- 目次
後三国時代から高麗建国
後三国時代(892年~936年)
- 「新羅」は、既存の王朝でありながらも内部の争いと弱体化により、次第にその勢力を後百済と後高句麗に奪われる
- 「後高句麗」は、新羅王族出身で北方に勢力を持った弓裔(きゅうえい)によって建国され、後に王建(ワン・ゴン)が新たな国である高麗を樹立
- 「後百済」は、新羅に不満を持った農民出身の甄萱(キョン・フォン)によって建国
930年には高麗の反撃により大敗
甄萱(キョン・フォン)は自身の息子たちによって幽閉され、高麗に投降
936年に後百済は滅亡
*甄萱は高麗で優遇されたので、後百済を滅ぼすために協力、後すぐに死亡
後三国時代は、王建(ワン・ゴン)の台頭により終焉を迎える
高麗王朝(918年〜1392年)
918年には王建(ワン・ゴン)が弓裔(きゅうえい)を追放し、高麗を建国
935年に新羅を、936年には後百済を滅ぼし、朝鮮半島を再統ー
1392年に李成桂に滅ぼされ、李氏朝鮮が建国される
高麗王朝には34人の王が存在
第4代:光宗(949年〜975年)
初代太祖から第8代顕宗まで
「麗~花萌ゆる8人の皇子たち~」と「輝くか、狂うか」で登場するモデルとなった主な人物
- 初代王太祖(王建:ワン・ゴン):918年~943年
6人の王后、25人の王子と9人の王女が記録されている - 第2代恵宗(王武:ワン ・ム):943年~945年
王建(ワン・ゴン)の長男、母親の身分が低いため即位する道は困難でした
即位後も、実権は開国功臣で義父でもある王規(ワン・ギュ)が握り、異母弟も王権を脅かし、即位の2年後に病死(暗殺された可能性あり)
娘がワン・ソ(第4代光宗)の側室に - 第3代定宗(王堯:ワン・ヨ):945年~949年
恵宗の異母弟で光宗の同母兄
王規(ワン・ギュ)との政争で勝利した王式廉(ワン・シンニョム)が後ろ盾になり即位
実権は王式廉に握られ、在位わずか4年で病死 - 第4代光宗(王昭:ワン・ソ):949年~975年
定宗の同母弟
異母妹の大穆王后(王旭:ワン・ウクの姉)と婚姻
側室には
*慶和宮夫人林氏(恵宗の娘:姪にあたる):弟が光宗に粛清され自殺
*宜慧貴妃大氏(渤海国王族出身)
奴婢按検法を宣布、科挙制度の導入など、国家の体制を整えたが、逆らう王族や豪族を次々と粛清 - 第5代景宗:955年~981年
光宗と大穆王后の長男
酒色に溺れることが多く、若くして病死
景宗死去の時は長男の王訟(後の第7代穆宗)は1歳だったので、遺言でいとこの王治(第6代成宗)を後継者に指名 - 第6代成宗:961年~997年
父は(王旭:ワン・ウク)
*王旭は初代国王太祖の第8皇子、969年に死亡 - 第7代穆宗:980年~009年
第5代景宗の長男
政治の実権は母である千秋太后(王旭:ワン・ウクの娘)と、彼女の寵愛を受けた金致陽(キム・チヤン)が握り、王位継承の可能性を持つ顕宗の排除、さらには穆宗の廃位を企てた
危機を感じた穆宗は、西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、この計画の阻止を試みますが、康兆は金致陽を倒した後、顕宗を擁立し、穆宗は廃位され殺害されます
*千秋太后の妹が献貞王后 - 第8代顕宗:1009年~1031年
王郁:ワン・ウク(麗~花萌ゆる8人の皇子たち~のペガのモデル)
*王郁は初代国王太祖の子で母は新羅の王族
第5代景宗の王妃であった献貞王后(王旭:ワン・ウクの娘)と情を通じて、第8代国王となる顕宗が産まれる
第6代成宗に知られることになり、王郁は流刑され997年に亡くなるが、顕宗は父が亡くなった後も成宗の庇護のもとで生活していた
近親婚が多くて複雑〜
献貞王后と千秋太后は姉妹で第5代景宗(いとこ)と婚姻!!
