楽浪・帯方は何をつないだ?(郡県・三韓・倭の海陸交易:とくに鉄)

ー 【特集】朝鮮半島:三韓と郡県、鉄と海のネットワーク ー

西暦100–300年、朝鮮半島では中国の郡県(楽浪帯方)が北・中部の「行政の窓口」として機能し、南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の小国家群と海上・内陸の節点で結びついていました。204年ごろに帯方郡が新設され(楽浪の南部を分割)、238年に魏が遼東・楽浪・帯方を掌握、その直後に倭(邪馬台)からの遣使(239/240/243)が往復します。往還の経路は『魏志倭人伝』が示す「郡より倭に至るには、海岸沿いに韓を経て…対馬→壱岐→那の津」という水上ルート像と整合的です。

郡県の再編:204帯方新設 → 238魏の直接掌握

後漢末、遼東の公孫氏が楽浪の南半を切り出して帯方郡を設置(204年ごろ〜220年の間)。のち238年、魏(司馬懿)が公孫氏を討って遼東・楽浪・帯方を直轄化し、半島の対外窓口を再編しました。この再編で、郡県発の公文・使節・徴税の動線が安定し、黄海沿岸〜半島南岸〜対馬海峡の往還を制度面から下支えします。

遣使と水上ルート:郡—韓—対馬—壱岐—那の津

『魏志倭人伝』は、「郡(帯方)から倭へは、海岸沿いに韓を経て、対馬→壱岐→狗邪韓国(北九州沿岸)→那の津」という段階的な中継航行を記します。実際に239・240・243年に倭の使節が往復し、帯方経由で冊封・下賜品の授受が行われました。地図では、ルートを簡略化した「帯方→南岸港群→対馬海峡→北部九州(往還路・概略)」のラインがこの動きを視覚化します。

3世紀半ばの揺らぎ:高句麗戦と北部境界の緊張

242年の小競合を端緒に244–245年の魏の高句麗遠征が発生し、半島北東縁(鴨緑江上流〜丸都/国内城方面)が動揺します。これは郡県勢力(北)と在地勢力(東北)のせめぎ合いの表れで、北の安全度が落ちると、中部〜南部の海上・内陸ルートへの依存が相対的に高まります。なお313年の楽浪崩壊は次期G11の冒頭イベントとして、郡県秩序の終焉と新たな地域秩序の成立を画する転換点です。

何が「確からしい」か:一次史料と考古の擦り合わせ

郡県の設置・掌握年(204/238)や、倭使の往来年(239/240/243)は『三国志(魏志)』系の一次史料で裏づけられます。一方、郡県の管内境界の細部・帯方治所の比定、南岸の具体的な港市の構成などは議論が続く領域で、学界では考古(甕棺・鉄製品・出土鏡・土器系譜)と組み合わせた再構が進められています。本ノートでは、史料で固い「年・順序」を軸に、節点と航路を概略線で示すに留めます。

対応マップ

このノートのピンの色: #3949AB

初期表示レイヤー:03, 04, 05 / 版:v202501027

確度(A/B/C)

※このサイトでは、資料の信頼度(A / B / C)を簡単なラベルで示します。
詳しくは 凡例:、資料の信頼度(A / B / C)へ →

  • A 公的・一次級で直接確認(一次が複数一致でもA)
  • B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
  • C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
  • A:帯方郡の新設(204ごろ)/魏による遼東・楽浪・帯方の掌握(238)/倭使の往復(239・240・243)という年次と事実関係。
  • B:黄海沿岸〜南岸港群〜対馬海峡〜北部九州という段階的中継ルート像(史料文言+地理整合/考古の相補)。
  • C:帯方の具体的な行政境界や治所の厳密位置、個別港市の同定(比定は揺れあり)。