ヒムヤル王国は、 紀元前1世紀〜6世紀の南アラビア(現イエメン高地と紅海沿岸)で活動した、 香料・紅海交易を握った多民族・多宗教の王国である。 サバ王国など周辺諸王国を吸収しつつ南アラビアを統合し、紅海とインド洋を結ぶ 香料ルートの陸海ハブとしてローマ帝国・ササン朝・アクスム王国などと関係を結んだ。
クイック情報
| 別名・異表記 | ヒムヤル/ヒムヤル |
| 活動期 | 紀元前1世紀頃〜6世紀(とくに1〜6世紀に南アラビアの有力王国として繁栄) |
| 分類 | 王国(君主制国家)・部族連合から発展した統合王朝 |
| 勢力圏 | 南アラビア高地(ザーリフ/サナア一帯)と紅海・アデン湾沿岸、時期によりハドラマウト・サバなど周辺諸王国を併合してアラビア南端一帯を支配。 |
| 終局 | 6世紀初頭、ユダヤ教を奉じたヒムヤル王権とキリスト教アクスム王国の対立が激化し、ナジュラーンの迫害などを口実にアクスムが遠征。525年頃に征服され、アクスム系のキリスト教王権に置き換えられた。 |
| 影響 | 紅海・アラビア海の香料・商業ルートを通じて、ローマ帝国・ササン朝・アクスム・インド洋世界を結ぶ中継役を果たし、ユダヤ教・キリスト教・多神教が交錯する宗教環境を形成。これが後のイスラーム成立期の宗教・政治状況の背景の一つとなったと評価される。 |
| 特記事項 | 4世紀末頃には王権エリートがユダヤ教系の一神教に改宗したとされ、「アラビアにおけるユダヤ教王国」として後世に記憶されている。 |
ミニ年表
| 紀元前110年頃 | ヒムヤルが南アラビアのカタバーン王国から分離し、イエメン高地に独自の王国として成立。複数部族からなる連合王国としてスタートし、徐々に勢力を拡大する。 |
| 紀元前25年頃〜3世紀 | 隣接するサバ王国をはじめ、カタバーン(2世紀頃)、ハドラマウト(3世紀頃)を順次併合し、南アラビアの諸王国をほぼ統一。紅海岸およびアデン周辺の港湾を通じて香料・輸入品の交易を支配する「キャラバン王国」となる。 |
| 1〜3世紀 | ローマ帝国やインド洋世界との交易が本格化。フランキンセンスやミルラなどの香料、織物・金属・ぜいたく品が、紅海・アラビア海の海上ルートと陸上キャラバンを通じて往来し、ヒムヤルは関税と中継利潤で富を蓄える。 |
| 4世紀末頃(c. 380年以降) | 王権エリートが何らかのユダヤ教的一神教に改宗したと考えられ、「ユダヤ教王国」として周辺のキリスト教勢力・多神教勢力と対置される。宗教政策をめぐる対立がその後の外交・軍事関係に影響。 |
| 6世紀初頭(518〜525年) | ユダヤ教を奉じるヒムヤル王(ユースフ・ドゥ・ヌワース)がナジュラーンのキリスト教徒を迫害し、これに対し対岸のキリスト教王国アクスムが遠征。525年頃、ヒムヤルはアクスムに征服され、アクスム系のキリスト教王が据えられる。 |
| 6世紀後半〜 | その後、ササン朝ペルシアが南アラビアに介入し、アクスム系支配を排除。ヒムヤル王国としての独立王権は既に失われており、7世紀のイスラーム興隆へと歴史的舞台が移っていく。 |
事績(特集へのリンク)
ヒムヤル王国(紅海口を押さえた南アラビアの王国)
西暦300〜500年ごろ、ヒムヤル王国はアデン湾・紅海沿岸の港と高地王都を結ぶことで、フランキンセンスなど香料とインド洋の軽貨を地中海側へ送る「南アラビア側ハブ」となった。紅海南口をはさみアクスム王国と対置しつつ、関税収入と宗教政策が対外関係を左右した。
主要人物
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