麗~花萌ゆる8人の皇子たち~
余談ですが
中国で、21世紀の女性が清朝にタイムスリップして皇子たちと恋に落ちる物語「步步惊心(宮廷女官 若曦)」が大ヒット
その韓国版が「麗〜花萌ゆる8人の皇子たち〜」
化粧品販売員のコ・ハジンは、高麗時代へタイムスリップ
高麗時代の女性、ヘ・スの体に
王建(ワン・ゴン)の8人の皇子たちと
出会い
高麗の運命を変える重大な事件に巻き込まれていきます
- 第1皇子(ワン ・ム):第2代恵宗がモデル
- 第3皇子(ワン・ヨ):第3代定宗がモデル
- 第4皇子(ワン・ソ): 第4代光宗がモデル
- 第8皇子(ワン・ウク):王旭(戴宗)がモデル
- 第9皇子(ワン・ウォン):孝隠太子垣がモデル?光宗の粛清で毒薬を飲む
- 第10皇子(ワン・ウン):廣州院君がモデル?祖父の王規(ワン・ギュ)が処刑され、消息不明
- 第13皇子(ペガ:ワン・ウク):王郁(安宗)がモデル
- 第14皇子(ワン・ジョン):文元大王がモデル?光宗や定宗の同母弟で、娘が第5代景宗(光宗の息子)の第2王妃
第8代顕宗はウクとペガの血を引き継いだ王様ってことになるのかな😅
輝くか、狂うか
皇宮に不幸を招くという破軍星の下に生まれ
幼い頃から金剛山で育てられた皇子ワン・ソは
渤海の最後の王女で青海商団の率いるシンユルと出会い
わかれます
ワン・ソは、腹違いの姉ヨウォンと政略結婚
ヨウォンの弟ワン・ウク
5年後、4人の男女が出会います
- ワン・ソ:第4代光宗がモデル
- ワン・ウク:王旭がモデル、ドラマでは第5皇子
- ファンボ・ヨウォン:第4代光宗の異母妹で妃、王旭の姉である大穆王后がモデル
- ワン・シンニョム:初代王太祖の従弟で、第3代定宗をかついだ王 式廉(ワン・シンニョム)がモデル
第26代:忠宣王(1298年、1308年〜1313年)
1170年(第19代明宗)から1270年(第24代元宗)の100年間は、国王や文臣ではなく武臣が朝廷の政治を掌握した(武臣政権)
- 第24代元宗(1260年 – 1274年)
1231年からモンゴルの高麗侵攻が始まり、元宗は親モンゴル政策で武臣政権を倒して国権を強化しようとするが、モンゴルの日本遠征(文永の役)の大規模負担を負わされ、1270年には三別抄の反乱(モンゴルに屈服した政府に対する軍隊による反乱)が起こり、1273年には武力抵抗を主張する武人は完全に鎮圧
以降、高麗はモンゴルの完全な支配を受ける
元宗は1274年に病死
*三別抄は武臣政権下で形成された私兵組織 - 第25代忠烈王(1274年 – 1298年、1298年 – 1308年)
元の皇帝クビライの公主と婚姻、元と密接な関係を築き元の日本侵攻にも協力
経済的に国を疲弊させたため臣下により一時廃位されるが、元の支援で復位
その後も親元政策を続け1308年死去 - 第26代忠宣王(1298年、1308年〜1313年)
*「王は愛する」ワン・ウォンもモデル
忠烈王とクビライの娘元成公主の長男
静妃王氏:王瑛(ワン・ヨン)の娘
趙妃:重臣で訳官として活躍した趙仁規の娘
薊国大長公主:元のクビライの曾孫娘
など6人の妃がいて、1298年薊国大長公主が趙妃を嫉妬し、誣告した事件により第25代忠烈王が復位
母元成公主が亡くなった後、父の寵愛を得ていた者たちを追放または処刑します
