初代 神武天皇(じんむ)/ 神日本磐余彦天皇

目次
  1. はじめに
  2. 基本情報
  3. 系譜
  4. 事績
  5. その他(神武天皇の歌)

はじめに

天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点もありますが、できるだけ注釈をつけながら紹介しています

▲📍:地名などの由来

▲📘『新撰姓氏録』
→ 平安初期にまとめられた氏族リストで、古代豪族の由来や分類を知る重要な資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/新撰姓氏録

▲ 諱(いみな)と諡号(しごう)について
(いみな)= 天皇が生きていたときの本名
とても神聖な名前とされ、ふつうは口にしませんでした(タブー)
諡号(しごう)= おくり名(天皇の死後につける名前)
・・・▲ 漢風諡号(かんふうしごう):「○○天皇」というような漢字2文字+天皇
・・・▲ 和風諡号(わふうしごう):もっと長く、日本風の名前(例:神日本磐余彦天皇)
🔍 注意しておきたいこと
▲『日本書紀』が完成した720年当時には、「○○天皇」という「漢風諡号」はまだ存在していません
→ 約40年後、淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の学者が、それ以前の天皇たちにまとめて「漢風諡号」をつけたと考えられています
▲ 一方、「和風諡号」は、記録としては41代持統天皇(703年没)の名前が最初に確認されます
💡だから…それより前の天皇たちの名前が、本当に死後につける名前(諡号)なのか?それとも生きていたときの本名(諱)なのか?はっきりわからない場合があります
1〜14代(神武〜仲哀:ほとんどが神話上の人物) で、あとから話が盛られた部分が大きいけど、
15〜26代(応神〜継体:古墳や遺物が出てくる時代)なので、実在の可能性があり「本名かも」と考えて、名前の由来などを想像してみると歴史が楽しくなる😆

基本情報

在位期間前660年~前585年(享年127歳)
皇居橿原宮(奈良県橿原市)
畝傍山東南陵(奈良県橿原市)
彦火火出見(ひこほほでみ:祖父の山幸彦と同じ)
狭野(さの)
和風諡号神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)
美称始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の第四子
✅玉依姫(タマヨリヒメ)
皇后✅媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)
✅吾平津媛(あひらつひめ)

系譜

神武天皇から見た祖先

1 アマテラス(天照大神)
  太陽神、皇祖神

2 アメノオシホミミ(天忍穂耳命)
天孫降臨の命を受けるが、地上の状況が不安定なので辞退

3 ニニギ(瓊瓊杵尊)
天孫降臨した神

4 ヒコホホデミ(彦火火出見尊:山幸彦)
海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれる

5 ウガヤフキアエズ (鵜葺草葺不合尊)
海と山の神の血を継ぐ存在

✅ 母:玉依姫は、ワタツミ(海神)の娘
→ 姉・豊玉姫が出産を終えて海に帰った後、甥(ウガヤフキアエズ)を育てる
→ 後に、甥(ウガヤフキアエズ)と結婚して4人の子をもうけた(末子が神武天皇)
海の神の血筋天孫系の系譜をつなぐ存在

✅ 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(父:コトシロヌシ(事代主)・母:玉櫛媛は三嶋溝橛耳神の娘)
→『古事記』では大物主の娘
→ コトシロヌシは、大国主の子(国譲り神話のYESマン)
→ 子:神八井耳命(かんやいみみのみこと:第2代綏靖天皇の兄)
・・・手研耳命(異母兄)を射る手が震えたことを恥じ、天皇にならず祭祀の道へ(多氏の祖
→ 子:神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと:第2代綏靖天皇)

🔍 ひとこと:多氏(おおし)
日本最古の皇別氏族で、「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記される
太安万侶(『古事記』の編者)もこの一族

✅ 妃:吾平津媛は、東征前に日向国で娶った最初の妃
→ 日向国(吾田邑)の豪族の娘と考えられる
→ 子:手研耳命(たぎしみみのみこと)
・・・のちに、兄弟で継承問題が起き、討伐される
→ 子:岐須美美命(きすみみのみこと)
・・・『日本書紀』には登場しない
・・・『古事記』に登場、事績や子孫に関する記載はない

