の公式称号として定着したと考えられています。

国号「日本」と称号「天皇」はセットで固まる

中国の史書には、「天皇」と「日本」がほぼ同じ時期に現れます。あるまとめでは、「Nihon(日本)」も「Tennō(天皇)」も、採用は7世紀末ごろだとされています。日本側の正式な法令や詔勅が整備されるのもこの時期であり、国号・君主号・法体系が一体のパッケージとして固まっていったことがうかがえます。

ただし、「倭」「大王」という言葉が、すぐに完全に消えるわけではありません。中国側はその後もしばらく「倭」「日本」を併用し、国内の記録でも、「大王」「天皇」が重ねて使われた段階があったと考えられます。名称は、政治の実態に合わせてゆっくり塗り替えられていった、というイメージの方が現実に近いと言えます。

何を「整えた」のか――律令パッケージの中身

令(行政法)と律(刑法)――中国式の法体系を輸入

7世紀後半〜8世紀初め、日本の王権は唐をモデルにした律令国家の構築を進めます。律令とは、簡単にいうと

刑罰や犯罪を定めた刑法
官職や組織、税・戸籍など、行政のルールを定めた行政法

のセットです

伝承では、まず天智天皇の時代に近江令(668年頃)と呼ばれる最初の法典が編まれたと言われます。これは現存しておらず、後世の史料に断片的に存在が記されるのみで、内容はほとんどわかっていません。次に、天武天皇の命で飛鳥浄御原令(689年施行)が整備され、これが本格的な律令国家への橋渡しとなりました。

決定版となったのが、大宝律令(701〜703年頃)です。大宝律令は、唐の律令を大枠のモデルとしつつ、日本の実情に合わせて改変したもので、八省を頂点とする中央官制や、諸国・郡・里に分かれた地方行政、租庸調・戸籍・班田収授などの制度を体系的に定めました。これによって、日本は「法と官僚制にもとづく中央集権国家」として名乗る土台を整えたと評価されています。

冠位・戸籍・班田――個人単位で人と土地を管理する仕組み

律令国家の特徴は、「氏(うじ)単位の支配」を、「個人単位の支配」へと組み替えた点にあります。たとえば、

冠位十二階(推古朝)血統ではなく、個人の官位で序列を示すしくみ。
戸籍と計帳何年かごとに人びとを戸籍に登録し、納税や兵役の基礎台帳とする。
班田収授公地公民制のもと、口分田を6歳以上の男女に与え、死ねば国に返す仕組み。

といった制度です。これらは総じて、「誰がどこに住み、どれくらい働き、どれくらい税を負担するか」を中央が把握するための装置でした。律令の令文では、各役所の仕事や、位階ごとの俸禄・服色なども細かく定められ、官僚機構を支える「ルールブック」となりました。

都城・国号・天皇号の「看板」をそろえる

大宝律令が形になった頃には、都城の側も大きく変わっていました。694年に開かれた藤原京は、条坊制にもとづく日本初の本格的な都城であり、宮城・官衙・官寺・市などが計画的に配置された「律令国家のショールーム」でした。

この都城空間に、「日本」「天皇」という新しい名前を掲げ、唐風の年号・官職名・儀礼を運用することで、ヤマト王権は自らを「東アジア標準の帝国モデル」の一員として位置づけ直したと考えられます。唐の史書が「日本国」「日本天皇」という言い方を採用するのも、こうしたパッケージが整った7世紀末〜8世紀初めのタイミングです。

何が変わり、何が「続いて」いたのか

完全な断絶ではなく、「ヤマト国家の看板替え」

「倭国 → 日本国」「大王 → 天皇」「氏族連合 → 律令国家」と並べると、大きな断絶のようにも見えますが、実際には古くからの要素と新しい要素が混ざり合った連続の中で変化が進みました。

祭祀や神話天照大神をめぐる物語や伊勢・出雲などの聖地は、律令国家のもとでも引き続き重要。
氏族勢力蘇我・中臣/藤原・大伴・物部などの有力氏族は、形式上は官僚制の一員となりつつも、しばらくは実力政治を続ける。
地方支配国・郡・里という新しい枠組みが導入されても、在地首長層の人びとがそのまま郡司などを務めるケースが多い。

つまり、律令国家は、ゼロから新国家を作ったというより、ヤマト国家の上に「日本」という看板と、唐風の法と都城を重ねていったものだと見るのが妥当です。

「いつから日本か?」は、今も議論が続く問い

では、「いつから日本なのか?」という問いには、はっきりした線が引けるでしょうか。国号の採用時期、天皇号の定着、律令の施行、都城の完成――どれを重視するかで答えは微妙に変わります。

多くの教科書的な整理では、7世紀末〜8世紀初頭(大宝律令〜奈良時代開始)
をもって「律令国家・日本の成立」とすることが多いですが、研究の世界では、5〜8世紀の長いプロセス全体を「ヤマト王権 → 日本国家への変容の時代」とみなす見方が主流になっています。

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  • B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
  • C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)

Aレベル(一次資料・考古データからほぼ確実)

  • 中国側の史書が、日本列島の勢力を長く「倭」と呼び、7世紀末〜8世紀初めに「日本」という呼称が現れること。
  • 607年の隋への書簡に、「日出づる処の天子」などの表現で日本側の支配者が記されていること。
  • 「天皇」の称号が、天武・持統期の木簡など7世紀後半の資料で確認されること。
  • 近江令・飛鳥浄御原令・大宝律令といった法典の存在と、そのうち大宝律令(701〜703年頃)が唐律令をモデルにした本格的な律令法であったこと。
  • 藤原京が条坊制にもとづく日本初の本格的都城として計画され、律令国家の首都となったこと。

Bレベル(複数の一次資料が整合/有力な解釈)

  • 国号「日本」と称号「天皇」が、7世紀末ごろまでにパッケージとして採用され、唐側の史書でもセットで認識されていったという流れ。
  • 律令制の導入が、氏族単位の支配から、戸籍・官僚制にもとづく個人単位の支配へと構造を変えた、という理解。
  • 藤原京が、「日本」という新しい国号と「天皇」という君主号を掲げる場として、東アジア標準の都城モデル(唐の長安など)を意識して設計されたという評価。

Cレベル(仮説寄り・研究中の論点)

  • 国号「日本」への改称が、どこまで意識的に「倭」という呼称のニュアンス(小さい・従属的など)から距離をとるためだったのか、という動機の部分。可能性は高いものの、当事者の明確な言葉は残っていません。
  • 「大王 → 大王+天皇 → 天皇」という称号の変化が、どの時点で「制度的な肩書き」として決定的に変わったか、という細かいタイミング。木簡や古記録の読み解きによってモデルは提案されていますが、なお議論が続いています。
  • 律令国家の成立を「どの年に線を引くか」(668年・689年・701年・710年など)は、定義の置き方次第で変わる問題であり、「プロセス全体を重視すべき」という意見も強いです。