1308年忠烈王が死去して再び即位、1320年にはチベットに流刑、3年後に赦免を受けて帰国、1325年に大都(元朝の首都:現在の北京)で亡くなります
元の宮廷で育ち、即位後も多くの時間を元で暮らした
忠烈王以降の王は恭愍王までモンゴルから王妃を迎え「忠」のつく諡号を与えられた
忠烈王、忠宣王、忠粛王、忠恵王、忠穆王、忠定王
*恭愍王から明が建国され忠が付いていない
王は愛する
高麗の王と元皇帝の娘の間に生まれた皇太子「ワン・ウォン」
王族の三男でワン・ウォンの護衛であり親友の「ワン・リン」
高麗一の大商人ウン・ヨンベクの娘「ウン・サン」
3人の愛と友情の物語
- ワン・ウォン:第26代忠宣王がモデル
- 元成公主:元成公主(荘穆王后)がモデル
元の皇帝「クビライ」の娘
1274年5月に忠烈王に嫁ぎ長男は第26代忠宣王 - ワン・ダン(静妃):静妃王氏はワン・ウォン(忠宣王)の最初の妃がモデル
叔母は貞信府主王氏(忠烈王の最初の王妃)
1287年元に「貢女」として送られる予定でしたが、忠宣王が中止させて婚姻 - 王琠(ワン・ジョン):ワン・ダン(静妃)の兄がモデル?
*ドラマとは時期が違うようですが、ワン・ウォンと世子争いをしている - オク・プヨン(無比):無比は忠烈王の側室、元成公主が病死した後、処刑された
- ソン・バンヨン(密直副使):宋邦英がモデル? 忠烈王の時代に、左副承旨や密直副を務め、王に元への使節として行動するよう勧めた人
*「貢女」は朝貢の一環として女性を献上する習慣で、高麗後期から李氏朝鮮時代にかけて盛んで、高麗時代は、元朝(モンゴル)・契丹(遼)・明へ多くの貢女が送られた
余談
モンゴル帝国と元朝(1271年〜1368年)
チンギス・ハンが1206年に「モンゴル帝国」を建国して以来、彼の後継者たちは「カアン」として帝国を統治、クビライ(第5代カアン)の即位過程での内戦やカイドゥとの戦いなどにより、モンゴル帝国は分裂して複数の国(ウルス)に分かれる
クビライが中国とモンゴル高原を支配、1271年にモンゴル帝国の国号を「大元」と改めたことにより即位
「元朝」はモンゴル高原と中国を中心にする領域、首都を大都に設置
*クビライはモンゴル帝国の第5代カアンで元朝の皇帝としては第1代です
元第2代テムル(クビライの孫)の死後、後継者争いが起こり25年程で9人の皇帝が即位
1368年には「明」に追われ、モンゴル高原に退く(北元)
歴史の表舞台から退きます
モンゴル帝国のその他の国(ウルス)
- 「チャガタイ国」:中央アジアを中心にチャガタイ(チンギス・ハンの第二子)の子孫が統治
- 「イルハン国」:フレグ(チンギス・ハンの孫)の子孫がイラン、イラクを統治
- 「ジョチ国」:ジョチ(チンギス・ハンの長男)の子孫がロシア、カザフスタン、東ヨーロッパを統治
第28代:忠恵王(1330年〜1332年、1339年 〜1344年)
- 第27代忠粛王(1294年〜1339年)
第26代忠宣王の次男
父忠宣王の瀋陽王はワン・ゴ(王暠)が継いでいる
忠宣王は息子の忠粛王ではなくの甥のワン・ゴ(王暠)に瀋陽王を譲位した
*瀋陽王(瀋陽は元と高麗の間にある地域)は元朝から高麗王族に与えられた称号
*ワン・ゴ(王暠)はドラマ「奇皇后」に登場
ワン・ゴ(王暠)が王位を狙い、困難を極めるが、元第6代イェスン・テムルの即位で状況が好転し王位は守る
