ー 【特集】秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊になった? ー
北の陸路(河西回廊)とならんで、南ではベトナム北部〜福建沿岸をつなぐ「南海ルート」の前史が進みました。南越・閩越などの勢力と、港や運河・関市が要点です。ここでは、回廊=北の帯と対比しながら、海の帯の準備段階を見ます。
歴史のながれ(前214→前111)
- 前214年:秦が嶺南に進出し、南海・桂林・象郡を設置。内陸—海上接続の基礎ができる。
- 前204年:南越が成立。都城番禺(南越都城)が港と内陸を結ぶ中核に。
- 前2世紀中葉:閩越が台頭し、沿岸拠点東冶(閩越)の重要度が上がる。
- 前138〜前135年:閩越と南越の紛争に漢が介入。沿岸の秩序が調整される。
- 前111年:漢が南越を併合。海側の結節合浦(合浦郡)が郡県ネットワークに組み込まれる。
どこを通った?(沿岸と河川の結びつき)
- 沿岸の骨格: 東冶(閩越) → 番禺(南越都城) → 合浦(合浦郡) を線で結ぶ 「南海沿岸幹線(閩地→番禺→合浦)」 が基本ルート。
- 内陸との連絡: 港と河川(必要に応じて運河)で内陸の市場・倉庫につなぐ。
- 季節風: 風向きの年周変化を利用して往復計画を立てる。無理な季節は出航を控える。
拠点はどこ?(東冶・番禺・合浦)
- 東冶(閩越): 北東側の沿岸拠点。沿岸監視・物資積み替えの要。
- 番禺(南越都城): 港+都城の中核。内陸の道と海路の「結び目」。
- 合浦(合浦郡): 西端の結節。郡治として海上と内陸の連絡を制度的に支える。
だれが管理した?(南越→漢へ)
- 南越期: 番禺を中心に港・関市を運用し、海の帯を主導。
- 転機: 前111年の南越併合で管理枠組みが郡県制に移行。
- 併合後: 合浦などの拠点が体制内に組み込まれ、運用が安定化。
北との対比(陸の帯 vs 海の帯)
- 制御点:
- 北=関門(玉門関・陽関)+「河西幹線(武威→張掖→酒泉→敦煌)」
- 南=港+季節風
- 補給:
- 北=屯田・倉庫
- 南=港倉・河川物流
- 遮断:
- 北=関門を閉じる
- 南=出港規制・港封鎖
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- B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
- C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
- A:南越・閩越の存在と、内陸—海上連結の基礎があったこと。
- B:具体の港・運河の位置づけと、季節風運用の詳細(地域で差)。
- B:北と南の“帯”の機能比較(説明モデルとしての位置づけ)。