事績

🌟 15歳:皇太子になる。

🌟 吾平津媛を妻にして、手研耳命が誕生

🌟 45歳:天孫降臨から「179万2470年」あまりが過ぎたことを語り、神の力が行き届いていない地を治めようと考える
塩土老翁(シオツチノオジ)から「東の美しい国に、天磐船で降りた神・饒速日(ニギハヤヒ)がいる」と聞き、その地こそ都にふさわしいと考えて、東へ向かう決意

神武東征(45歳スタート)

🌟 甲寅年10月:日向(現在の宮崎県)から皇子たちや舟軍を連れて東へむかう
→ 速吸の門(豊予海峡)で出会った珍彦(うづひこ:国津神)が船の案内人となり、椎根津彦(しいねつひこ)と名づける
倭直部の始祖

🌟甲寅年10月:筑紫国の菟狹(うさ:宇佐)に立ち寄り、菟狭津彦と菟狭津媛(うさつひこ・うさつひめ:菟狹国造の祖先)にもてなされる
→ 菟狭津媛は家臣の天種子命(あめのたねこのみこと)に嫁ぐ
→ 天種子命は中臣氏の先祖

🌟 甲寅年11月:筑紫国の岡水門(現在の福岡県遠賀川河口)
→ 甲寅年12月:安芸国の埃宮(広島県府中町)
→ 乙卯年3月:吉備国(岡山)では高嶋宮を建てて3年間とどまり、船や食料を準備
→ 戊午年2月:大規模な船団で、難波之碕に到着
・・・📍難波の由来:潮の流れが速いので浪速(なみはな)が訛った
→ 戊午年3月:河をさかのぼり河内国の草香邑(くさかのむら:東大阪市周辺生駒山麓)の白肩之津(しらかたのつ)に到着

🔍 ひとこと:河内湖(かわちこ)
昔の大阪平野は、今とちがって広い湖でした
→ 縄文時代のあたたかい気候で海面が上がり、海が内陸に入り込んで「河内湾」という入り江ができた
→ やがて、天満橋あたりから砂州(すなす)がのび、千里丘陵のあたりまでつながると、海の水が入りにくくなり、淡水の湖「河内湖」に変わっていった
→ 古墳時代ごろの大阪平野は、上町台地(今の大阪市の中心)だけが陸地で、ほとんど湖におおわれていた
 神武天皇が上陸したとされる「草香邑(東大阪市・日下)」も、当時は湖のすぐそばだったと考えられている
→ その後、仁徳天皇の時代(4世紀後半〜5世紀初め)の「難波の堀江(なにわのほりえ)」や「茨田堤(まんだのつつみ)」など、大がかりな治水工事や、自然に土砂がたまっていくこと(堆積)でも湖はしだいに小さくなり、やがて水田や畑として開発される

🌟戊午年4月: 長髄彦(ながすねひこ:ニギハヤヒに仕える大和の土着豪族)と孔舎衛坂(くさえざか:大阪と奈良との境)で戦う
→ 兄・五瀬命(いつせのみこと)が負傷

🔍 ひとこと:饒速日命(ニギハヤヒ)
ニギハヤヒは、神武より先に天磐船で降臨した「もう一人の天孫」
→ 大阪府交野市(磐船神社周辺)に降臨し、大和地方へ移動
→ 長髄彦の妹:三炊屋媛(みやしきやひめ:別名:鳥見屋媛:とみやひめ)との子が于魔詩莽耐(ウマシマジ)
→ ウマシマジは、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖

太陽の力を背にして攻めよう
生駒→奈良を中止、 熊野 → 奈良をめざす

草香津(くさかのつ:東大阪市周辺)まで退却
・・・📍蓼津(たでつ)の由来:盾を並べておたけびをあげた「盾津」が訛った
・・・📍飫悶廼奇(おものき)の由来:木に隠れて助かり恩を母になぞらえた「母木邑」が訛った
🌟 5月:茅淳(ちぬ)の山城の水門(別名を山井水門:大阪府泉南周辺)に到着
・・・📍雄水門(おのみなと)の由来:五瀬命がおたけびをあげた場所
→ 兄・五瀬命は戦の傷が悪化、紀伊国の竈山(かまやま)で亡くなり埋葬