1330年に息子忠恵王に譲位、忠恵王廃位後に復位するも、晩年は政事を顧みず1339年死去 - 第28代忠恵王(1330年〜1332年、1339年 〜1344年)
*「奇皇后」ワン・ユのモデルですが、忠恵王の評価は遊びと享楽を好み暴力的と否定的です
1332年に大青島に配流されたトゴン・テムルの身柄をめぐる中傷により廃位
忠恵王はエル・テムル親交があり関係を維持していたため、バヤンに嫌われ、トクトの政変によりバヤンが失脚後に忠恵王の復位が最終的に承認された
しかし最終的に逮捕され、流刑地で病死
「王は愛する」の主人公「ワン・ウォン」の息子が、「奇皇后」の「ワン・ユ」のお父さん😅
奇皇后
貢女の女性が元の皇后になり
高麗人としての自尊心を失わず闘い
自らの運命を切り開いていく波乱の生涯を描くドラマです
主な登場人物と史実
- キ・ヤン(スンニャン):奇皇后がモデル
高麗から元朝に貢女として献上され、やがてトゴン・テムルの寵愛を受け正皇后にまでなった人
明軍の進攻により、北元へと移り、息子アユルシリダラの即位により皇太后となる
奇皇后の死についての記録は残されていません - 王ワン・ユ:第28代忠恵王ですが、大部分が創作
*もちろん奇皇后との恋愛関係はありません - タファン:元第11代皇帝トゴン・テムルがモデル
父は元第9代皇帝コシラ
1368年に明に追われ、モンゴル高原に退き(北元)、1370年に死去 - 皇太后:ブダシリがモデル
トゴン・テムルの叔母にあたり元第8代皇帝トク・テムルの妃 - ヨンチョル:エル・テムルがモデル
- タナシルリ:トゴン・テムルの最初の皇后でエル・テムルの娘ダナシリがモデル
1335年にはダナシリの兄タンキシュの反乱が失敗に終わり、エル・テムル家の一族は処刑、ダナシリは毒酒で死亡 - バヤンフト:トゴン・テムルの2番目の皇后バヤン・クトゥクがモデル
ダナシリが処刑されたことに伴い皇后に(バヤンが選んだとされている)
トゴン・テムルとの間に息子が生まれたが、2歳で亡くなる
ドラマとは異なり、慎み深く、質素で、寵愛を受けていた奇氏に対しても妬みを示さない人物だったそうです
バヤン・クトゥクが死去したことにより、奇氏が皇后に - タンギセ:エル・テムルの子タンキシュがモデル
バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こす - ワン・ゴ:高麗の王族、瀋陽王ワン・ゴ(王暠)がモデル
*ワン・ゴの父は江陽公王滋(ワン・ジェ)
江陽公王滋(ワン・ジェ)は、25代忠烈王の次男で母は貞信府主(王は愛するのリンとダンの叔母で、王滋はドラマに登場しています) - ペガン:バヤンがモデル
- タルタル:トクトがモデル
- アユルシリダラ:トゴン・テムルと奇皇后の長男アユルシリダラがモデル
北元としては第2代皇帝(モンゴル帝国の第16代カアン)
1378年に死去
元朝の後継者争い
ドラマのタファンの父(第9代コシラ)と皇太后(ブダシリ)とヨンチョル(エル・テムル)のいきさつ
元第2代テムルの死後、クーデターにより元第3代武宗カイシャンが即位
「エル・テムル」は元第3代武宗カイシャンの寵愛を受け、モンゴル帝国の内紛終結に多くの軍事的功績を挙げた人
エル・テムルは元第8代トク・テムル(カイシャンの次男)を反乱により即位させますが、トク・テムルの兄コシラ(元第9代コシラ)が王位を主張し即位
半年ほどで死亡(エル・テムルにより毒殺説がある)
