ー 【特集】朝鮮半島:三韓と郡県、鉄と海のネットワーク ー
西暦100–300年の漢江流域は、後の百済(漢城百済)へつながる内陸中枢+水運ハブでした。幹川(漢江)と支流が内陸の居住・墓域・土城を束ね、西海(黄海)沿岸の航路と接続して、郡県(楽浪・帯方)や南岸の三韓圏との往来を下支え。都城候補とされる風納土城(Pungnap Toseong)・夢村土城(Mongchontoseong)などの遺構群は、漢江の水運核に沿って配置され、「内陸政の拠点 × 外洋連絡の前庭」という性格を示します。(漢城百済の詳細は4世紀以降に本格化するが、G10期はその前史の実体が見える帯)。
水脈の地政学:幹川と支流が作る交通の背骨
漢江は内陸の生産・居住地帯を束ねつつ、西海(黄海)側の港湾・潟湖帯へ開く双方向の回廊でした。支流群は台地縁や扇状地に遺構を並べ、河道の季節変動でも筏・小舟の中継が可能。これが文書(郡県)や交易財の移送の土台になります。
都城候補と前史の実体:風納土城・夢村土城
漢城百済の前史を示す代表遺構が風納土城(風納洞土城)と夢村土城。両者は漢江南岸の台地縁に位置し、土塁・壕・築造技術が共通します。研究・展示を担うソウル漢城百済博物館は、「首都ソウルの2,000年史」を示す群集遺跡(風納土城・夢村土城・石村洞/芳荑洞古墳群など)として整理。年代・用途には幅がありますが、3〜4世紀ごろの都城圏の中核(候補)という見解が主流です。
「漢城=慰礼城」比定の現状
古記録は百済の初期都城を慰礼城(位于漢江域)と伝えますが、具体位置の比定は学界で議論が続きます。現在は風納土城=慰礼城有力説が一般的になりつつも、いつから何が置かれたかの細部は再検証が継続中です(考古の新出土・再測定・地形復元しだいで微修正あり)。
内陸から海へ:渡海の骨格
河口で沿岸航行に受け渡し→対馬海峡を段階中継という骨格だけを示します。ルートは「漢江中流→下流→西海(黄海)河口(概略)」で内陸の文書・物資を下し、「帯方→南岸港群→対馬海峡→北部九州(往還路・概略)」で韓西岸〜南岸→釜山→対馬→壱岐→那の津へ。
- イメージの核:水運で集積→河口で潮待ち・換船→沿岸の小刻み中継→対馬海峡の短距離渡海。
- 前史→百済へ:この漢江の集配=外洋への前庭という機能は、のちの漢城百済期にも継承され、交易の“型”として残る。
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- B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
- C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
- A:漢江流域に都城級の大規模土城群(風納・夢村)があり、博物館・市史料で一貫して漢城百済の中核群として扱われる。
- B:水運核(漢江)として内陸集積—沿岸連絡の結節を担い、前史段階に都城圏としての性格が成立。
- C:慰礼城の厳密位置・編年・行政機能の分担には複数仮説が併存(議論継続)。
