宣祖と壬辰倭乱(文禄・慶長の役)|朝鮮王朝を揺るがせた7年戦争

このブログでは、史料や研究者によって見方が分かれるもの、または伝承・俗説として伝わるものに、
⚠ 諸説あり・伝承レベルのマークを付けています。

目次
  1. 壬辰倭乱とは?
  2. 開戦までの流れと宣祖の背景
  3. 文禄の役(1592〜1593年)
  4. 慶長の役(1597〜1598年)
  5. 戦後の朝鮮と宣祖の評価

壬辰倭乱とは?

壬辰倭乱(じんしんわらん)とは、1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉の命令で日本軍が朝鮮半島に侵攻した戦争の呼び名です。
この名称は主に韓国や北朝鮮など朝鮮半島側で使われます。
「壬辰」は戦争が始まった干支の年(1592年)を指し、「倭乱」は「倭(日本)による乱(侵攻)」という意味です。

朝鮮半島側では、戦争の前半を壬辰倭乱、後半を丁酉再乱(または丁酉倭乱)と分けて呼ぶこともあります。
一方、日本ではこの戦争を文禄・慶長の役と呼び、次の二つに分けて記録しています。

  • 文禄の役(ぶんろくのえき):1592年(文禄元年)〜1593年
    日本軍は朝鮮半島の首都・漢城(現在のソウル)まで進撃しましたが、明(中国)軍と朝鮮軍の反撃を受けて膠着状態となり、一時停戦となりました。
  • 慶長の役(けいちょうのえき):1597年(慶長2年)〜1598年
    再び戦闘が激化しましたが、秀吉の死去により日本軍は撤退し、戦争は終結しました。

開戦までの流れと宣祖の背景

壬辰倭乱のきっかけは、豊臣秀吉が明(中国)を攻めるため、その通り道として朝鮮半島を通過しようとしたことにあります。
当時、日本と朝鮮の外交は対馬の宗氏を通して行われており、直接やり取りすることはほとんどありませんでした。
1591年、日本は宗氏を介して「明へ通じるための通路を開くように」と朝鮮に求めましたが、朝鮮は中立を守ってこれを拒否します。
秀吉はこれを外交的な拒絶と受け取り、武力による進軍を決めました。

朝鮮第14代王・宣祖は、王位についた当初から政治的に難しい立場にありました。
彼は家系(傍系)から初めて王位に就いた人物で、その出自ゆえに即位後も正統性を疑う声や反対派の攻撃を受けることがありました。
政権は勲旧派(古参功臣層)から士林派(新興儒学派)に移ったものの、士林派の内部では東人(改革派)と西人(保守派)の党争が激化し、朝廷は常に分裂状態。
こうした国内の不安定さは、壬辰倭乱の初動にも影を落とすことになります。

🔍 ひとこと:宣祖が王になった経緯

1560年代半ば、第13代明宗のただ一人の息子・順懐世子が早世し、直系の後継ぎが不在となりました。
病弱だった明宗は、もしもの時に備え、傍系の王族から後継を選ぶことに決めます。選ばれたのは、可愛がっていた甥で当時16歳の河城君(のちの宣祖)です。
第11代中宗の側室の子である徳興君の三男で、本流からは外れた家系の出身でした。
1567年、明宗が崩御すると、大妃となった仁順王后が明宗の生前の指名(封書)を示して擁立し、河城君は宣祖として即位します。即位直後は仁順王后が垂簾聴政で約8か月間政務を代行しました。

文禄の役(1592〜1593年)

1592年5月、日本軍が釜山に上陸しました。先鋒の小西行長が西側の幹線を北上し、わずか3週間ほどで首都・漢城(ソウル)を占領します。
宣祖は開城を経て平壌へ移りましたが、日本軍はさらに追撃。
情勢が絶望的になると、宣祖は平壌を放棄して国境近くの義州へ退き、一時は明(中国)への亡命まで考えました

日本軍は二方面で動きます。小西行長が平壌方面を進む一方、加藤清正は第二軍を率いて東海岸を北上し、咸鏡道(ハムギョンド)へ進撃。
この途中、会寧では地元住民の蜂起により、王子の臨海君と順和君が捕らえられ、日本軍に引き渡される事件も起こりました。

戦況が変わったのは翌1593年1月。李如松(イ・ヨソン)率いる明軍が本格的に介入し、平壌城の戦いで日本軍を撃退します。
続く碧蹄館(ぺクチェグァン)の戦いでは、日本軍が戦術的には勝利しましたが、補給が続かず南へ後退しました。

このころ臨時の世子となっていた光海君は、北方防衛の指揮を執り、現地の義兵や官軍と連携して防衛活動を展開。民衆の士気を高め、その働きは高く評価されました。

海上では李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍が閑山島(ハンサンド)海戦などで連勝し、日本軍の海上補給を断っています。

同年10月、日本軍は漢城を放棄。
宣祖は約1年半ぶりに首都・漢城へ戻りましたが、国土は戦火で荒れ果て、明軍との連携維持という新たな課題が残されました。

🔍 ひとこと:宣祖の息子たち

宣祖の王子の中で最も寵愛されたのが信城君ですが、避難行の途中、義州で病没し、この早逝は宣祖に大きな衝撃を与えたと伝わります。

王子の中には、⚠後世「歴代最悪の王子」と評される人物が複数います。代表的なのが、臨海君、順和君、そして貞原君(後の元宗、第16代仁祖の父)です。

臨海君と順和君は壬辰倭乱の際、咸鏡道・会寧で住民の蜂起により拘束され、日本軍に引き渡されました。⚠横暴な振る舞いに耐えきれなかった住民が差し出したともいわれます。

