漢武帝(劉徹)は前漢の第7代皇帝。前2世紀の長安を中心に活動、拡張と制度化の皇帝。馬邑の変(前133年)で対匈奴が本格化し、河西四郡設置(前121年)と五銖銭発行で回廊の軍政・補給・決済を国家標準にのせた。
クイック情報
別名・異表記 | 劉徹 |
活動期 | 在位 前141–87年/生涯 前156年–87年 |
役割 | 草原帝国の王(匈奴を統合し外圧を形成) |
主な拠点 | 長安/河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌) |
特記事項 | 財政負担と統制強化が並行 |
ミニ年表
前156年 | 劉徹が生まれる(景帝の子)。 |
前141年 | 即位、漢武帝となる。 |
前138〜126年 | 張騫を派遣。西域の勢力図・路網・物産情報を獲得。 |
前121 → 前111年 | 河西遠征で武威・張掖を設置 → 河西四郡が出そろい、同年南越を併合。 |
前119年 | 衛青・霍去病の遠征で漠南制圧・漠北打撃( 匈奴主力に打撃、主導権を拡大)。 |
前118〜117年 | 五銖銭の鋳造/塩鉄専売を実施(財政・軍需を強化)。 |
前109〜108年 | 衛満朝鮮を征服、楽浪など四郡を設置(東方の通路を押さえる)。 |
前91〜87年 | 巫蠱の禍→罪己詔で政策を反省 → 前87に崩御。 |
事績(特集へのリンク)
回廊化を推進
漢武帝は対匈奴の抑止を強めつつ、前121〜前111年に河西へ四郡と関門(玉門・陽関)を整備。屯田・倉庫で補給を自給化し、補給・統治・交通を一体運用して国境を防衛線から“通れる帯”へ転換した(和親・互市とも連動)。