日本書紀の天皇(16仁徳〜25武烈)

🕓 更新日:2025年6月7日

個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています

目次
  1. 第16代 仁徳天皇(にんとく)
  2. 第17代 履中天皇(りちゅう)
  3. 第18代 反正天皇(はんぜい)
  4. 第19代 允恭天皇(いんぎょう)
  5. 第20代 安康天皇(あんこう)
  6. 第21代 雄略天皇(ゆうりゃく)
  7. 第22代 清寧天皇(せいねい)
  8. 第23代 顕宗天皇(けんぞう)
  9. 第24代 仁賢天皇(にんけん)
  10. 第25代 武烈天皇(ぶれつ)

第16代 仁徳天皇(にんとく)

在位期間313年~399年(享年143歳)
皇居難波高津宮(大阪府大阪市)
陵墓伝承地百舌鳥耳原中陵(大阪府堺市:大仙陵古墳)
大鷦鷯(おほさざき)
和風諡号大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)
別称聖帝(ひじりのみかど)
応神天皇(第四皇子)
✅仲姫命(なかつひめのみこと)
皇后✅葛城磐之媛(いわのひめのみこと)
✅八田皇女((やたのひめみこ:異母妹)
✅日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)

応神天皇の崩御後、菟道稚郎子と大鷦鷯尊(仁徳天皇)は互いに皇位を譲りあう
→ 皇位が空いたまま3年経ち、菟道稚郎の薨去(皇位を譲るための自殺)により大鷦鷯尊(仁徳天皇)が即位

✅母:仲姫命(父:品陀真若王(ヤマトタケルの異母弟の子)・母:建稲種命(尾張国造)の娘)

✅皇后:葛城磐之媛は、武内宿禰の孫で、葛城襲津彦の娘
・・・皇族外の身分から皇后に
・・・即位30年に留守中に八田皇女を後宮に迎えたことで激怒し、筒城宮で別居
→ 子:履中天皇
→ 子:住吉仲皇子は、のちに皇太子(履中天皇)の妃(黒媛)を横取りして討伐される
→ 子:反正天皇
→ 子:允恭天皇

✅皇后:八田皇女(父:応神天皇・母:宮主宅媛(和珥臣祖の日触使主の子)
・・・皇后の嫉妬で八田皇女の入内は許されず、即位38年に皇后に
→ 兄:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
・・・応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子は3年にわたり皇位を譲り合う
・・・最終的に菟道稚郎子が自害(妹・八田皇女を後宮に入れるよう託す)
→ 妹:雌鳥皇女(めとりのひめみこ)は、仁徳天皇が妃にしようとするが隼別皇子(仁徳の異母兄弟)が密かに彼女と結婚
・・・皇威を侮辱する歌(鷦鷯より隼が上)を詠んで、反逆したことにより夫婦とも殺害

✅妃:日向髪長媛は、日向国諸県君牛諸井の娘
・・・応神天皇に召し上げられたが、皇太子(仁徳天皇)に見染められ妃となる
→ 子:草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ)は、雄略天皇の皇后
・・・履中天皇の皇后と同一人物説あり
→ 子:大草香皇子は、眉輪王(安康天皇の暗殺犯)の父
・・・大草香皇子は、安康天皇が弟に草香幡梭姫を嫁がすよう送った使者「根使主」の虚偽報告のため冤罪で殺された

🌟 仁徳元年:難波高津宮に遷都

🌟 仁徳4年:竈の煙が無いことから民衆が炊事もできないほど貧しいことに気づき、三年間の課税停止を宣言
・・・竈が本格的な普及したのは7世紀頃(飛鳥時代)😅

🌟 仁徳7年:8月 壬生部と葛城部を定める
・・・壬生部:皇太子の身辺を支える集団
・・・葛城部:皇后の出身氏族に属する部民を皇后付きとして仕えさせた

🌟 仁徳10年:課役再開、宮殿再建

🌟 仁徳11年:難波の堀江、茨田堤を開削
→ 5世紀前期頃に実際に築造されたものと考えられる(大規模な治水工事)
→ 河内平野には草香江(くさかえ)と呼ばれる大きな湖・湿地帯が広がり、北に伸びた砂州(長柄砂州)が水の出口をふさぎ、洪水や高潮が頻発していた
▲ 難波の堀江:草香江(河内湖:大阪平野の一部は湖だった)の水を海へ排水
▲ 茨田堤(まむたのつつみ):淀川の氾濫防止

🔍 ひとこと:河内湖
縄文海進で海が河内平野に入り込み河内湾が形成
→ 淀川・大和川が流れ込み、内海のような地形(潟湖)となる
→ 弥生後期~古墳時代:砂州が発達し、湾口がふさがって淡水湖に変化(河内湖)
→ 古代:「草香江」と呼ばれ、神武天皇が上陸した伝承もある(東大阪市・日下)
→ 難波の堀江・茨田堤の開削(大規模な治水工事)
→ その後、湖は湿地となって消滅
・・・自然堆積と人為的な排水によって次第に縮小され、水田化・耕地化が進んだと考えられる

🔍 ひとこと:茨田堤の人柱伝説
茨田堤の工事で、どうしても崩れてしまう場所が2ヶ所あり、天皇が夢で神のお告げを受る
→「武蔵の強頸(こわくび)と河内の茨田衫子(まむたのころものこ)を河の神に捧げよ」
→ 強頸は泣きながら水に入り命を絶つ(コワクビの断間:大阪市旭区千林)
→ 衫子は知恵でこれを拒む(コロモコの断間:寝屋川市太間)
・・・ヒョウタンを川に投げ入れ、「沈めるなら神意と認めて自分も入水する」と言った
・・・ヒョウタンは沈まず流れていき、衫子は命を救われた
→ 堤は無事完成(2か所はコワクビの断間・コロモコの断間と呼ばれた)
→ 朝鮮半島から来た技術者によるものだった可能性が高い
📘『新撰姓氏録』:茨田連氏
茨田連氏は、多朝臣と同祖であり、神八井耳命(初代神武天皇の皇子で、第2代綏靖天皇の同母兄:多氏の祖)の子孫
茨田屯倉を管掌していた氏族

🌟 仁徳11年:新羅人が朝貢、茨田堤築造の役につかう

🌟 仁徳12年:高句麗が朝貢(鉄の盾と的を献上)
→ 的戸田宿禰(いくはのとだのすくね:的氏の祖)が、鉄の的を射とおした

🌟 仁徳12年:山背の栗隅県(くるくまのあがた:宇治市)に灌漑用水を引く
🌟 仁徳13年:茨田屯倉(河内の直轄地)を作り春米部(脱穀をすることを職掌)を定める
→ 和珥池・横野堤を作る
🌟 仁徳14年: 猪甘津に橋を渡す・都に大道を作る・感玖に堀を作る

🌟 仁徳16年:桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)は、仁徳天皇に愛された女官でしたが、皇后の嫉妬により宮中を追われる
→ 天皇は彼女を不憫に思い、播磨国造の速待に嫁がせようとしたが、玖賀媛はその道中で病死

🌟 仁徳17年:新羅が朝廷への朝貢を怠ったため、砥田宿禰と賢遺臣を派遣、新羅は貢納した

🌟 仁徳22年:八田皇女を妃に求めるが、皇后が反対する
🌟 仁徳30年:皇后が不在中に八田皇女を妃にしたため、皇后は山背の筒城宮で別居する
🌟 仁徳31年:去来穂別尊を立太子
🌟 仁徳35年:皇后が筒城宮で崩御
🌟 仁徳37年:皇后を奈良山に埋葬
🌟 仁徳38年:八田皇女を立后

