3〜7世紀のイラン高原と西アジア一帯に活動した、 ゾロアスター教を国教とするイラン系帝国。 パルティアに続く最後の前イスラーム期イラン帝国として、 ローマ帝国・後のビザンツ帝国と拮抗しつつ、 メソポタミア・高原・ペルシア湾沿岸・中央アジアの諸地域を統合した。
クイック情報
| 別名・異表記 | ササン朝ペルシア/サーサーン朝 |
| 活動期 | 224〜651年(アルダシール1世の即位〜イスラーム勢力による滅亡) |
| 分類 | 帝国(王の中の王=シャー・アン・シャーによる専制君主制国家) |
| 勢力圏 | イラン高原・メソポタミア(イラク)・ペルシア湾岸・コーカサス・中央アジア南部の一部・レヴァントの一部など、時期によりインダス流域にも影響を及ぼした |
| 終局 | 7世紀前半のビザンツとの長期戦争と内乱で弱体化し、636年カーディシーヤの戦い・642年ナハーヴァンドの戦いを経てイスラーム勢力に敗北。651年頃、最後の王ヤズデギルド3世の死によって帝国としてのササン朝は終焉した。 |
| 影響 | 行政制度・貨幣・都市文化・美術・法制度など、多くの要素がイスラーム期に継承され、イラン文化を通じて西アジア・中央アジア・インドに長期的影響を与えた。またシルクロードとペルシア湾ルートの双方で、ユーラシア東西を結ぶ交易と外交の主要プレーヤーとなった。 |
ミニ年表
| 224年 | アルダシール1世がパルティア最後の王アルタバヌス4世をホルモズドガーンの戦いで破り、ササン朝を創始。イラン高原での新王朝が成立する。 |
| 3世紀中葉 | シャープール1世がローマ帝国と戦い、エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とするなど拡張に成功。帝国の威信が高まるが、対ローマ戦争は長期化する。 |
| 4〜5世紀 | シャープール2世以降、対ローマ(ビザンツ)戦争と東方遊牧勢力への対応を両立させつつ、税制・軍制・宗教政策の整備が進む。帝国内部の交易路も発達し、農業・手工業・内陸・海上交易が結びついた経済構造が形成される。 |
| 5〜6世紀 | コスロー1世らの時代に「第二の黄金期」と評される安定期を迎え、灌漑・都市建設・文化事業が振興される。同時に、シルクロードとペルシア湾沿岸ルートを通じて東西交易の結節点としての役割が強まり、インド洋世界との通商も展開された。 |
| 602〜628年 | コスロー2世の大規模な対ビザンツ戦争により、一時はエジプト・レヴァントを含む広大な領域を占領するが、長期戦で財政と軍事力が疲弊。ヘラクレイオスの反攻により形勢逆転を許し、講和後も内乱が続く。 |
| 636〜651年 | アラビア半島から台頭したイスラーム勢力との戦い(カーディシーヤの戦い、ナハーヴァンドの戦いなど)に敗北し、州の離反や内乱も重なって、最終的に帝国は解体。イランは正統カリフ政権とその後継イスラーム王朝の支配下に入る。 |
事績(特集へのリンク)
ササン朝(ペルシア湾口を押さえたイラン帝国)
3〜5世紀のササン朝は、ホルムズ海峡とペルシア湾岸を押さえ、マラバールやセイロンと結ぶインド洋交易を掌握しようとしたイラン帝国だった。湾口ゲートで通行と課税・保護をセット運用し、ササン商人とギルドのネットワークが「湾と湾」を接着する実務を担った。
主要人物
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