🌟 6月:名草邑(なぐさ:和歌山市名草山)に到着、名草戸畔(女賊)を殺す
→ 軍は熊野に向かう途中に暴風に遭って兄弟を失う
・・・▲ 稲飯命(いなひのみこと):海に入って鋤持神(さひもちのかみ)になる
・・・▲三毛入野命(みけいりののみこと):波を踏んで常世の国(とこよのくに:海の向こうにある異界)に行った
→ 熊野の荒坂津で丹敷戸畔(女賊)を殺すが、神の毒で軍が弱る
高倉下(たかくらじ:尾張氏の先祖)がタケミカヅチの剣(布都御魂:ふつのみたま)を持参し、力を取り戻す
頭八咫烏(やたがらす:のちに子孫は葛野主殿縣主となる)が、熊野から大和への道案内をした
日臣大伴氏の先祖・道臣と名を改める)が大来目久米氏の先祖)を率いて軍を指揮
ついに菟田下縣(奈良盆地の東南)に到着

🔍 ひとこと:タケミカヅチ
「国譲り」の交渉役として出雲に送られた武神
→ 後に鹿島神宮の主神としてまつられ、春日大社(768年、藤原氏の氏神として創建)にも、鹿島から勧請されている

🔍 ひとこと:八咫烏(やたがらす)
『日本書紀』では「頭八咫烏」とも記され、八咫は「とても大きい」という意味
三本足という話は、平安時代ごろから言われるようになった
📘『新撰姓氏録』
→ カモタケツヌミノミコト(賀茂建角身命)が八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされる
→ カモタケツヌミノミコトは、賀茂県主や葛城国造の始祖で、下鴨神社の祭神

🔍 ひとこと:大伴氏と久米氏
アメノオシヒ(天忍日命)とアマツクメ(天津久米命)
→ ▲アメノオシヒ:大伴氏の祖神で、天孫降臨の際にニニギに随伴
→ ▲アマツクメ:久米氏の祖神で、天孫降臨ではアメノオシヒとニニギに随伴
→ 天孫降臨のときに『日本書紀』ではアマツクメはアメノオシヒに率いられる立場
・・・のちに久米部が大伴氏の指揮下に置かれたことが、影響したのかも🤔

🌟 8月:菟田県(うだのあがた:宇陀郡)の兄猾(えうかし)が謀反を企てるが、弟猾(おとうかし:のちに猛田県主に任命される)が密告し、道臣命が討伐
・・・📍菟田血原(うだのちはら)の由来:兄猾の血がくるぶしまで浸かるほど流れた土地
→ 吉野の視察で三人の神と出会う
・・・▲井光(いひか):泉から現れた光る神(吉野の首部の始祖)
・・・▲磐排別(いわおしわく)の子:岩を押し分けて出現(吉野の国樔部の始祖)
・・・▲苞苴擔(にえもつ)の子:川で漁をしていた神(阿太の養鵜部の始祖)

🌟 9月:菟田の高倉山に登って国中を眺める
→ 八十梟帥(やそたける:たくさんの敵という意味だと思う😅)が道をふさいでいる
・・・📍女坂(めさか)・男坂(おさか)・墨坂(すみさか)の由来:八十梟帥が女軍・男軍・炭火を配置していた場所
→ 天皇は神のお告げにより、椎根津彦と弟猾がもちかえった天香山の土でつくった器を使って神さまへお供えをして吉兆を占う
・・・このあと、嚴瓮(いそへ:神さまへのお供えの器)を神にささげる儀式が恒例となった
→ 八十梟帥を国見丘(奈良県桜井市周辺?)で討ち取る
→ 道臣命に密命を下し、宴会で油断させた敵兵を一斉に討伐(忍坂の奇襲作戦)

