このページは「トピック」だけを、できるだけ平易な言葉でまとめ、難しいことはなるべく省いています。
詳細は、天皇ごとにページを分けて『日本書紀』の内容を紹介していきます。
実際の歴史(考古学の発見など)とはちがうこともたくさんありますが、それぞれのページではできるだけ注釈をつけるようにしています。
神さまの時代(神代)
『日本書紀』は、天地が生まれる前の神々の世界から始まります。
最初に現れるのは、天の世界に住む天津神(あまつかみ)たちで、その中でも太陽神・アマテラス(天照大御神)は特に重要な神とされています。
アマテラスの弟である海の神・スサノオ(素戔嗚尊)は、乱暴なふるまいによって高天原(たかまがはら)を追放され、地上へ降ります。
地上の国・葦原中国(あしはらのなかつくに)に住む神々は、国津神(くにつかみ)です。
スサノオ子孫とされる大国主神(おおくにぬしのかみ)は、出雲を治めた後、アマテラスの命令で国を譲る「国譲り」の物語で知られています。
その後、アマテラスの孫・ニニギノミコトが地上に降りる「天孫降臨」により、天皇家につながる神話が始まります。
ニニギの子孫であるカムヤマトイワレビコは、日向(現在の宮崎県)から大和(奈良県)へ向かい、さまざまな困難を乗り越えて初代神武天皇として即位しました。
これが「神武東征」と呼ばれる出来事です。
「登場する神々」や「神武東征を助けた人々」の子孫は、のちの時代に多くが「有名氏族」になります。
神武天皇
神武天皇は、アマテラスの五世孫です。
神武天皇からはじまる初期の天皇たちは、とても長生きです。
たとえば、神武天皇は127歳まで生きたことになっています。
神武天皇の即位の年を西暦に直すと、紀元前660年とされていますが、実際の年代や出来事とは一致しない可能性があります。
当時の中国の占いの考え方である讖緯説(しんいせつ:未来を予言する思想)をもとに「特別な年を選んだ」とも言われています。
第2代綏靖天皇〜第9代開化天皇
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれています。
この8人の天皇については名前と系譜のみが記されており、実際の事績がほとんどありません。
後の時代に作られた可能性が高く、実在が疑問視されています。
この時代の特徴は、父から子へと単純に皇位が継承されていることです。
実在性が高まる以降の天皇たちでは、兄弟間で皇位を譲り合うことも多く、系図が複雑になります。
第7代孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、巫女的な存在として知られ、奈良の三輪山の神・大物主の妻となった伝説が残っています。
この人物は、邪馬台国の女王・卑弥呼と重ねられることもあり、奈良にある箸墓古墳(はしはかこふん:古墳時代のはじまりとされる大きなお墓)に眠っていると伝えられています。
第10代崇神天皇
崇神天皇は、「実在した可能性がある最初の天皇」と考えられている人物です。
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと:始めて国を統一した天皇)という別称が知られています。
この時代には、疫病の流行などを機に、神々を祀る場所が天皇のいる宮殿から、宮殿の外へと移され、神事は専門の人に任せるようになったとされています。
また、国の平定のために、四つの方角に将軍を派遣したことも伝えられています。
これを「四道将軍(しどうしょうぐん)」といいます。
第11代垂仁天皇
垂仁天皇は、はじめて本格的なお墓(古墳)をつくった天皇といわれています。
外国(朝鮮半島)から来た人をまねいたり、初めて屯倉(みやけ:天皇が管理する土地)を作ったと伝えられています。
垂仁天皇は、殉葬(高い身分の人が死ぬとその人に仕えていた人間を一緒に埋葬する風習)を禁止しました。
皇后が死んだときには、人の代わりに埴輪(はにわ:土で作った像)を埋葬したと伝えられています。
第12代景行天皇
日本各地を平定する伝説の英雄:ヤマトタケル(日本武尊)は景行天皇の子です。