慶長の役(1597〜1598年)

文禄の役後、停戦交渉は長引き、日本軍は朝鮮南部に拠点を残したままでした。
1597年、日本と明の和平交渉が決裂し、豊臣秀吉は再び朝鮮への出兵を命じます。これが慶長の役です。

戦争再開直前、朝鮮水軍の要であった李舜臣(イ・スンシン)は、日本側の二重間者による虚偽情報と、政敵や派閥争いの圧力によって命令不服従とされ、罷免・投獄されます。
後任の元均(ウォン・ギュン)は漆川梁海戦(1597年8月)で大敗し、水軍は壊滅的打撃を受けました。

水軍の危機を受け、李舜臣は急遽復帰。わずか十数隻で挑んだ鳴梁海戦で日本水軍を撃破し、制海権を奪回しました。この勝利は、陸上戦で苦戦する朝鮮・明連合軍を大きく支えます。

一方、宣祖は戦況の安定を望みながらも、後継問題で光海君との間に緊張を抱えていました。
光海君は文禄の役以来、北方防衛や明との外交で評価を高め、官僚や民衆の支持を集めていましたが、庶子出身という理由で宣祖は正式継承に慎重でした。
これに党争(東人派・西人派)が絡み、光海君への牽制が続きます。

1598年8月、秀吉が死去。
撤退する日本軍を阻止するため、朝鮮・明連合軍は露梁(ノリャン)海峡で島津義弘の艦隊と決戦します。日本軍は突破に成功して撤退を完了しますが、李舜臣は戦闘中に被弾して戦死しました。その死は戦闘終結まで秘匿され、彼は以後、民族的英雄として語り継がれることになります。

🔍 ひとこと:李舜臣の評価

鳴梁海戦(1597年)では、李舜臣がわずか13隻で戦ったと記録されていますが、この数字は「即座に戦闘可能な船」を指す場合と「全艦隊数」など、史料解釈に幅があります。周辺の支援船や沿岸防御も含めれば、単純な「13隻対大艦隊」という構図より複雑です。

日本側の一次資料(例:小早川秀包の書状)でも、この戦いによる損害や混乱が示唆されており、「存在しなかった戦闘」ではありません。

⚠評価は、韓国では英雄的に強調され、日本のネット上では過小評価や否定的な論調も見られるなど、政治感情やナショナリズムの影響が色濃いテーマです

戦後の朝鮮と宣祖の評価

7年戦争で朝鮮は国土が荒廃し、人口・農地ともに甚大な損害を受けました。援軍を送った明も国力を消耗し、北方の女真族「後金(のちの清)」の台頭を抑えられなくなります。

戦後も宣祖の政治は安定せず、避難や亡命検討への批判、党争の激化が続きました。
また、明は嫡長子相続を原則としており、側室の子である光海君の世子冊封を長年認めませんでした。朝鮮は何度も請願しましたが、結局承認は宣祖死後・光海君即位後に(王として)行われる形になります。

1601年に正妃・懿仁王后が崩御し、翌1602年、宣祖は仁穆王后を迎えました。
1606年に嫡子・永昌大君が誕生。これにより王位継承問題が再燃し、東人派は北人・南人に分裂、北人からは光海君支持の大北派永昌支持の小北派が生まれ、西人派を含む三つ巴の対立が形成されました。

1607年、宣祖は江戸幕府に「回答兼刷還使」を派遣、使節は江戸で将軍・徳川秀忠に国書を奉呈し、帰途には駿府で大御所・徳川家康にも拝謁、捕虜約1,300人を送還され、形式的に和解しますが、国交はまだ不完全でした。
1608年に宣祖が崩御、第15代光海君が即位
1609年には対馬の宗氏と「己酉約条」を結び、釜山倭館への寄港限定や年間20隻までの渡航制限など、朝鮮優位の通交枠組みで対馬の宗氏が仲介する形で、戦後の日朝関係の基本枠組みが確立されました。

しかし派閥抗争は収まらず、やがて永昌大君の謀殺や仁穆大妃の幽閉へと発展。
1623年、西人派がクーデター(仁祖反正)を起こし光海君を廃位、第16代仁祖が即位します。
こののち、後金の侵攻による朝鮮の暗黒時代が始まりました。

🔍 ひとこと:宣祖の現代韓国での評価

多くは厳しい評価。壬辰倭乱時の避難や亡命検討から「国を捨てた王」とも評され、党争の放置や統率力不足を指摘されます。
一方、未曾有の侵略下で王朝体制を崩さず、明との連合を維持した点は一定の擁護もあります。

🔍 ひとこと:⚠宣祖毒殺説の元ネタ

『朝鮮王朝実録』には、宣祖が糯米飯(もち米飯)を食べた直後に「気が塞がる」症状で危篤になったとあります。
この急変が、後世の野史やドラマで毒殺説に発展したとされますが、裏付けはありません。
ちなみに、当時の主治医だった許浚(ホ・ジュン)は責任を問われて罷免・流配されますが、翌年に復帰し、1610年に医書『東医宝鑑』を完成させました。