三国志|三国期を記す正史(魏・蜀・呉)

中国の正史の一つ。西晋期に陳壽が編纂し、魏・蜀・呉の人物史料を中心に三国期(概ね184–280年)を「紀伝体」で整理。体系的な制度志は欠き、後代の裴松之注(429–430年)が大量の引用で本文を補う。

基本情報

対象年代おおむね 184年(黄巾の乱)〜280年(西晋による統一) を主射程とする人物中心の史書。必要に応じて後漢末・西晋初の周辺まで及ぶ。
成立時期西晋期(概ね280–297年 ±数年)。陳壽の没年(297)までに大枠が整い、現行形は裴松之の注(429–430年)で大幅に補強された。
編者陳壽(233–297)。蜀出身。西晋で史官に就き、蜀・魏・呉の資料を渉猟して編纂。政治的配慮と実録性のバランスを取りつつ、人物伝記を核に要点を凝縮した。

体裁・構成

紀伝体(魏書・蜀書・呉書)魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻。各国の皇帝紀・列伝(群臣・周辺ポリティ)で構成。
外国・周辺記事魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」に周辺諸国を収録(いわゆる魏志倭人伝はこの一部)。帯方(代表点)からの「循海岸水行」記述はここに見える。
制度志の欠如陳壽本体に体系的な「志(制度・礼楽・地理など)」編はない。制度面の深掘りは他書・後代注で補う。

該当巻の例

『三国志』魏書(公孫氏列伝)

公孫康が帯方郡を新設して楽浪南部を再編し、淵は魏に背いて238年に滅亡、東北縁秩序の転換点となった。

⤴︎ 公孫康(こうそんこう)

『三国志』魏書(公孫氏列伝)/『晋書』宣帝紀

237年、公孫淵は「燕王」を自称して半独立化。魏・呉との外交を反復した末、東北縁の秩序不安を招く。238年、司馬懿が遼東を電撃攻略し、襄平を陥落。公孫淵は捕縛・誅殺され、公孫氏三代の政権は終わった。

⤴︎ 公孫淵(こうそんえん)

『三国志』魏書(明帝紀・公孫氏列伝)/ 『晋書』巻一「宣帝紀」

238年、司馬懿は遼東で公孫淵を討ち(襄平陥落)、魏の東北秩序を再編。249年「高平陵政変」で曹爽政権を排し、実権を掌握。のちの晋建国の地ならしとなる。

⤴︎ 司馬懿(しばい)

『三国志』魏書「烏丸鮮卑東夷伝(倭人条)」

239年、倭は帯方経由で魏に遣使して詔書と印綬を受け冊封秩序に編入され、248年ごろ卑弥呼の死後に生じた内乱は少女の壹与を共立して収められた。
※後代整理:『晋書』地理志/『梁書』。

⤴︎ 卑弥呼(ひみこ)

『三国志』魏書「毌丘倹伝」「高句麗条(東夷伝)」

高句麗遠征(丸都城、244):魏軍を率いて丸都城を陥落。高句麗は東方へ退避し、東北縁の秩序が大きく転換。

毌丘倹・文欽の乱(255):司馬氏政権に反旗を翻すも敗死。魏の中枢は司馬氏への権力集中が確定。

⤴︎ 毌丘倹(かんきゅうけん)

『三国史記』高句麗本紀(東川王条)/『三国志』魏書「東夷伝・高句麗」

244年、魏の遠征で丸都城が陥落、高句麗の東川王は東方へ退避。国力は一時的に後退、体制再建を開始。東部動員と拠点整理で持久の態勢を整える。

⤴︎ 東川王(とうせんおう)

主な注釈

  • 裴松之注(429–430):膨大な佚書引用(『魏略』『江表伝』ほか)で本文を補い、叙述の空白や異説を可視化。
  • 盧弼『三国志集解』(近代):注釈と校勘・出典整理を集成(研究用の導入口)。

よくある誤解と注意

  • 『三国志演義』=『三国志』ではない → 演義は明代の歴史小説。正史の叙述(年次・人物評価)は異なる。
  • 「循海岸水行」は外洋横断を意味しない → 沿岸の分段中継=沿岸航行の意。地名や日数は里数換算・陸行混在に注意。
  • 地名比定は一義でない → 「帯方」「末盧」等は時期で行政域が動く。比定は複数案が並立し得る。

参考資料