🌟 仁徳40年:雌鳥皇女と隼別皇子の反乱

🌟 仁徳41年:紀角宿禰が百済に派遣され、国・郡の境界と産物を調査
非礼を働いた百済王族・酒君は王命で鎖に繋がれ、日本へ送られるが、赦免された

🌟 仁徳43年:河内の猟師が珍しい鷹を献上
酒君が「百済には鷹を飼い慣らす技術がある」と進言し、鷹甘部を定めた
・・・鷹狩の技術が百済から伝来

🌟 仁徳50年:茨田堤で雁が産卵
・・・雁は日本で卵を産むことがない鳥(繁殖はシベリアなど北の地域)

🌟 仁徳53年:竹葉瀬(上毛野氏の祖)・田道の兄弟に新羅征伐を命じ、4村の住民を捕虜として連れ帰る

🌟 仁徳55年:田道に蝦夷征伐を命じが、敗れて戦死

🌟 仁徳58年: 呉(南朝宋)と高麗が朝貢

🌟 仁徳60年:白鳥陵(ヤマトタケルの墓)の専属守墓民(陵守)を一般の課役戸に編入しようとしたが、陵守が白い鹿に変化して逃げ去るという不吉な出来事があり、政策を撤回

🌟 仁徳62年:遠江の大木で倭直吾子(やまとのあたいあごこ)が船を建造する

🌟 仁徳62年 額田大中彦皇子が闘鶏(つげ:現在の奈良県天理市)へ狩りに出掛けたときに、氷室を発見し氷を天皇に献上

🔍 ひとこと:氷室について
→ 天然の氷を保存しておく施設(氷の倉庫)
・・・奈良時代の長屋王宅跡の木簡には「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかる
→「氷連」という氏族が『日本書紀』孝徳天皇紀に登場
・・・氷を管理・製造する職業と考えられる
→ 律令制では、氷室・製氷職は宮内省の主水司に属する役職
・・・天皇や貴族の食用・儀式用の氷を管理

🌟 仁徳65年 難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を飛騨に派遣、両面宿儺(飛騨の怪物)を征討

🔍 ひとこと:武振熊について
→ 武振熊は、和珥氏の祖
→ 神功紀でも、忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物
・・・書紀上では200年級の長寿武人
・・・「武振熊」= 和珥氏当主の総称❓or 神功紀と仁徳紀の間を実年は短い❓

🌟 仁徳67年:陵墓地を定め百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名付ける
🌟 仁徳67年:吉備(現在の岡山県)の川嶋河わで人々を苦しめていた大蛇(ミツチ)を、県守(笠臣の祖)が退治
・・・ヒョウタンが沈められなければ、斬るというヒョウタン勝負

🌟 仁徳87年:崩御

16仁徳     
├ 17履中
│ └ 市辺押磐
│ ├ 23顕宗
├ 18反正 └ 24仁賢
└ 19允恭 └ 25武烈
├ 20安康
└ 21雄略
└ 22清寧

第17代 履中天皇(りちゅう)

在位期間400年〜405年(享年70歳)
皇居磐余稚桜宮(奈良県桜井市)
陵墓伝承地百舌鳥耳原南陵(大阪府堺市)
大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけ)
和風諡号去来穂別天皇(いざほわけ)
仁徳天皇(第一皇子)
葛城磐之媛
皇后✅黒媛(くろひめ)
✅草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)

仁徳天皇の崩御後、住吉仲皇子(弟)が皇太子(履中天皇)に成りすまし黒媛(婚約者)を奪い
反乱を起こす
→ 阿曇連浜子・倭直吾子籠は、住吉仲皇子に味方するが
→▲阿曇浜子(あづみのはまこ):海人の氏族・阿曇氏の代表格
・・・淡路島の海人を率いて味方する
・・・本来は死刑だが、恩赦され代わりに目の淵に入れ墨を施す
・・・入れ墨を「阿曇目」と呼ぶようになった
→▲倭吾子籠(やまとのあごこ)
・・・皇太子(履中天皇)兵力を見て態度を変更
・・・日之媛(妹)を皇太子に献上し死罪を免れる
・・・倭直氏は采女を朝廷に差し出す家系となった
→ 瑞歯別皇子(弟:のちの反正天皇)は、皇太子を助けようとかけつけるが、「住吉仲皇子を討たないと会わない」と言われる
→ 隼人の刺領巾(住吉仲皇子の側近)を唆して暗殺を実行
→ 刺領巾も道義に反するものとして処刑される
履中天皇が即位

✅皇后:黒媛は、葦田宿禰(葛城襲津彦の子)or 羽田矢代宿禰(武内宿禰の子:波多氏の祖)
→ 履中5年に黒媛は急死
・・・急死の原因は宗像神社に奉仕すべき部民(車持部)を車持君が私物化したことに対する神の祟りとされ、罪を追及し処罰した
→ 子:市辺押磐皇子は、第23代顕宗天皇・第24代仁賢天皇の父
→ 子:青海皇女(一説では飯豊皇女)
・・・飯豊皇女は女帝の先駆的存在(飯豊天皇とも呼ばれる)
→ 子:御馬皇子は、のちに大泊瀬皇子(雄略天皇)に処刑される

✅皇后:草香幡梭皇女(父:仁徳天皇・母:日向髪長媛)
・・・皇后立后のわずか1ヶ月ほどで天皇崩御
・・・日向髪長媛は、応神天皇に召し上げられたが、皇太子(仁徳天皇)に見染められ妃に
・・・ 履中天皇の皇后(405 年)→ 雄略天皇の皇后(457 年)とする同一人物説あり
→ 子:中磯皇女は、大草香皇子(仁徳天皇の子)の妃となり眉輪王(安康天皇の暗殺犯)をもうける
・・・大草香皇子が根使主の讒言がもとで安康天皇に殺されたのち、安康天皇の皇后に

🔍 ひとこと:草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)
→ 同名別人
▲ 履中天皇の皇后(父:応神・母:日向泉長媛)
▲ 雄略天皇の皇后(父:仁徳・母:日向髪長媛)
→ 同一人物説:仁徳天皇の皇女(履中 → 雄略と再婚)

応神天皇
├ 草香幡梭皇女(履中の皇后)
└ 仁徳天皇
├ 草香幡梭皇女(雄略の皇后:履中→雄略?)
│ └ 中磯皇女(大草香妃→安康皇后)
│ └ 眉輪王(大草香皇子との子)
├ 大草香皇子
├ 履中天皇
├ 反正天皇
└ 允恭天皇
├ 安康天皇
└ 雄略天皇
*同一人物とすると
履中后立(405)→ 雄略后立(457)の差は52 年

『古事記』
応神
└ 幡日之若郎女(履中の皇后)
└長田大郎女(大草香妃→安康皇后)
└ 眉輪王(大草香皇子との子)
*雄略の皇后は別人

🌟 履中2年:弟の瑞歯別皇子(反正天皇)を立太子
蘇我満智・物部伊莒弗・平群木菟・葛城円らを国政に参画させた

🌟 履中4年:諸国に国史を設置し、国内の情勢を報告させた

🌟 履中5年:車持君が筑紫と宗像神社の「車持部」を私物化したための祟りで皇后黒媛が亡くなる
→ 車持君の筑紫の車持部を管掌禁止する
📘『新撰姓氏録』
車持公氏(くるまもちのきみ)は、上毛野朝臣と同じ祖先
→ 豊城入彦命の後裔にあたる射狭君が、雄略天皇の御世に乗輿を供進して車持公氏姓を賜った
→ ちなみに「群馬」は「車」が転訛