🔍 ひとこと:「嚴(いつ)」と大伴氏(道臣命)
天皇は、道臣命を神主役(齋主)に任命し、自然物に「嚴(いつ)」の名を冠した神名をつけた
→ 例えば:土の器 → 嚴瓮(いつへ)・草 → 嚴野椎(いつのづち)
→ 大切な祭りをまかされた道臣命は、のちに軍事や政治で活躍する大伴氏の先祖
つまり、大伴氏は軍事だけでなく、神をまつる役目も担っていた

🌟 11月: 磯城彦(磯城の首長)を攻めようと兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)を呼び出す
→ 弟磯城は服従(のちに磯城県主に任命)
→ 兄磯城は反逆(椎根津彦が女軍をおとりに、本軍で奇襲する策を提案し、兄磯城を討ち取る)

🌟 12月:長髄彦と再び対決
・・・📍鳥見(とみ)の由来:天皇の弓に金色の鵄(とび)が止まり敵が混乱したので、長髄邑を鵄邑と改めたのがなまった
→ 長髄彦は天孫なら証拠を見せるように主張し、本物の天孫だとわかっても戦をやめない
→ ついに、饒速日命(ニギハヤヒ)が長髄彦を殺し、天皇に従う
→ ニギハヤヒは、物部氏の先祖

🌟 己未年2月:層富縣(生駒?)・和珥坂下(天理?)・長柄(御所?)など、最後まで従わなかった土蜘蛛(つちぐも:したがわなかった先住民)を討伐
・・・📍葛城(かつらぎ)の由来:高尾張邑にいた背が低く手足が長い土蜘蛛を、葛を使って討った
・・・📍磐余(いわれ)の由来:勝利して大軍が集まった地として片居(かたい)から改名
・・・📍猛田(たけだ)の由来: 天皇の軍勢が大声で気勢を上げた場所
・・・📍城田(きだ・しろだ)の由来: 敵の拠点(城)を築いた場所
・・・📍頬枕田(つらまきだ)の由来:死んだ敵が、腕を枕にして横たわった場所
・・・📍埴安(はにやす)の由来: 天香山で神に捧げる器の粘土を取った場所

🌟 3月(東征から6年後):畝傍山の東南の橿原の地に「宮殿」の建設を始める

🔍 ひとこと:八紘一宇(はっこういちう)という言葉
神武天皇が都を作るときに言った言葉
→「八紘(=八つの方向)のすみずみまで、宇(=家)にしたい」
→ つまり「国のすみずみまで、みんなが安心して暮らせる、ひとつの大きな家のような国にしたい」という意味
→ ただしこの言葉は、第二次世界大戦のときにスローガンとしても使われたため、今では「よい意味だけではない」「いろいろな受けとられ方がある」言葉にもなっている

🌟 庚申8月:皇后を選びをはじめる
🌟 庚申9月:媛蹈韛五十鈴媛命を皇后に迎える

🌟 辛酉年(紀元前660年) 1月1日:橿原宮で即位

🔍 ひとこと:建国記念の日について
1月1日(旧暦)を2月11日(太陽暦) に見立てて「紀元節」と定めた
→ 戦後「紀元節」は廃止 → 1966年に「建国記念の日」として復活

🌟 神武天皇が天皇として国を治めはじめた日に、大伴氏の祖・道臣命は「逆さ言葉の歌(倒語)」で悪い気をひっくり返して追い出した
・・・日本に言霊信仰(言葉に特別な霊的な力が宿っていると信じる信仰)が根付いてのを感じる🤔

🌟 即位2年2月:天皇は手柄に応じてほうびを与える(論功行賞)
▲道臣命:築坂邑(つきさかのむら:橿原市鳥屋町付近)の宅地を与えられる
▲大來目: 畝傍山の西の川原のほとりに住まわせました
・・・ 📍來目邑(くめむら):地名の由来
▲珍彦:倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任命
▲弟猾:猛田邑(たけだのむら)を与え、猛田縣主(たけだのあがたぬし)に任命
・・・菟田主水部(うだのもひとりら)の祖先
▲弟磯城(黒速): 磯城縣主(しきのあがたぬし)に任命
▲剣根:葛城国造(かづらきのくにのみやつこ)に任命
▲頭八咫烏:子孫が葛野主殿縣主部(かずののとのもりのあがたぬし)となる