ヤマトタケルは、若いころから父・景行天皇の命を受けて各地へ遠征し、多くの戦いを重ねました。しかし、東国からの帰り道で病にかかり、そのまま亡くなってしまいます。
ヤマトタケルのたましいは白鳥になって空を飛んでいったと伝えられています。
彼が使用したとされる草薙の剣は、のちに三種の神器とよばれる皇室の宝物の1つです。
景行天皇にはおよそ 80人(半分以上が男子)もの子どもがいたと伝えられていて、皇子たちを各地に派遣した伝えられています。
実は、ヤマトタケルは双子の弟で小碓尊(おうすのみこと)、兄は大碓尊(おおうすのみこ)という名前で呼ばれていました。
兄の大碓尊は、『古事記』ではヤマトタケルに殺され、『日本書紀』では美濃国造(岐阜県南部の支配者)の祖先になったと伝えられています。
第13代成務天皇
成務天皇は、ヤマトタケルとは母親が異なる弟です。
成務天皇と同じ日に生まれたと伝えられるのが、武内宿禰(たけうちのすくね)です。
武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの5代にわたり仕え、300年以上生きたとされる伝説の忠臣で、蘇我氏・葛城氏など後の有力氏族の祖とされます。
地方統治の仕組みとして国造(くにのみやつこ)を各地に配置しました。
この制度は、天皇が広い領土を間接的に支配するためのものでした。
第14代仲哀天皇
成務天皇に子がいないかったので、ヤマトタケルの第二子が皇太子に指名されて天皇となりました。
妻の神功皇后と九州へ遠征し、熊襲(くまそ:九州南部の抵抗する人たち)の平定を目指します。
そのとき、神功皇后に神が乗り移り「海の向こうの国(新羅)を攻めなさい」という啓示をうけます。
しかし、仲哀天皇は神の啓示を信じなかったため病死したと伝えられます。
神功皇后
仲哀天皇が亡くなったあと、神がかりになり、妊娠中に新羅に遠征し「三韓征伐(新羅や、同じく朝鮮半島の百済や高句麗も日本に降伏)」の伝説が残っています。
その後帰国し、皇子(のちの応神天皇)を出産しました。
神功皇后や応神天皇ころから、年号や出来事が中国や朝鮮の歴史とつながるようになり、「本当にあったこと」と「伝説」がまざっています。
『日本書紀』を編纂した人は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に出てくる女王・卑弥呼(ひみこ)の存在を知っていたと考えられます。
実際、神功皇后を紹介する場面で卑弥呼に触れ、「中国に倭国王と認められた女王」というイメージを重ねようとした形跡があります。
一方で、書紀には百済(くだら)から七支刀(しちしとう:枝分かれした珍しい刀)が献上された出来事も載っています。
奈良・石上神宮に現物が残るこの刀の銘文から、献上は西暦372年ごろと推定されます。
しかし卑弥呼は『魏志倭人伝』によれば247年ごろに没したとされ、両者の年代には100年以上の開きがあります。
こうした時系列の違いから「神功皇后と卑弥呼は同一人物ではない」というのが現在の一般的な見解です😅
第15代応神天皇
応神天皇は、神功皇后が新羅に遠征した時にお腹にいた子どもです。
のちに、八幡神としても信仰されています。
この時代には、渡来人が鉄器や機織り、漢字文化を伝え始めたとされ、とくに百済から来た学者・王仁(わに)が『論語』や『千字文』をもたらしたという逸話があります。
本当に漢字が広く使われるようになるのは、もう少しあとの時代ですが、このころから少しずつ文字が日本に入ってきたと考えられています。
応神天皇の子どもの一人が、世界最大級の古墳を残した第16代仁徳天皇です。
ところが、仁徳天皇の男子の血統は、第25代武烈天皇で途絶えました。
そこで即位したのが第26代継体天皇です。
継体天皇は応神天皇の第五皇子の五世孫とされています。
現在の天皇の男系の祖先をずっとたどっていくと、応神天皇の第五皇子・稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)に行きつきます。
🕓 更新日:2025年7月3日
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