公孫淵は、後漢末〜三国期の東アジア・遼東で活動した地方政権の君主(公孫氏政権の第三代)。外交で魏と呉の間を揺らしつつ独自勢力を拡張し、237年には自ら「燕王」を称したが、238年の司馬懿の遠征で襄平が陥落し、政権は滅亡した。
クイック情報
| 活動期 | 228–238(後漢末〜三国前期・魏の時代)/生涯 生年不詳 〜 238 |
| 役割 | 遼東の実権掌握 → 燕王自称 → 238年に魏(司馬懿)により討滅 |
| 主な拠点 | 襄平(遼東郡治)/遼東沿海域 |
| 特記事項 | 外交反復(呉との通好→翻意)や自立志向が滅亡の直接要因に。 |
ミニ年表
| 228年 | 伯父・公孫恭から実権を奪い、遼東の主導権を掌握。 |
| 232年 | 魏将(管輅・毌丘倹ら)の討伐を受け交戦。大洪水で双方撤退。 |
| 233年 | 一度は呉と通好するが翻意し、呉の使節を誅殺して魏に傾く。 |
| 237年 | 遼東へ逃れた袁尚・袁煕を誅殺し、首級を曹操へ送る。 |
| 208–210年頃 | 237 「燕王」を自称し、半独立政権として振る舞う。 |
| 238年 | 司馬懿の遼東遠征で襄平が陥落。捕縛・誅殺され、公孫氏政権は終焉。 |
事績(特集へのリンク)
公孫淵:魏呉二股の破綻
238年、「燕王」自称後に司馬懿により滅亡し、帯方の魏直轄化と海路の安定化が進む。
参考資料
『三国志』魏書(公孫氏列伝)/『晋書』宣帝紀