🌟 履中6年:草香幡梭皇女をを立后

🌟 履中6年:蔵職・蔵部の創設(朝廷の公式倉庫制度を整える)

🌟 履中6年:鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の娘の太姫郎姫・高鶴郎姫を後宮に入れる
鷲住王(太姫郎姫・高鶴郎姫の兄)を呼び寄せようとするが、住吉邑に居て無視される
鷲住王(わしすみのおおきみ)は讃岐国造の始祖・阿波国の脚咋別の始祖である
→ ちなみに、脚咋(あしくい)が転化して宍喰(ししくい:徳島県の南端)

🔍 ひとこと:鷲住王について
『古語拾遺』』や『先代旧事本紀』などの記録に、忌部氏の祖神として登場する
👉 参照用ページ(史料のまとめ)/古語拾遺
👉 参照用ページ(史料のまとめ)/先代旧事本紀

太玉命(天孫降臨に随行)忌部氏の始祖的存在
└(子孫)鷲住王
  忌部氏の祖として特定地域の氏族(阿波・讃岐など)とつながる

🌟 履中6年:崩御

第18代 反正天皇(はんぜい)

在位期間406年~410年(享年60歳)
*享年は『古事記』より
皇居丹比柴籬宮(大阪府松原市)
陵墓伝承地百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)
瑞歯別(みつはわけ)
和風諡号多遅比瑞歯別天皇(たじひのみつはわけ)
仁徳天皇(第三皇子)
葛城磐之媛
✅妃津野媛(つのひめ)
弟媛

出生地は淡路島、容姿端麗で、歯並びが非常に整っていた
皇后を立てなかったのは、第13代成務天皇に次いで2人目
皇太子不在のまま弟(允恭天皇)が跡を継ぐことに

✅「皇夫人」の用例は一人だけ
皇夫人:津野媛(大宅臣の祖の和珥木事の娘)
妃:弟媛(津野媛の妹)

🌟 反正5年:崩御

第19代 允恭天皇(いんぎょう)

在位期間412年~453年(享年78歳)
*享年は『古事記』より
皇居丹比柴籬宮(大阪府松原市)
→ 遷都記事がない
遠飛鳥宮(奈良県明日香村or大阪府羽曳野市)
→『古事記』
陵墓伝承地惠我長野北陵(大阪府藤井寺市:市ノ山古墳)
和風諡号雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくね)
仁徳天皇(第四皇子)
葛城磐之媛
皇后✅忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)
✅弟姫

病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、妻の忍坂大中姫の強い要請を受け即位

✅皇后:忍坂大中姫(父:稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)・母:弟姫(息長真若中比売))
・・・今日の皇室は稚野毛二派皇子の男系子孫(第26代継体天皇の高祖父)
・・・少女時代に馬上から侮辱されたことを忘れず、闘鶏国造を死罪にする代わりに降格した(闘鶏稲置の由来)
→ 子:木梨軽皇子
→ 子:軽大娘皇女
・・・木梨軽皇子 ・軽大娘皇女は近親相姦が発覚
→ 子:穴穂皇子(安康天皇)
→ 子:八釣白彦皇子:安康天皇暗殺の黒幕と疑われ沈黙したため、大泊瀬皇子(雄略天皇)に斬り殺される
→ 子:境黒彦皇子:眉輪王(安康天皇の暗殺犯)と葛城円の邸宅に逃げて、大泊瀬皇子(雄略天皇)に焼き殺される
→ 子:大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)

✅妃:弟姫は、:皇后の妹
・・・姉が皇后であることを理由に入内を拒むが、使者の執念に折れ承諾
→ 本宮には入らず、藤原宮(奈良県橿原市)に住む
→ 皇后の嫉妬を理由に遠方の茅渟宮(大阪府泉佐野市)へ移る

🔍 ひとこと:衣通姫(そとおりひめ)
『日本書紀』と『古事記』で、それぞれ別人の別名(大変美しい女性という共通点)
・・・▲『日本書紀』:弟姫(妃)
・・・▲『古事記』:軽大娘皇女(皇女)

🌟 允恭3年:新羅から医者が来朝、天皇の病気を治した

🌟 允恭4年:氏姓制度は混乱して、氏姓を偽る者もいたため、飛鳥甘樫丘(味橿丘)にて盟神探湯を実施
・・・神に誓った後、熱湯に手を入れて、偽った場合は火傷を負う

🌟 允恭5年:允恭地震が発生
・・・日本最古の地震記録だが被害は書かれず(玉田宿禰の反意露呈のきっかけ)
→ その時、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)は反正天皇の殯をさぼって酒宴
→ 玉田宿禰は口封じのため偵察に派遣された尾張連吾襲を殺し、祖先・武内宿禰の墓に逃げ込む
→ 天皇が事情を聞くために呼び出すと、衣の下に鎧を着て参内
→ 最終的に捕らえられて処刑
・・・葛城氏が没落のきっかけ

🌟 允恭7年:天皇は皇后の妹・弟姫を妃にしようとしたが、姉への遠慮から入内を拒否
→ 使者・烏賊津使主烏賊津使主は庭に伏して七日間説得し入内を承諾
→ ただし宮中ではなく藤原宮に住んだ
→ 皇后が大泊瀬皇子(雄略天皇)のお産中に天皇が藤原宮に行幸
→ 皇后は恨みのあまり産屋に火を放って死のうとした

🌟 允恭8年:弟姫がさらに遠方の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移った

🌟 允恭11年:藤原宮にいた衣通郎姫の名を後世に残すために、大伴室屋に詔し、諸国の国造に藤原部を定めた

🌟 允恭14年:淡路島で獲物が獲れず占うと「赤石の海底の珠を祠れと」告げた
→ 海人の男狭磯(おさし)が深く潜り大鰒(おおあわび)をとって命を落とす
→ 大鰒の腹の中にあった「桃ほどの真珠」を嶋の神に祀るとたくさんの獲物が取れた
→ 男狭磯は厚葬され、その墓は今も残る

🌟 允恭23年:木梨軽皇子を立太子
🌟 允恭24年:木梨軽皇子と軽大娘皇女(同母妹)の近親相姦が発覚
→ 軽大娘皇女は伊予に追放される

🌟 允恭42年:崩御
→ 新羅王の弔問団が涙と楽舞で大挙して允恭天皇の葬儀を弔った
→ 帰路に畝傍山・耳成山を賞賛した一言が、「采女を娶った」と誤解され、大泊瀬皇子(雄略天皇)による取り調べ騒動へ
→ 釈放されたものの、新羅は怒って貢物を目減りさせた

第20代 安康天皇(あんこう)

暗殺されたと明確に記された最初の天皇

在位期間454年〜456年(享年57歳)
皇居石上穴穂宮(奈良県天理市?)
陵墓伝承地菅原伏見西陵(奈良県奈良市)
穴穂(あなほ)
和風諡号穴穂天皇
允恭天皇(第二皇子)
忍坂大中姫
皇后✅中磯皇女(なかしのひめみこ)

木梨軽皇子(皇太子)は近親相姦の過去があったため、支持せず、弟の穴穂皇子が推される
→ 木梨軽皇子は兵を挙げたが失敗、物部大前宿禰のもとに潜伏
→ 大前宿禰が仲裁し戦闘は回避
→ 木梨軽皇子は自殺(一説では伊予に流刑)
→ 穴穂皇子が即位

✅皇后:中磯皇女(父:履中天皇、母:草香幡梭皇女)
・・・大草香皇子(仁徳天皇の子)の妃となり眉輪王をもうけた
・・・大草香皇子が根使主の讒言で安康天皇に殺されたのち、安康天皇の皇后になる

