朝鮮王朝の時代を描いたドラマを観ていて、「南人(ナミン)」「西人(ソイン)」、あるいは「老論(ノロン)」「少論(ソロン)」といった言葉が出てくるたびに、「なにそれ?」と思ったことはありませんか?
こうした派閥対立の大きな転換点となったのが、第14代王・宣祖の時代です。ここから、朝鮮王朝における長い党争の歴史が本格的に始まっていきます。
朝鮮王朝では、儒教を学んだ両班(ヤンバン)たちが派閥をつくり、政策や学説の違いをめぐって激しく争いました。これを朋党政治(朋黨政治)といいます。単なる権力争いではなく、「正しい儒教の解釈とは何か」という思想の対立が根底にあったため、どの派閥が主導権を握るかによって王妃が替わり、重臣が処刑され、さらには王が廃位されることもありました。
系図(人物関係を一目で)
第14代宣祖から第22代正祖までの系図を整理します。
前後の流れと派閥変遷フロー
宣祖以前の流れ
朋党政治が始まる前、朝鮮王朝の政権を握っていたのは勲旧派——建国や歴代のクーデターで功績を立てた古参の功臣たちでした。これに対して台頭してきたのが、地方で儒学を学んだ新興知識人層・士林派です(勲旧派 VS 士林派)。
16世紀、士林派は度重なる「士禍(サファ)」——権力者による大規模粛清——を乗り越えながら、第13代明宗の時代についに政権の中枢へ。しかしその直後、今度は士林派の内部で対立が生まれます。これが朋党政治の始まりです。
宣祖から正祖:派閥変換フロー
純祖以降——朋党政治から勢道政治へ
英祖・正祖が蕩平策で党争を抑えようとした努力も、正祖の死とともに終わりを迎えます。
第23代純祖(1800年即位)が幼くして即位すると、王妃の実家・安東金氏が国政を掌握。以降は「誰が王か」より「王妃の実家がどの家門か」が権力を決める勢道政治の時代に突入します。
安東金氏 → 豊壌趙氏 → 安東金氏と外戚が交代で権力を独占し、朝鮮王朝末期の腐敗と衰退を招いていきました。
各王と派閥の関係表
| 王 | 派閥との関係・特徴 |
|---|---|
| 第14代 宣祖 | 傍系出身で正統性が弱く、党争の温床に。士林派が東人・西人に分裂したのもこの時代 |
| 第15代 光海君 | 大北派に支えられ即位。中立外交を駆使するも、「庶子の王」という正統性の弱さが仇に |
| 第16代 仁祖 | 西人のクーデター(仁祖反正)で即位。傍系出身のうえクーデターによる即位で正統性は最も弱く、王権は不安定に |
| 第17代 孝宗 | 西人政権のもとで北伐を掲げるも実現せず。清への派兵で「北伐の夢」との矛盾を露わに |
| 第18代 顕宗 | 礼訟論争が2度勃発し西人・南人が激突。論争の決着と同年に崩御(享年33歳) |
| 第19代 粛宗 | 3度の換局で派閥を操り王権を強化。一方で景宗・英祖の母の出自が新たな政治の火種に |
| 第20代 景宗 | 母・張禧嬪(チャン・ヒビン)は中人出身で一時王妃に昇格後に処刑。老論(英祖派)vs 少論(景宗派)が激化 |
| 第21代 英祖 | 母・崔淑嬪(チェ・スクピン)は身分の低い女官出身。蕩平策で党争の抑制を試みるも、息子・思悼世子を米びつに閉じ込め死なせるという悲劇を招く |
| 第22代 正祖 | 英祖の蕩平策を継承しつつ、南人派や実学派を積極登用。志半ばで48歳で急死し、朋党政治を終わらせることはできなかった 正祖は「老論派を全員殺す」のではなく、「父を殺したことへの反省を拒む者(僻派)」を排除し、「王に従う者(時派)」を味方につけるという高度な政治を行いました。 |
