高句麗遠征は何を変えた?(遼東—帯方の魏補給線が安定)

ー 【特集】朝鮮半島:三韓と郡県、鉄と海のネットワーク ー

244–245年の魏軍遠征で高句麗の都城「丸都城(=現・集安の山城)」が大破し、王は退避、遼東〜玄菟の辺境秩序と交通の主導権はいったん魏側へ傾きました。朝貢・補給・輸送の回路でも、高句麗が握っていた濊・沃沮などの従属圏との結節が切断・再編され、北東縁の“通れる帯”の向きが変わります。

何が起きたのか(244–245の骨子)

背景:242年の高句麗側の出兵を受け、幽州刺史 毌丘倹(魏の武将)らが244–245年に侵攻。まず要塞を抜き、都丸都城(現・集安)を攻略・破壊、多数の殺傷・捕虜を生み、東川王は退避したと伝わります。翌245年にも追撃があり、濊・沃沮などの従属ネットワークが切断されます。

北東縁の秩序と交通はどう変わったか

交通動脈の主導権が魏側へ:遼東—玄菟—(集安周辺)の陸上・水系ルートで、軍事移動・物資輸送の“通行権”が魏側に傾斜。「丸都城(集安・代表点)」を落とされた高句麗は、濊・沃沮への朝貢/徴発ラインを一時喪失します。

魏は濊らを取り込み、供給・輸送の義務を課して再編。帯方・楽浪が北東縁の軍事・輸送ノードとして機能回復します。

ただし中期的には反転が来る

高句麗は復旧・再編を進め、313年に楽浪郡を滅ぼす(帯方も追って消滅)。よって244–245は“魏への傾斜”の山であり、313は“高句麗の反転”の谷を返す節目。

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初期表示レイヤー:03, 04, 05 / 版:v202501027

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  • C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
  • A:244–245年の遠征事実/丸都城破壊/東川王退避(中韓史料の一致する骨子)。
  • B:北東縁の秩序・交通の魏側再編(濊・沃沮などの再付与/輸送義務)(『三国志』東夷伝の記述)。
  • B:313年の楽浪滅亡=高句麗の反転(代表年の整合)。
  • C:個別の進軍路・会戦地点の細部(渓谷名や連戦順序などのディテールは史料間で差があり、現地比定にも揺れが残る)。