ー 【特集】秦から漢へ「原シルクロード」 ー
前2〜1世紀、漢は匈奴との和親(婚姻同盟)で国境をいったん安定させ、武帝期に河西の四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を整えて、西への出入口を“通れる帯=回廊”へと転換した。郡県制に関門と屯田を組み合わせて補給・防衛を現地化し、国境は「守る線」から人・物資・情報が往復する交通路へ。さらに前138〜126年の張騫の報告が西域像を更新し、政策転換と回廊整備を後押しした。
ミニ用語
| 和親(わしん) | 皇室の女性を嫁がせ、贈与や互市とセットで国境の緊張を下げる婚姻同盟。短期の安定化には有効だが、長期の抑止力は限定的。 |
| 屯田(とんでん) | 兵士や移住民が前線で耕作して補給を現地化する制度。遠征の持久力を上げ、回廊の維持に役立つ。 |
| 河西四郡(かせい・しぐん) | 河西回廊に設けた四つの郡。軍政・税・交通を“帯”として連結する骨格。 |
和親:停戦のための“時間を買う”外交
和親は皇室の女性を辺境強国へ嫁がせ、贈与と市場開放で衝突を抑える枠組みだった。初期漢は匈奴と複数回これを結び、辺境の緊張を緩めたが、完全な抑止にはならず、内外で是非が論じられ続けた。
河西の四郡:国境を“管理できる帯”へ
武帝期の遠征と併行して、河西に武威・張掖・酒泉・敦煌の四郡が置かれ、軍政・税制・交通の常設インフラが入った。結果として、遊牧勢力の通り道だった辺縁は、漢側の物流と軍事の“帯”=回廊に変わる。敦煌の設置(前111)などは、タリム盆地への出入口を制度的に押さえる意味が大きい。
兵站技術:屯田・関門・道の三点セット
前線の維持には現地生産が必要だった。武帝期に端緒をもつ屯田は、兵士や移住民の農耕で補給を現地化し、関門(例:玉門・陽関)や長城線とあわせて回廊の持続性を高めた。これにより「防ぐための辺境」から「通すための辺境」への発想転換が進む。
情報アップデート:張騫の報告が開いた視界
張騫(前138出発〜126帰還)の報告は、西方の勢力図・物産・路網に関する一次情報を宮廷にもたらした。外交同盟の選択肢と、河西から先の運用像に現実味を与え、回廊を“外”へつなぐ構想に根拠を与えた。
対照:南=海の帯(南越・閩越と「南海ルート」の前史)
北の陸路(河西回廊)に対して、南では沿岸の港と河川・運河をつないだ「南海ルート」の前史が進んだ。拠点は 東冶(閩越)—番禺(南越都城)—合浦(合浦郡)。これらを線で結ぶ「南海沿岸幹線(閩地→番禺→合浦)」は、季節風と内陸の水運で内外を結ぶ“海の帯”の骨格になる。
このセクションの個別ノート
南越・閩越は何をつないだ?(南海ルートの前史) 弥生 東アジア
ー 【特集】秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊…
和親は何をもたらす?(停戦・緩衝) 弥生 東アジア
秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊になった?
張騫は何をつないだ?(西域の情報ルート) 弥生 東アジア
秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊になった?
どこが河西回廊の要?(四郡・峠・渡渉点) 弥生 東アジア
秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊になった?
回廊の補給はどう支えた?(屯田と関門) 弥生 東アジア
秦から漢へ「原シルクロード」|国境はどう回廊になった?
このセクションの主要人物と匈奴
草原帝国を統合し外圧を形成
匈奴を広域に再編し、漢へ強い圧力を与えた。初期漢は和親に傾き、国境は軍事・外交の“細い道”となる(土門の戦いや和親の合意は前200年頃)。後の軍事転換の出発点。
回廊化を推進
漢武帝は対匈奴の抑止を強めつつ、前121〜前111年に河西へ四郡と関門(玉門・陽関)を整備。屯田・倉庫で補給を自給化し、補給・統治・交通を一体運用して国境を防衛線から“通れる帯”へ転換した(和親・互市とも連動)。
河西打通で基盤構築
前121年、霍去病は機動戦で河西の匈奴を退け、郡治設置と関門運用のための安全域を確保。補給線が短くなり、捕獲馬や物資の再配分で後続部隊と屯田が入りやすくなった。これが回廊運用の“地ならし”となった。
西域情報で方針転換
張騫は前138年に出発し前126年に帰還。西域の勢力図・道筋・物産の一次情報を宮廷にもたらし、同盟先と交易ルートの選択肢を広げた。これが郡県・関門・屯田を束ねる“回廊化”の判断を後押しし、情報面から国境を“通せる帯”にする下地を作った。
北縁圧で回廊揺らす
匈奴は漠北の遊牧連合で、機動力を生かして河西北縁に圧力をかけた。漢は和親(前198年)でいったん緊張を下げ、必要なときは軍事で抑えつつ、郡治や玉門・陽関を整えて国境を“通れる帯”へと変えていった。
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根拠と限界
根拠は『史記』『漢書』の記述に加え、近現代の歴史地理・文献学研究。郡設置年次や関門の機能は概ね一致するが、現地での生産実態や“回廊化”の速度・範囲は地域差が大きい。とくに屯田の効果は、地形・水利に左右され、場所によっては限定的だった可能性が指摘される。
確度A/B/C
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- A 公的・一次級で直接確認(一次が複数一致でもA)
- B 複数一次情報からの強い推定(反論や未確定部分あり)
- C 仮説寄り(一次が乏しい/矛盾/作業仮説段階)
- 河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)の設置(前121〜111年頃):A(一次史料・通説で強固)
- 和親政策の実施と性格(停戦・贈与・市場の要素):A(制度定義が明確)
- 「国境の回廊化」という機能的解釈:B(史実の組合せからの分析)
- 屯田の導入と効果(持続補給の基盤):B(制度の存在は確実、効果は地域差)
参考資料
- Britannica: Zhang Qian(張騫の派遣と西域情報)。
- Univ. of Washington: Notes on the Shiji/Hanshu(河西四郡・敦煌の年次注)。
- Britannica: Dunhuang(前111年の敦煌郡・シルクロード結節の説明)。
- Wikipedia: Han–Xiongnu Wars(四郡設置の並列記述の参照用)。
