日本書紀の天皇(34舒明〜41持統)

※このサイトでは、叙述の性格(NS-1〜4)を簡単なラベルで示します。
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  • NS-1 実録寄り — 同時代一次史料や天文記録と高い整合
  • NS-2 照合可 — 外部資料との照合がおおむね可能(部分的に議論)
  • NS-3 伝承中心 — 外部照合は限定的(伝承優勢・史実要素あり)
  • NS-4 神話層 — 神話・寓話層

34–41 舒明〜持統|政変と再編、律令化への地ならし

NS-1 〜2 文字史料・遺構が増え、検証しやすい層(物語的脚色は残る)。

天皇別に

第34代 舒明天皇(じょめい)

飛鳥の宮に詩歌が響く時代、王権は仏教と政治の距離を測りながら、外の情報に耳を澄ませます。次代に向けて、宮廷の人間関係は静かに緊張を帯びていきました。

第35・36・37代(皇極 → 孝徳 → 斉明)

645年 乙巳(いっし)の変。広殿の前、蘇我入鹿が討たれ、女帝は位を退きます。すぐに第36代 孝徳(こうとく)が即位し、都は難波長柄豊崎宮(なにわ・ながらのとよさきのみや)へ。大化の年号、改新の詔——氏族本位の秩序を王権主導の体制へ組み替える“宣言”が続きます。

やがて孝徳が去り、退位していた皇極が名を改めて第37代 斉明(さいめい)として重祚。百済滅亡の報が届き、白村江(663)へ向けて西へ動員。斉明は九州の朝倉宮で崩じ、遠征の重さが都へのしかかります。

第38・39・40代(天智 → 孝徳 → 斉明)

山城や水城(みずき)、防人(さきもり)——敗戦ののち、対外防衛の手当てが進みます。都は近江大津宮(667)へ。内では戸籍・評制の整備が進み、(伝)近江令の名も伝わります。

しかし、天智(てんじ)は去り、翌年壬申の乱(672)。一時の帝位第39代 弘文(こうぶん)を挟み、勝者大海人皇子が即位して第40代 天武(てんむ)。王権は八色の姓(684)で氏族の序列を組み替え、律令の編纂へ踏み出します。神話と国家の物語を織り合わせ、中央集権への太い線を引く時代です。

第41代 持統天皇(じとう)

夫・天武の路線を継ぎ、689 飛鳥浄御原令の施行、690 庚寅年籍(全国的な戸籍)作成、694 藤原京への遷都。格子状の都に道が延び、制度と文書が具体の形を持ち始めます。やがて彼女は譲位し、のちの大改編(701 大宝律令)へと物語は続きます。

※ 「近江令」は存在伝承があるが本文は伝わらず。八色の姓(やくさのかばね)は真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八段。飛鳥浄御原令は天武下で編纂、持統期に施行。