公孫氏は、後漢末〜三国期の東アジア・遼東で活動した半独立の郡県運営勢力。楽浪南部を切り出して帯方郡を新設し、韓・倭と結ぶ沿岸・海上ネットワークの「窓口」を握ったが、238年に司馬懿の遠征で滅亡した。
クイック情報
| 活動期 | 189–238 | 
| 分類 | 行政・郡県運営(半独立政権) | 
| 勢力圏 | 遼東(襄平)/楽浪南部〜帯方(朝鮮半島西岸) | 
| 終局 | 238年—司馬懿の遼東遠征で襄平陥落・滅亡 | 
| 影響 | 帯方郡の新設で韓・倭への窓口を制度化 | 
| 特記事項 | 滅亡後は魏の直掌化が進み、239–243年の倭使(卑弥呼の使者)往還が円滑化。 | 
ミニ年表
| 189年 | 後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立。 | 
| 204–205年頃 | 公孫康、楽浪南部を分割して帯方郡を新設。 | 
| 207年 | 袁尚・袁煕を討ち曹操へ首級送付、中央との取引を確立。 | 
| 233–237年 | 公孫淵、対魏・対呉で動揺し燕王を自称(半独立化を鮮明化)。 | 
| 238年 | 司馬懿の遼東遠征で襄平陥落、公孫氏滅亡(帯方は魏の直掌へ)。 | 
事績(特集へのリンク)
帯方郡はなぜ生まれた?
204年、楽浪南部を切り出して帯方郡を新設し、韓・倭への沿岸中継を制度化=三韓・倭ルートの“海の窓口”を遼東(公孫氏)が握る。