トク・テムルが復位、これによりエル・テムルは最高実力者として君臨
トク・テムルの死後、エル・テムルはトク・テムルの子エル・テグスを擁立しようとするが、トク・テムルの未亡人のブダシリは、遺言を尊重してコシラの遺児を後継者に立てることを主張
長男トゴン・テムルの代わりに、7歳の次男(第10代リンチンバル)を擁立
リンチンバルは2カ月で死去
エル・テムルは、長男のトゴン・テムルが流刑地から大都に到着した後も約半年間即位を延期させますが、1333年にはエル・テムルが病死
朝廷の最有力者となったバヤンが第11代トゴン・テムルを擁立し元朝を実質的に支配
バヤンとトクト(ドラマのペガンとタルタル)
トゴン・テムルはバヤンの専制に反対するバヤンの甥「トクト」と共謀して、バヤンを失脚させます
バヤンは流刑地で病死
ブダシリも追放先で急死
トクトは幼少期に伯父バヤンの養子となり、若くして多くの重要な役職に就任、最終的には右丞相に就任
「紅巾の乱」鎮圧の司令官として遠征中にトゴン・テムルの寵臣(ハマ)の中傷で弾劾され、流刑地で偽の命令により自害(彼の死後7年経ってトクトの名誉は回復され、ハマは処刑された)
「紅巾の乱」は1351年から1368にかけて起こった、農民の反乱
白蓮教徒などの宗教的結社が中心勢力となり、紅色の頭巾を用いた
*異民族王朝の元を倒し、漢民族王朝を復活するきっかけとなった
1368年に大都は紅巾軍の武将:朱元璋(明朝初代皇帝:洪武帝)により征服され、トゴン・テムルは北方に逃れます(北元)
第31代:恭愍王(1351年〜1374年)
- 第29代忠穆王(1344年〜1348年)は忠恵王の嫡子で8歳で王位に就き、12歳で死亡
- 第30代忠定王(1349年〜1351年)は忠恵王の庶子で元の意向を受けて恭愍王が即位すると、江華島に移され14歳で暗殺された
- 第31代恭愍王(1351年〜1374年)
第28代忠恵王の弟
恭愍王は元の衰退と明の台頭を背景に「親明政策」を採用
李成桂の登用:李成桂は元に奪われた領地を取り戻すための軍事行動で大きな役割を果たす
しかし治世の後半は紅巾軍や倭寇の侵攻に悩まされ、一時は紅巾軍に首都を奪われるほどの危機に直面、王妃の急死も重なって政治を顧みなくなり、僧侶出身のシンドン(辛旽)に政治を一任
1374年に「親元派」の宦官によって暗殺されます
*高麗王朝末期は「親元派」と「親明派」が対立
シンイ-信義-
高麗時代の武将チェ・ヨンが
現代の整形外科女医(ユ・ウンス)を過去に連れてくる
タイムスリップ時代劇
高麗では、恭愍王が人質として暮らしていた元から
王妃(魯国公主)と共に戻り
王位に着きますが
奇皇后の兄キ・チョが権勢をふるいっています
主な登場人物と史実
- 魯国公主は恭愍王の王妃で元の皇女
- 崔瑩(チェ・ヨン)は、高麗末期の重臣であり名将
晩年は「威化島回軍事件」により高麗王朝の終焉への道を開くことになり、処刑される
*ドラマでは、のちにチェ・ヨンを処刑する少年時代の李成桂(イ・ソンゲ)をウンスが手術で助けるシーンがあります - 奇皇后の兄キ・チョル(奇轍)について
キ・チョル(奇轍)は妹が元の皇后となったことで徳城府院君に封じられて権勢をふるい、元の衰退により政変を起こそうとして撃殺された人物 - 徳興君の擁立に関して
元と結託した崔濡(チェユ)が恭愍王を廃位し徳興君(トクフングン)を擁立しようと企てたますが、崔瑩(チェ・ヨン)と李成桂(イ・ソンゲ)によって元軍は大敗