16仁徳     
├ 17履中
│ └ 市辺押磐
│ ├ 23顕宗
├ 18反正 └ 24仁賢
├ 19允恭 └ 25武烈
│ ├ 20安康
│ └ 21雄略
│ └ 22清寧
├ 草香幡梭皇女(履中皇后❓→雄略皇后)
│ └ 中磯皇女(大草香妃→安康皇后)
│ └ 眉輪王(大草香との子)
└ 大草香皇子

🌟 安康元年:「弟(雄略天皇)の妃に草香幡梭皇女(叔母)を」と大草香皇子(叔父:草香幡梭皇女の同母兄)に申し込む
→ 大草香皇子は宝を添えてお受けする旨を返答
→ 使者の根使主(ねのおみ:坂本臣の祖)が宝を着服し虚偽報告
→ 天皇は虚偽を信じて大草香皇子を誅殺

🌟 安康2年:大草香皇子の妃だった中磯皇女を皇后にする
→ 眉輪王(大草香皇子との子)は母により罪を免れ宮中で暮らす

🌟 安康3年:暗殺され崩御
→ 皇后に「眉輪王を恐れている」と不安を語る
→ それを床下で聞いていた眉輪王が天皇が寝ている間に刺し殺す

皇太子を指名することなく崩御したが
従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者にするつもりだったとされる
しかし、大泊瀬皇子(雄略天皇)が市辺押磐皇子を殺害し皇位に就いた

🔍 ひとこと:ちょっと気になる中磯皇女(なかしのひめみこ)🫢
中磯皇女(履中天皇の皇女): 大草香皇子の妃 → 安康天皇の皇后
→ 安康天皇暗殺以後、古代史料に消息ゼロ(没年・陵墓・処遇 すべて不詳)
🕵️‍♂️ 謎①:中磯皇女の母:草香幡梭皇女に関して
中磯皇女の母・履中天皇の皇后・雄略天皇の皇后は別人・同一人物❓
▲別人
→ 応神皇女: 履中皇后(幡日之若郎女)
→ 履中皇女 :安康皇后(長田大郎女)
▲同一人物説
同じ皇后が50 年後に別天皇と再婚
→ 応神 / 仁徳皇女:履中皇后→ 52年後 雄略皇后
→ 履中皇女 :安康皇后(中磯皇女)
🕵️‍♂️ 謎②:上宮記逸文の継体天皇の祖父(乎非王)の母:中斯知命=中磯皇女とする説
→ 中斯知命が他に登場せず正体不明なのは
・・・ 誤写(知→姫)で、中磯皇女だとすると名の知れた人物であえて説明は不要だった
→ 傍系の出自の継体天皇の母系を飾り皇統の正統性アップ❓🤔
・・・ 継体天皇の母系に履中皇女(中磯皇女)を配置

📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』の『記紀』にない「継体天皇の出自(系譜)」

凡牟都和希王(応神天皇)

若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)
*稚野毛二派皇子

大郎子(意富富等王)

乎非王 ←母は中斯知命(なかしちのみこと)
↓ *中斯知命は他に登場せず正体不明
汗斯王(彦主人王)

乎富等大公王(26代継体天皇)

第21代 雄略天皇(ゆうりゃく)

葛城氏・吉備氏を追い払い、大王による強力な統治を確立

在位期間456年~479(享年62歳?)
皇居泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)
*脇本遺跡が有力な候補地
陵墓伝承地丹比高鷲原陵
大泊瀬幼武
和風諡号大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけ)
別称大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと) *『古事記』
允恭天皇(第五皇子)
忍坂大中姫
皇后✅草香幡梭姫皇女
✅葛城韓媛(かつらぎのからひめ)
✅吉備稚媛(きびのわかひめ)
✅和珥童女君(わにのわらわきみ)

安康天皇は皇后の連れ子である眉輪王により暗殺される
→ 大泊瀬皇子(雄略天皇)は皇位をめぐるライバルを次々に殺害して即位
大泊瀬皇子(兄)を黒幕と疑い、沈黙したためその場で斬り殺す
▲ 葛城円の邸に逃げ込んだ境黒彦皇子(兄)と眉輪王を葛城円ともども焼き殺す
▲安康天皇は従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てるつもりだったことを恨み、市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子を狩りに連れ出して射殺
・・・市辺押磐皇子の子ら(後に仁賢天皇・顕宗天皇)は播磨へ逃走して潜伏
御馬皇子(市辺押磐皇子の同母弟)は、三輪君身狭を頼って逃れようとしたが、捕えられて処刑
・・・死に際に「この井戸の水は百姓だけが飲める。王は決して飲めない」と呪いをかけた

✅皇后:(叔母)草香幡梭皇女(父:仁徳天皇・母:日向泉長媛)
履中天皇の皇后・雄略天皇の皇后は同一人物説もある
→ 兄:大草香皇子は、根使主の讒言がもとで安康天皇に殺される
→ 雄略天皇の間に子はなし
*雄略天皇は暴虐な正確のため従姉妹たち(反正天皇皇女たち)には縁談を断られている

✅妃:葛城韓媛は、葛城円(葛城襲津彦の孫)の娘
・・・葛城円(父)は、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と境黒彦皇子を屋敷にかくまい、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛と葛城宅七区(葛城の屯倉)を差出したが焼き殺された
・・・葛城氏は没落、以後は葛城氏出身の后妃は存在しない
→ 子:清寧天皇
→ 子:稚足姫皇女(わかたらしひめ)は、斎王として伊勢の神宮に下向
・・・妊娠したとの讒言で、自害
・・・事後調査(史上に残る最初の人体解剖)で無実が判明

✅妃:吉備稚媛は、吉備上道臣田狭の元妻
・・・雄略天皇は、田狭を朝鮮半島(任那)に追いやり、妃とした
・・・田狭は帰国せず、新羅や百済と連携し大和朝廷に対抗する姿勢を取る
→ 田狭との子:兄君は、星川皇子の乱に協力?
→ 田狭との子:弟君は、謀反を企てていることを知った嫁の樟媛に暗殺される
→ 雄略天皇との子:磐城皇子(いわきのみこ)
・・・母と弟の反乱に反対した(その後の生死は不明)
→ 雄略天皇との子:星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)
・・・雄略天皇崩御後に母にそそのかされて謀反(星川皇子の乱)を起こすが、討伐され焼死

✅妃:和珥童女君は、春日和珥臣深目の娘
→ 子:春日大娘皇女(かすがのおおいらつめ)は、 24代仁賢天皇の皇后
→ 童女君(采女だった)が一夜で身ごもったことを不審に思い、認知せず育てなかったが、後に物部目大連が少女の容姿が天皇に似ていると進言し、娘を認知し母を妃とした

🌟 雄略元年:平群真鳥を大臣・大伴室屋と物部目を大連にする

🌟 雄略2年:百済から贈られた池津媛(百済王族の娘)を妃に迎えようとしたが、彼女が石川楯と密通したため、二人を捕えて桟敷に縛りつけ、火をつけて焼き殺させた

🌟 雄略2年:天皇が狩りの後、「獲物の調理法」について群臣に問いかけたが、意図が分からず答えられなかったため、天皇が怒って御者を殺害
→ 皇太后と皇后が美女を差し出して宥め「宍人部(ししひとべ)を作りたいのでは?」と助言
→ 忍坂大中姫(皇太后)の推薦で膳臣長野らが任命され、宍人部(狩猟肉の調理専門官)が組織された
宍人部は、天皇に食事を献上する「膳部(かしわでべ)」の一部から分化

