宣祖→光海君→仁祖→孝宗→顕宗→粛宗→景宗→英祖→正祖|トンイ・イ・サンの時代!系図と派閥争い早わかりガイド

朝鮮王朝の時代を描いたドラマを観ていて、「南人(ナミン)」「西人(ソイン)」、あるいは「老論(ノロン)」「少論(ソロン)」といった言葉が出てくるたびに、「なにそれ?」と思ったことはありませんか?

こうした派閥対立の大きな転換点となったのが、第14代王・宣祖の時代です。ここから、朝鮮王朝における長い党争の歴史が本格的に始まっていきます。

朝鮮王朝では、儒教を学んだ両班(ヤンバン)たちが派閥をつくり、政策や学説の違いをめぐって激しく争いました。これを朋党政治(朋黨政治)といいます。単なる権力争いではなく、「正しい儒教の解釈とは何か」という思想の対立が根底にあったため、どの派閥が主導権を握るかによって王妃が替わり、重臣が処刑され、さらには王が廃位されることもありました。

系図(人物関係を一目で)

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第14代宣祖から第22代正祖までの系図を整理します。

朝鮮王朝系図:第14代宣祖〜第22代正祖(イ・サンまでの流れ) 宣祖から正祖まで、王位継承の流れとドラマ対応を示す系図 第14代 宣祖 在位 1567〜1608 『王の顔』 『火の女神ジョンイ』 次男 八男 第15代 光海君 在位 1608〜1623 『華政』 『ポッサム』 ▲ 仁祖反正で廃位 定遠君 仁祖の父・即位せず 長男 第16代 仁祖 在位 1623〜1649 『天命の城』 『華政』後半 次男 第17代 孝宗 在位 1649〜1659 (北伐計画の王) 長男 第18代 顕宗 在位 1659〜1674 『馬医』 長男 第19代 粛宗 在位 1674〜1720 『トンイ』 『チャン・オクチョン』 側室 側室 張禧嬪 チャン・ヒビン 側室 → 一時王妃 → 処刑 崔淑嬪(トンイ) チェ・スクビン 側室・女官出身 長男 次男 第20代 景宗 在位 1720〜1724 母:張禧嬪(一時王妃) 第21代 英祖 在位 1724〜1776 母:崔淑嬪(トンイ) 次男 思悼世子 1762 壬午士禍(即位せず) ▲ 英祖に米びつへ閉じ込められ死去 長男 第22代 正祖 在位 1776〜1800 『イ・サン』 『ヘチ』

前後の流れと派閥変遷フロー

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宣祖以前の流れ

朋党政治が始まる前、朝鮮王朝の政権を握っていたのは勲旧派——建国や歴代のクーデターで功績を立てた古参の功臣たちでした。これに対して台頭してきたのが、地方で儒学を学んだ新興知識人層・士林派です(勲旧派 VS 士林派)。
16世紀、士林派は度重なる「士禍(サファ)」——権力者による大規模粛清——を乗り越えながら、第13代明宗の時代についに政権の中枢へ。しかしその直後、今度は士林派の内部で対立が生まれます。これが朋党政治の始まりです。

宣祖から正祖:派閥変換フロー

朝鮮王朝 朋党政治 派閥の変遷フロー 宣祖から英祖・正祖までの派閥変遷を示すフローチャート 士林派が政権を掌握 宣祖即位(1567) 分裂 東人 改革派 西人 保守派 分裂 北人 光海君支持 南人 永昌大君支持 分裂 大北 光海君派 小北 永昌大君派 仁祖反正(1623) 西人がクーデター 消滅 消滅 礼訟論争(顕宗の時代) 南人が台頭 南人 禧嬪張氏支持 西人 仁顕王后支持 3度の換局(粛宗の時代) 南人が退場 西人が分裂 老論 英祖派 少論 景宗派 💡 蕩平策(英祖) 老論・少論を均等に登用 ⚔ 壬午士禍(思悼世子の死) 老論強硬派との対立が深まる 🔥 正祖の改革(1776〜) 父を陥れた老論僻派を粛清 蕩平策を継承し、改革を推進 老論は、思悼世子の死は悲劇であり改革を支持する時派(シパ)と処刑は正当として対立する僻派(ピョッパ)に分裂。

純祖以降——朋党政治から勢道政治へ

英祖・正祖が蕩平策で党争を抑えようとした努力も、正祖の死とともに終わりを迎えます。
第23代純祖(1800年即位)が幼くして即位すると、王妃の実家・安東金氏が国政を掌握。以降は「誰が王か」より「王妃の実家がどの家門か」が権力を決める勢道政治の時代に突入します。
安東金氏 → 豊壌趙氏 → 安東金氏と外戚が交代で権力を独占し、朝鮮王朝末期の腐敗と衰退を招いていきました。

各王と派閥の関係表

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派閥との関係・特徴
第14代 宣祖 傍系出身で正統性が弱く、党争の温床に。士林派が東人・西人に分裂したのもこの時代
第15代 光海君 大北派に支えられ即位。中立外交を駆使するも、「庶子の王」という正統性の弱さが仇に
第16代 仁祖 西人のクーデター(仁祖反正)で即位。傍系出身のうえクーデターによる即位で正統性は最も弱く、王権は不安定に
第17代 孝宗 西人政権のもとで北伐を掲げるも実現せず。清への派兵で「北伐の夢」との矛盾を露わに
第18代 顕宗 礼訟論争が2度勃発し西人・南人が激突。論争の決着と同年に崩御(享年33歳)
第19代 粛宗 3度の換局で派閥を操り王権を強化。一方で景宗・英祖の母の出自が新たな政治の火種に
第20代 景宗 母・張禧嬪(チャン・ヒビン)は中人出身で一時王妃に昇格後に処刑。老論(英祖派)vs 少論(景宗派)が激化
第21代 英祖 母・崔淑嬪(チェ・スクピン)は身分の低い女官出身。蕩平策で党争の抑制を試みるも、息子・思悼世子を米びつに閉じ込め死なせるという悲劇を招く
第22代 正祖 英祖の蕩平策を継承しつつ、南人派や実学派を積極登用。志半ばで48歳で急死し、朋党政治を終わらせることはできなかった
正祖は「老論派を全員殺す」のではなく、「父を殺したことへの反省を拒む者(僻派)」を排除し、「王に従う者(時派)」を味方につけるという高度な政治を行いました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
おつかれさまでした 🍵

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