威化島回軍事件について
第32代王禑の時代に崔瑩(チェ・ヨン)は、高麗は元朝からの独立を目指し、遼東(現在の中国東北部)にある元朝の拠点に対する軍事遠征を計画
この遠征軍を率いたのは、後に李氏朝鮮の初代王となる李成桂です
しかし遠征途中、李成桂は威化島で軍を引き返す決断(高麗王朝に対する反乱)をしたため、結果的に高麗王朝の崩壊と、李氏朝鮮の建国へとつながりました
大風水
モク・トンニュン(書雲観の日官)と
ワン・ヨンジ(王族で風水学を教える教授)との間に生まれた
モク・チサン
元の百戸長だったイ・ソンゲ(朝鮮王朝初代王)
風水というテーマを軸に
高麗の滅亡と朝鮮王朝の建国という歴史的事件を描いた作品です
*書雲観の日官は、高麗王朝の重要な官職、天文や暦法、風水などの学問に優れた専門家
*元の百戸長は、元朝の百人隊を率いる下級武官の役職
*ドラマではイ・ソンゲが元の百戸長だったという設定ですが、高麗に帰順する以前のイ・ソンゲの行跡については、記録がほとんどないそうです
ちなみにイ・ソンゲの祖先については、「始祖は李翰は新羅時代の司空を務めた人物・その子孫である李璘が高麗から追放され元朝に投降・イ・ソンゲの父親の李子春は元朝に仕えた武人」
主な登場人物と史実
- イ・イニム(李仁任)
*「六龍が飛ぶ」ではイ・インギョムのモデルになった人物
恭愍王の時代に、紅巾賊の侵入を防ぎ、一等功臣になった人
恭愍王が殺された後、イ・イニムは10歳の王禑を擁立して政権を握る
1388年にチェ・ヨン(崔瑩)とイ・ソンゲ(李成桂)によって配流されます - パニャ(般若)
僧侶シンドン(辛旽)により、後継者問題を解決するため恭愍王に捧げられ、1365年に王子(第32代王禑)を出産
パニャの身分が低いことから、韓氏を名目上の母されたことに不満を訴え、その結果、処刑された(*ドラマではイ・ジョングンに助けられ生存)
彼女は正式な后として認められず、諡号や墓所も不明 - シンドン(辛旽):恭愍王の信頼を得て一時は政治の実権を握るが、多くの貴族や官僚からの反発を招き、1371年に流刑の後、処刑
- ムハク大師(無学大師):李成桂との関係が深く、朝鮮王朝の建国に際しても影響を与えたとされる高僧
- 第32代王:王禑(1374年 – 1388年)
恭愍王が殺された後、10歳で親元派のイ・イニムにより擁立されて即位
チェ・ヨンの娘も妃にしています
イ・ソンゲ(李成桂)の威化島回軍事件のあと廃位
高麗史では王禑はシンドンとパニャの間の子とされ、李氏朝鮮建国の正統性を示す口実にされた - 第33代王:王昌 (1388年 – 1389)
王禑の子、1388年に王位に就けられ、翌1389年に廃位、父王禑が謀反をたくらんだため、ともに処刑
*第32代王と第33代王はシンドン(辛旽)の血を引く偽の王族として辛禑・辛昌とも呼ばれる - 第34代王:恭譲王(1389年 – 1392年)
1392年にチョン・モンジュ(譲位を防ごうとした儒学者で忠節の人物として有名)がイ・バンウォン(イ・ソンゲの5男:李氏朝鮮第3代国王)よって暗殺される
恭譲王はイ・ソンゲに王位を譲り追放(高麗王朝は滅亡)
1394年に子供と共に謀反の疑いで処刑されています
高麗王室の一族は、流刑中に乗っていた船を沈められてことごとく溺死させられています