🌟 雄略3年:伊勢神宮の斎宮:稚足姫皇女が妊娠したと阿閉臣国見が讒言
・・・この時点で葛城韓媛(稚足姫皇女の母)はまだ妃ではなく、稚足姫皇女は存在しないのでは❓
→ 廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ:伊福部氏)は、湯人として朝廷に仕えていた息子の武彦が伊勢斎宮の稚足姫皇女を犯し、妊娠させたと阿閉臣国見と讒言
→ 武彦(息子)を殺した
→ 稚足姫皇女が自害して解剖
→ 無罪と分かり、流言を流した阿閉臣国見を殺そうとした

🔍 ひとこと:伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)
→ 『記紀』には記載がないが、『延暦儀式帳(伊勢神宮関係の記録)』によると、雄略天皇22年(478年)に、天照大御神の御神託により、豊受大御神を丹波国から遷座して外宮が創建された

🌟 雄略4年:葛城山で一言主大神(自分とまったく同じ狩猟装束の一行)と遊猟する
🌟 雄略4年:天皇にとまった虻をやっつけたトンボを褒め蜻蛉野(あきずのおの:奈良県桜井市~天理市付近)と名付ける

🌟 雄略5年(461年):百済の蓋鹵王は弟の昆支王を派遣し、途中の筑紫で婦人が男子を出産
→ 嶋君(しまのきみ)と名付けて百済に送り返した(これが武寧王であるとしている)

🔍 ひとこと:武寧王陵の発見
1971年に発見された武寧王陵の墓誌に
→ 諱(実名):斯麻(しま)王
→ 生年:癸卯年(西暦462年)
とあり『日本書紀』の記述とほぼ一致

🌟 雄略6年:蜾蠃(すがる)は、后妃への養蚕を勧める雄略天皇から蚕(こ)を集めるよう命令されたが、誤って児(嬰児)を集めてしまった
→ 天皇は大笑いして、「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた
→ 蜾蠃(すがる)は少子部連(ちいさこべむらじ)の姓を賜った

🌟 雄略6年:宋が冊賜の使者を派遣した
・・・倭王 興(雄略の父系か同輩王)の冊封状が宋から届けられた❓

🌟 雄略7年:天皇は、三輪山の神の姿を見たいと言って、力自慢の蜾蠃(すがる)に捕獲を命じた
→ 蜾蠃は山で大蛇(神の化身)を捕らえて献上
→ 蛇は雷のような音を立て、目を光らせたため、天皇は隠れた
→その後、大蛇は山へ返され、蜾蠃は雷(いかづち)と改名

🌟 雄略7年:吉備氏の乱(吉備氏に対しても反乱鎮圧の名目で軍を送る)
▲吉備下道臣・前津屋(まえつや)の事件
→ 前津屋が、不敬を働いたとして、物部30人を遣わして前津屋一族70人を誅滅
▲吉備上道臣・田狭(たさ)と稚媛(わかひめ)の事件
→ 天皇は、田狭を任那国司に派遣、その田狭の妻(稚媛)を奪い自分の妃とした
→ 田狭は日本から離反し新羅に協力
→ 弟君(田狭の次男) は、天皇のおつかい(新羅討伐・百済から職人をつれてくる)で朝鮮へ
→ 田狭(父)から日本には戻らず、味方になれとの手紙が届く
→ それを知った愛国者の樟媛(くすひめ:弟君の妻)が弟君を殺して屋敷に埋める
百済から連れて来ていた技術者集団(東漢・鞍作・錦織)は河内国・吾礪の広津に配し、のち桃原・真神原へ移住させて部民化された

🌟 雄略8年(464年):中国系渡来人の身狭村主青(むさのすぐり・あお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい・はかとこ)を呉(宋)に派遣
→ 新羅が貢ぎ物を怠った呉へ告げ口
→ 新羅は恐れて高句麗と提携
→ 高句麗の護衛兵の一人がスパイと判明、新羅王が国内の高句麗兵を皆殺しにする
→ 高句麗は新羅に出兵、新羅は任那王を通じて倭へ救援を要請
→ 膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らが派遣され、高句麗軍を迎撃
・・・『宋書』倭国伝の年次とは合わないが
・・・倭王武が奉った上表文(478年)は四六駢儷体で書かれた公的外交文書
・・・文章作成には、身狭村主青・檜隈民使博徳が関与したとも考えられる🤔

🔍 ひとこと:「倭の五王」について
5世紀初め~末(約100年間)中国南朝(宋)に使者を送り続けた、倭の5人の王たち
『宋書』に記載
→ 称号と朝鮮南部の支配権を要求
→ 南朝宋は、それを基本的に認めた
→『日本書紀』や『古事記』に、倭の五王の記録はない

421年讃(さん)仁徳天皇?または応神天皇?
438年珍(ちん)履中天皇?反正天皇?
443年・451年済(せい)允恭天皇?
462年興(こう)安康天皇?
478年武(ぶ)雄略天皇(ほぼ確実)

🌟 雄略9年 : 新羅を討とうとし、宗像三女神に神託を請うため、凡河内直香賜と采女を遣わしたが、凡河内直香賜が采女と姦通したため、斬首した
・・・凡河内氏は「アマテラスとスサノオの誓約」で生まれた天津彦根命の後裔一族

🔍 ひとこと:アマテラスとスサノオの誓約でうまれた「三柱の女神」と「五柱の男神」
▲「三柱の女神」:アマテラスがスサノヲの剣を噛み砕いて吐いた霧から生まれる
→ スサノオの子と定められた
宗像三女神は「三柱の女神」の総称で、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている

日本書紀(本編)古事記宗像大社(3宮で1つの神社)
*海上交通の守護神
田心姫(たこり)多紀理毘売命
またの名は奥津島比売命
奥津宮(沖ノ島)
*沖を守る
市杵嶋姫(いちきしま)市寸島比売命
またの名は狭依毘売命
中津宮(大島)
*島を守る
湍津姫(たぎつ)多岐都比売命辺津宮(本土)
*岸を守る

▲「五柱の男神」:スサノヲがアマテラスの勾玉の連を噛み砕いて吐いた霧から生まれる
→ アマテラスの子と定められた
・・・▲正哉吾勝勝速日天忍穂耳命尊
・・・▲天穂日命(出雲氏、土師氏等の祖)
・・・▲天津彦根命(凡河内氏、山代氏等の祖)
・・・▲活津彦根命
・・・▲熊野櫲樟日命

🌟 雄略9年(465年):天皇自ら新羅を攻めようとしたが、宗像神社の神に止められる
→ 代わりに、紀小弓宿禰(きのおゆみ)・蘇我韓子宿禰(そがのからこ)・大伴談連(おおとものかたり)・小鹿火宿禰(おかひ)らを派遣
▲紀小弓が「妻を喪ったばかりで家を空けられぬ」と上奏
天皇は同情し、吉備上道采女・大海を側室として与えた
▲戦いの展開
→ 倭軍は新羅の首都近くまで攻め込む
→ 将軍2人(大伴談・紀岡前)が戦死
→ 総大将の紀小弓も病気
→ 総大将の息子・紀大磐(おおいわ)が暴走・他の将軍と内紛で蘇我韓子が死亡
→ 百済(倭の味方だった国)がチャンス!と思い、大磐を殺す
→ 戦争どころではなくなり、遠征はここで終了
→ 生き残ったのは、小鹿火だけだった
→ 小鹿火(角臣の祖)は新羅遠征後、八咫鏡を大伴室屋に献上し、角国(周防国:山口県)への在留
→ 天皇は、紀小弓の功績を讃え田身輪邑(たむわのむら、大阪府泉南郡岬町淡輪)に墳墓を造営させる

🔍 ひとこと:淡輪古墳群(5世紀中頃)
→ 円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られ、紀氏(紀伊勢力)との強い関わりの中で成立したと考えられている
・・・▲西陵古墳(前方後円墳)
・・・▲淡輪ニサンザイ古墳(第11代垂仁天皇の子:五十瓊敷入彦命の墓に治定)
・・・▲西小山古墳(円墳)

🌟 雄略10年:身狭村主青と檜隈民使博徳が帰国

🌟 雄略11年:貴信(くしん:呉の人)が、百済国から逃げて渡来
・・・磐余の呉の琴弾きの壃手屋形麻呂(さかてのやかたまろ)はその子孫と書かれている

🌟 雄略11年:鵞鳥(ガチョウ)や飼い鳥を犬に殺された事件がきっかけで、複数の人々が罰として鳥養部に編入された

🌟 雄略12年(468年):身狭村主青と檜隈民使博徳を宋に派遣

🌟 雄略12年:闘鶏御田(みつけのみた:木工の技術者)が采女を犯したと誤解した天皇が処刑しようとした
→ 秦酒公(はたのさけのきみ)が琴を弾いて歌を歌い、無実を天皇に悟らせた

🔍 ひとこと:闘鶏御田について
本文には次のような注記が挿入されてる
異本では 猪名部御田(いなべのみた) と伝わってるがそれはおそらく取り違えだろうと判断して本文の表記を闘鶏御田にしたと書かれている
*猪名部は木工を専業とした品部

🌟 雄略13年:歯田根命(狹穗彦:垂仁皇后狭穂姫命の兄の玄孫)が宮女・山辺小嶋子と密通
→ 天皇はその財を没収し、没収地の餌香長野邑(大阪府藤井寺市のあたり)を物部目大連に賜える

🌟 雄略13年:播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)を討伐

🌟 雄略13年:猪名部真根(いなべのまね)が「刃を決して誤らない」と言ったので天皇が試すため、采女たちにふんどし姿で女相撲を取らせた
→ 見とれた真根は刃を誤り、処刑されかける
→ 仲間の歌でその技術の貴重さが訴えられ、天皇は処刑を中止

🌟 雄略14年:身狭村主青・檜隈民使博徳が漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)・衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛ら工女を連れ帰り、住まわせた地域を呉原(奈良県高市郡明日香)と名付けた

🌟 雄略14年:根使主(坂本臣の祖)
→ 根使主が、呉からの使者の接待役になる
→ 根使主がつけていた玉縵が虚偽報告で盗んだものとわかる(大草香皇子が処刑された原因
→ 根使主は日根(大阪府和泉市付近)に逃げて稲城をつくるが討ち取られる
→ 根使主の子孫を「皇后の名代の大草香部」と「茅渟県主の負嚢者(袋を背負って奉仕する者)」に分割処分
→ 小根使主(根使主の息子)は天皇に対する不敬な寝言が判明して処刑された
→ 難波吉士日香蚊(殉死した大草香皇子の忠臣)の子孫を「大草香部吉士」と名乗らせた

🌟 雄略15年:秦氏
秦酒公が天皇に奏上し、秦の民が各豪族にばらけてしまい統率できないと訴える
→ 天皇は全国に分散していた秦氏を秦酒公に統率させる
→ 秦酒公は自分の手で織らせた絹と綾を 「うず高く積み上げて」 朝廷に献上
→ 天皇は「禹豆麻佐(うずまさ)」 の姓を秦酒公に授ける

🌟 雄略17年:贄土師部の設置
吾笥(あけ:土師連の祖)が朝夕の膳部に用いる清浄な食器を作るために、摂津国・山背国・伊勢国・丹波国・但馬国・因幡国の諸国から私の民部を朝廷に進上
→「贄土師部(にえのはじべ)」 と名付ける

🌟 雄略18年:伊勢の朝日郎を討伐
→ 物部目が、怯えた物部菟代に代わり出撃して討伐を成功
→ 天皇は、任務を果たせなかった菟代から猪名部を没収して物部目に与える

🌟 雄略19年:穴穂部(あなほべ:安康天皇:穴穂皇子の名代)を置く

🔍 ひとこと:穴穂部についての有力仮説
穴の名が付く部民(大穴磯部・穴師・穴太部など)の遺跡を調べると、鉄をつくる炉・鉱山跡と、横穴式石室用の石切り場が並んで見つかる
→ 採鉱+鍛冶の人々が、やがて石を切る腕前も伸ばしたのでは❓🤔
→ 石上神宮(物部氏の武器庫)周辺でスタート
→ 石室技術とともに近江などへ進出
→ 中世の石垣名人「穴太衆(あのうしゅう)」につながったかもと言われている

🌟 雄略20年:高句麗が百済を伐って滅ぼす

🌟 雄略21年:天皇は百済の汶洲王(文周王)に久麻那利の地を与える
・・・久麻那利は任那(伽耶)内の支援拠点と解釈される

🌟 雄略22年:白髪皇子(第三皇子)を立太子
白髪皇子は生まれつき白髪で霊異とされ、末子ながら皇太子となった

🌟 雄略22年:浦嶋子(うらしまこ)伝説
丹波国与謝郡筒川(現在の京都府伊根町)に、水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)という人物がいた
→ 浦嶋子はう大きな亀を釣り上げると、亀は美しい女に姿を変えました
→ 浦嶋子は感激し、この女性を妻に迎えます
→ そして二人は連れ立って海の中に入り、伝説上の仙境である蓬莱山に至り、そこで不老不死の仙人たちの世界を歴訪
→ その詳しい物語は別の巻に譲る

🌟 雄略23年:百済の文斤王が薨去
→ そこで天皇は、以前から倭国にいた昆攴王の五人の子のうち、第二子である末多王に筑紫の兵500人をつけて帰国させ、東城王として即位させた
→ この年の百済から倭国への貢ぎ物(調庸)が通常よりも多かった
→ また、筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高句麗を討伐した

朝鮮半島
📌433年〜553年(第2次百済・新羅同盟)
高句麗の覇権拡大に対抗するため、新羅・百済が再び同盟を結ぶ
📌 475年に高句麗:第20代長寿王(413〜491年)の百済への攻撃
百済の首都漢城が陥落、百済:第21代蓋鹵王は戦死(百済滅亡にちかい)
→ 第22代文周王(475〜477年)が生き延び、新羅の助けにより熊津に遷都(百済再建)
→ 文周王が暗殺され、第23代三斤王(477〜479年)は在位3年で急死
日本にいた昆支王(蓋鹵王の弟/子?)の第二子: 第24代東城王(479年〜 501年)が即位
→ 東城王は📌493年新羅の王族と婚姻
→ 東城王は重臣に暗殺され第25代武寧王(502〜 523年)が即位
📌 500年:倭軍(日本)が新羅:長嶺鎮を落とす

🌟 雄略23年:大伴室屋大連・東漢掬直(都加使主)の両名に、星川皇子の性格を問題視し
皇太子(白髪皇子)を補佐するよに遺言する

🌟 雄略23年:崩御

雄略天皇が崩じた際、吉備尾代(きびのおしろ)は征新羅将軍として新羅へ遠征の途中に吉備の自邸に立ち寄る
→ 尾代に率いられていた500人の蝦夷たちは、雄略天皇が亡くなった事を知ると反乱を起こす
→ 尾代は苦戦しながらも、蝦夷たちを丹波国の浦掛水門(京都府京丹後市久美浜町浦明か?)でことごとく攻め殺した

第22代 清寧天皇(せいねい)

在位期間480年〜484年(享年41歳?)
皇居磐余甕栗宮(奈良県橿原市?)
陵墓伝承地河内坂門原陵(大阪府羽曳野市:白髪山古墳)
白髪(しらか)
和風諡号白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)
雄略天皇
葛城韓媛
系譜(特記事項)后妃・子女なし

星川皇子の乱
→ 星川皇子は磐城皇子(兄)が反対するのを聞かず、吉備稚媛(母)にそそのかされ反乱を起こし、大蔵を占領
→ 大伴室屋らが放火して星川皇子・稚媛・吉備上道兄君・城丘前来目らを焼き殺した
→ 河内三野県主小根は脱出し、草香部吉士漢彦に命乞いをして許され、田地を室屋と漢彦に贈与
吉備上道臣は40隻の船で兵を連れて助けに向かったが間に合わず引き返すが、山部を没収される

🔍 ひとこと:大蔵について
三蔵(内蔵・斎蔵・大蔵):ヤマト王権の財庫システム
▲内蔵:朝廷の私的財産
▲斎蔵:神事に使う祭などを保管
▲大蔵:全国からの貢納品
→ 雄略天皇のころ(5世紀後半)大蔵が設けられたと伝わる
→ 大量の絹を献上した秦酒公が大蔵の長官に任じられたとされる
蘇我満智(蘇我稲目の曽祖父)が雄略天皇から三蔵の総監督に任命された
→ 履中天皇の時代から阿知直(東漢氏の祖)が内蔵の出納を担当するなど、東漢氏は大蔵制度が整う前の段階から財政実務を担当する技能集団
『日本書紀』『新撰姓氏録』『古語拾遺』などに記録あり

🌟 清寧元年:平群真鳥を大臣・大伴室屋を大連にする

🌟 清寧2年:天皇は子どもがいないことを残念に思い、大伴室屋大連を国々に派遣して、白髪という名前のついた部:白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負(警護や雑務・料理係・武器係)を置かせた
→ 自分の名前を後の時代に残すためであった

🌟 清寧2年:播磨国司・伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて:山部連の祖)が、縮見屯倉首の新築祝いの宴に出席し、市辺押磐皇子(履中天皇の子)の遺児・億計王(兄)と弘計王(弟)を発見
→ 天皇は喜んで迎え入れた
🌟 清寧3年:億計王を皇太子、弘計王を皇子とした
『古事記』では、億計王(兄)と弘計王(弟)が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後

🔍 ひとこと:億計王(兄)と弘計王(弟)の逃避行
安康天皇3年(西暦456年)に市辺押磐皇子(父)が近江の蚊屋野で雄略皇子の命により殺害され、遺体は地面に埋められる
→億計王(兄)と弘計王(弟)は丹波国余社郡へ(現在の京都府宮津市あたり)
・・・日下部連使主とその息子・吾田彦が二王を密かに守る
→ 再逃亡: 播磨の縮見山の石室へ(現在の兵庫県三木市)
・・・日下部連使主は追っ手を恐れて自害
・・・二王は自害を知らないまま播磨国赤石郡(現在の明石市周辺)にむかう
→ 赤石郡・縮見屯倉にて偽名生活
・・・「丹波小子(たにはのわらは)」と名乗り、縮見屯倉首の使用人(牛や馬の飼育係)として暮らす
・・・吾田彦は引き続き忠実に仕える
→ 播磨に派遣された国司・小楯が、縮見屯倉首の新築祝いの宴に出席
・・・牛馬係(億計王と弘計王)に歌を詠ませたところ、弘計王(弟)が身分をほのめかす歌を詠む

🌟 清寧4年:天皇は囚徒と話し合い、この日に蝦夷・隼人は従うようになった

🌟 清寧5年:崩御

第23代 顕宗天皇(けんぞう)

在位期間485年~487年(享年38歳)
*享年は『古事記』よる
皇居近飛鳥八釣宮(奈良県高市郡明日香村)
*または大阪府羽曳野市飛鳥?
陵墓伝承地傍丘磐坏丘南陵(奈良県香芝市)
*築山古墳(奈良県大和高田市)
宮内庁が別に候補地として管理している
弘計(をけ)
来目稚子(くめのわくご)
市辺押磐皇子
✅荑媛(はえひめ)
皇后✅難波小野王(なにわのおののみ)
系譜(特記事項)子女無し

億計王と弘計王の兄弟は互いに譲り合い、飯豊皇女が政務を執った

🔍 ひとこと:飯豊皇女(いいとよのひめみこ)
→ 『日本書紀 清寧3年:角刺宮で夫と男女の交わりをなさったが「もうけっして男とまじわりたくない」と言われた』と書かれている
→ 空位の間(10箇月余り)一時政務を執った(484年~484年11月に亡くなる)
→ 女帝の先駆的存在(飯豊天皇とも呼ばれる)
→ 陵 :埴口丘陵(奈良県葛城市北花内:北花内大塚古墳)に治定されている
→ 忍海角刺宮(奈良県葛城市忍海)
→ 飯豊皇女は、億計王と弘計王の姉 or 叔母❓
▲『古事記』・『日本書紀:履中条』では叔母
→ 父:履中天皇 / 母:黒媛(葛城蟻臣の兄妹)
▲『日本書紀:顕宗条』では姉
→ 父:市辺押磐皇子 / 母:荑媛(葛城蟻臣の娘)
*近年の教科書・概説書は(姉説)を採ることが多い

飯豊皇女が亡くなったあともしばらく譲り合う
→ 最終的に億計王(兄:皇太子)が弘計王(弟)に皇位を譲る
→ 引き続き億計王(兄)が皇太子を務める
*皇太子が「天皇の兄」というのはこれ以外に例がない

✅母:荑媛(はえひめ)は、葛城蟻臣(葛城襲津彦の孫)の娘
→ 億計王(仁賢天皇)の母でもある

✅皇后:難波小野王は、磐城王の子:丘稚子(おかのわくご)の娘
・・・磐城王は磐城皇子(父親:雄略天皇・母:吉備稚媛)?
→ 皇太子であった頃の仁賢天皇に行った無礼な振舞いにより誅殺されることを恐れ、仁賢天皇2年に自害

🌟 顕宗元年:置目(おきめ:狹々城山君倭帒宿禰の妹)という老女の案内で市辺押磐皇子(父)の遺骨を探す
→ 頭骨を除いて一緒に殺害されて仲子(舎人)と区別出来なかったため、2つの陵を造った
→ 置目は宮中住まわせ、足腰が弱いのを気遣い宮中に縄を張り、縄に鐸を掛けて取り次ぎの係への手間を省かせた
→ 顕宗2年:進むことができなくなり、故郷に帰りたいと願ったので、天皇は物品を千段与えて歌を贈り近江の山へ帰した

🌟 顕宗元年:2王を発見した小楯を山官に任命して、山部連という氏名を与えた

🔍 ひとこと:狭々城山君(佐々木姓の源流?)
大彦命 (孝元天皇の皇子)を祖とする皇別氏族
阿倍氏の一流が近江(滋賀県)に拠点を移し「狭々城山君」と称した
▲ 狹々城山君韓帒宿禰は、雄略天皇が市辺押磐皇子を殺すときに手を貸したため山部連に隷属させた
▲ 狹々城山君倭帒宿禰だけは、置目(妹)の功績によっては狹々城山君の姓を与えられた

🌟 顕宗2年:父の仇である雄略天皇陵の破壊を試みたが兄に諫められ思いとどまった

🌟 顕宗3年:任那派遣中の阿閉臣事代(阿閉氏は阿倍氏と同様に大彦命の子孫)が高皇産霊(タカミムスビ:天地開闢の造化神)の子孫と名乗る「月神」の神託を受け、社地を求められる
→ 山城国葛野郡歌荒樔田に「月神」を祀り、壱岐縣主の先祖の押見宿禰(オシミノスクネ)に「月神」を祀らせた(月読神社の創建伝承

🌟 顕宗3年:「日神」が登場し、祖先:タカミムスビの名を出して阿閉臣事代に社地を請求
→ 磐余(大和)の田地14町を献上、祭祀は対馬の下県直が担当
→ 福草部(さきくさべ)を定める

🔍 ひとこと:「月神」と「日神」
一般に記紀神話では「日神:アマテラス」「月神:ツクヨミ(アマテラスの兄弟神)」として知られるが、ここでは「月神」と「日神」はタカミムスビの子孫
→ 信仰がちがう❓🤔

🌟 顕宗3年:崩御

任那に派遣された紀生磐宿禰は任那と結んで三韓支配を狙う
→ 百済と交戦の末に紀生磐宿禰は撤退
→ 百済は任那の関係者300人あまりを処刑

第24代 仁賢天皇(にんけん)

在位期間488年~498年(享年50歳ごろ?)
皇居石上広高宮(奈良県天理市)
陵墓伝承地埴生坂本陵(大阪府藤井寺市:ボケ山古墳)

他の天皇は諱字を記さないが、この天皇だけ記したのは旧本によったものですと書かれている
億計(おけ)
大脚(おおし)
大為(おおす)
市辺押磐皇子
荑媛
皇后✅春日大娘皇女(かすがのおおいらつめ)
✅糠君娘(ぬかきみのいらつめ)

✅皇后:春日大娘皇女(父親:雄略天皇・母:和珥童女君)
→ 和珥童女君が一夜で身ごもったことを不審に思い、認知せず育てなかったが、後に物部目大連が少女の容姿が天皇に似ていると進言し、娘を認知し母を妃とした
・・・和珥氏・春日氏の皇后の系統が第30代の敏達天皇まで続く
→ 子:手白香皇女(たしらかのひめみこ)は第26代継体天皇皇后、欽明天皇母
→ 子:橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)は第28代宣化天皇皇后、石姫皇女母
→ 子:小泊瀬稚鷦鷯尊(おばつせわかさざきのみこと、武烈天皇)

✅妃:糠君娘(ぬかきみのいらつめ)は和珥臣日爪の娘
→ 子:春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)は第27代安閑天皇の皇后

🌟 仁賢2年:難波小野皇后(顕宗天皇の皇后)が自殺
🌟 仁賢3年:石上部舎人(皇居地域の部民)を設置
🌟 仁賢4年:的臣蚊嶋と穗瓮君が獄で死ぬ
🌟 仁賢5年:佐伯部仲子を佐伯造とした
・・・佐伯部仲子:市辺押磐皇子(顕宗天皇・仁賢天皇の父)と一緒に雄略天皇に殺され穴に埋められた人物
・・・ 佐伯造:佐伯部(東国人の捕虜を編成して)を佐伯直や佐伯造といった在地の豪族が伴造として管掌
🌟 仁賢6年:日鷹吉士が高麗に派遣され
→ 須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)を連れてくる
→ 大倭国の山辺郡の額田邑(現在の奈良県大和郡額田部北町・寺町・南町)の熟皮高麗(かわおしのこま:高麗の皮革職能集団)はこれの子孫です

🔍 ひとこと:泣きじゃくる女性: 飽田女(あくため)の挿話
飽田女の夫:麁寸(あらき)が日鷹吉士に従って高句麗へ出発
・・・麁寸は「母にとっても兄」「私にとっても兄」
舞台:難波の港
嘆きを聞いた 鹿父(かかそ) が声をかける
→ 彼女は謎掛けのように「秋葱(あきぎ)の転双納を思ってください」と言う
→ 鹿父はすぐ意味を悟るが、友人が「何のこと?」と尋ねる
→ 鹿父の口から 飽田女の複雑な家系が語られる
→ だから「二重に絡まり合った葱の茎のように苦しんで泣いているのだ」と解説

玉作部鯽魚女(川関係の名前)と韓白水郎嘆(麦畑の名前)から生まれたのが哭女(泣き女)
→ 哭女(泣き女)は葬送儀礼の時に号泣する女性(現在でも韓国に職業として存在)

🌟 仁賢7年:小初瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)を立太子

🌟 仁賢11年:崩御

第25代 武烈天皇(ぶれつ)

『日本書紀』では、武烈天皇の異常な行為を多く記しているが、『古事記』には見られない

在位期間498年~506年(享年不詳)
(諸説:18歳説・57歳説)
皇居泊瀬列城宮(奈良県桜井市)
陵墓伝承地傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市)
*新山古墳(奈良県北葛城郡広陵町)
宮内庁が別に候補地として管理している
小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)
仁賢天皇
春日大娘皇女
皇后✅春日娘子(かすがのいらつめ)
系譜(特記事項)子女無し

仁賢天皇崩御した後、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が国政を牛耳る
→ 武烈天皇が影媛(かげひめ:物部麁鹿火大連の娘)を娶ろうとしたら、平群鮪(しび:平群真鳥の息子)に犯されていた
→ 海柘榴市(ツバキチ:現在の奈良県桜井市金屋)の✅歌垣(うたがき:男女が歌を交わして交流する場)で皇太子と鮪が歌で勝負
→ 歌の内容から鮪が影媛影媛を得たと分かり、大伴金村に命じて、鮪を奈良山で殺させました
→ その後、大伴大連が平群真鳥の宅を囲んで焼き殺す
→ 天皇は即位し、大伴金村連を大連にする
✅歌垣の場面は『古事記』では皇子も女も、全く別の設定になっている
→ 袁祁王(をけのみこ:顕宗天皇)が大魚(おうお:菟田首の娘)をめぐって、志毘臣(しびのおみ:平群臣の祖)と争った

🔍 ひとこと:角鹿の塩(日本で唯一呪われていない塩)
平群真鳥が処刑される直前に日本中の塩を呪って天皇が口にできないようとした
ところが 角鹿(つぬが:敦賀)の塩 だけ忘れた
▲ 角鹿の塩:天皇の食物
▲その他の塩: 御忌(おおみいみ)

✅皇后:春日娘子(父:未詳)和珥氏の女性?
→ 父が未詳の皇后は春日娘子一人だけ

🌟 武烈2年:妊婦の腹を割いて胎児を見る

🌟 武烈3年:生爪を抜いて芋を掘らせる

🌟 武烈3年:信濃国の男丁(小長谷部:武烈天皇の子代として設定された部民?)を集めて城上(きのへ:馬見丘陵?)を水派邑(奈良県河合町?)に作る

🌟 武烈3年:百済の意多郎が死に、高田丘上に葬る

🌟 武烈4年:人の髪を抜いて木に登らせて、木を切り、殺して楽しむ

🌟 武烈4年:百済の国民は末多王を捨てて嶋王(武寧王)を立てた

🌟 武烈5年:人を水路に入らせて、矛で刺し殺して楽しんだ

🌟 武烈6年:百済は麻那君を派遣して貢物を持ってきた
→ 天皇は使者を返さなかった

🌟 武烈7年:人を木に登らせて弓で射落して笑った

🌟 武烈7年:百済王は期我君を派遣して貢物を持ってきた
→ 麻那君(百済の王族ではない)と期我君(百済の王族)が入れ替わり、期我の子:法師君は倭君の先祖となる

🌟 武烈8年:崩御