🌟 即位4年2月:鳥見山に祭場(まつりの場所)をつくり、その場所を上小野榛原(かみつおのはりはら)、下小野榛原(しもつおのはりはら)と呼んで、皇祖(天皇の先祖)の天神をまつった

🌟 即位31年4月:天皇は国内を見て回り、 腋上の嗛間丘(わきがみのほほまのおか)に登り
「すばらしい国を手に入れた、内木錦眞迮の国(細くて狭い国)ではあるが、まるで蜻蛉(あきつ:トンボ)の交尾のような姿だ」と言った
・・・ 📍秋津洲(あきつしま)の由来

🔍 ひとこと:秋津洲(あきつしま)
秋津島 = 日本列島というイメージ
(万葉集では「秋津島・蜻島」がやまとの枕詞)
『日本書紀』が編纂された奈良時代には、秋津島という呼び名がヤマト(日本)指す流行語
→ 書紀の作者はこの流行語を神武天皇のエピソードにさかのぼって織り込んだのでは🤔
実際に丘から見えていたのは奈良盆地だけど😅
この場面では、その他にもさまざまな「日本の古い呼び名」が紹介されている
▲イザナギノミコトは
→ 浦安の国(うらやすのくに:平安な国)
→ 細矛の千足る国(くわしほこのちだるくに:武器が豊富な国)
→ 磯輪上秀真国(しわかみほつまくに:磯輪上?整った国)と呼ぶ
▲ 大己貴大神(オオアナムチノオオカミ:大国主)は
→ 玉牆内国(たまがきのうちつくに:美しい山々の国)と呼ぶ
▲ニギハヤヒは
→ 虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに:空の上から見渡したヤマトの国)と呼ぶ

🌟 即位42年1月:神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのすめらみこと)を立太子

🌟 神武76年3月:崩御
→ 翌年9月12日に畝傍山の北東の稜に埋葬

その他(神武天皇の歌)

東征の途中、神武天皇が宇陀で反逆者の兄猾を討ち、味方になってくれた弟猾(大物)にもてなされたあとに詠んだ歌

宇陀の高城でシギを捕まえようと思って罠を仕掛けたら、
まさかの大物・鷹(くじら)がかかったよ。

古い妻がおかずをねだったら、
ソバの実のカスのようなものを食べさせてやればいい。

でも、若くて新しい妻がねだったら、
栄養たっぷりのサカキの実のようなものを食べさせてやろう。

八十梟帥(やそたける)と決戦し、撃破・討ち取った場面で詠んだ歌

伊勢の海辺の小さな貝でもしぶとく大きな石に這い回るように、
おまえたちも粘り強く攻めろ!
必ず勝つぞ!

兄磯城との決戦の前に、兵士を気遣って詠んだ歌
この直後、神武天皇軍は、兄磯城らを討ち取る決戦に勝利

楯を並べて、敵を見張りながら
山の木の間を行ったり来たりして
ずっと戦ってたら、もうお腹すいちゃった!
島の鳥よ、いや鵜飼よ!
今こそ食べ物を持って助けに来てくれ〜!

長髄彦との最終決戦を前に詠んだ来目歌(くめうた)
*来目歌は、神武紀で言及される兵士たち(特に久米部)を鼓舞するための歌
古代版の戦場ラップかな🔥😆

頼もしい久米の兵たちが、垣根のそばに粟を育てているけど、
そこに一本だけ変な臭いのニラ(=敵)が混じって生えてる。
だから、それを根元から根っこまで引っこ抜いてやる!

頼もしい久米の兵たちが、垣根のそばに植えた山椒(はじかみ)。
それをかじるといつまでも口の中がヒリヒリする。
私は(兄の死などの恨みを)忘れない!

🕓 更新日:2025年6月25日

個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています