第14代宣祖から第19代粛宗までの系図・時代背景の概要・年表・ドラマ対応表で整理します。
『トンイ』の主人公・崔淑嬪(チェ・スクビン)は第19代粛宗の側室で、第21代英祖の生母です。
系図(人物関係を一目で)
第14代宣祖
├ 第15代光海君
│ 宣祖の次男
│
└ 定遠君(仁祖の父)
│宣祖の八男
│
└ 第16代仁祖
│ 光海君の甥
│
└ 第17代孝宗
│仁祖の次男
│
└ 第18代顕宗
│ 孝宗の長男
│
└ 第19代粛宗
│ 顕宗の長男
│
├ 第20代景宗
│ 粛宗の長男
│
└ 第21代英祖
粛宗の次男
第20代景宗の母は張禧嬪(チャン・ヒビン)
第21代英祖の母はトンイの主人公(崔淑嬪)
第13代明宗の一人の息子・順懐世子が早世し、直系の後継ぎが不在となり、傍系の王族から選ばれたのが宣祖です。
宣祖は、父が第11代中宗の側室の子という傍系から初めて王になった人物で、その後は庶子の光海君が即位しました。
仁祖も傍系出身でクーデターで王位に就き、この「正統性の問題」が党争を激しくし、王権は不安定に。
一方、粛宗は派閥を入れ替える「換局」で王権を強めますが、その子
景宗の母は張禧嬪(一時は王妃→降格、中人出身(通訳官の家系)説あり)
英祖の母は崔淑嬪(側室、身分の低い女官出身とされる)で、母の出自が政治の争点にもなりました。
時代背景の概要
第14代宣祖の時代、豊臣秀吉の侵攻(壬辰倭乱)で国土が荒れ、王は首都を離れて避難し、王権への不信を招きました。
さらに中国大陸では明と後金(のち清)が対立し、朝鮮はどちらにつくかで党争が激化。
派閥は儒教の名分を掲げ、政敵排除やクーデターを正当化し、王位継承や政策はたびたび派閥闘争に左右されました。
第16代仁祖の時代にはクーデターや清の侵攻で再び王が首都を離れて避難、南漢山城での籠城の末、屈辱的に降伏して清への臣従を受け入れます。
派閥が政治の主導権を握り、王権は弱体化しました。
しかし第19代粛宗は「換局」と呼ばれる派閥交代を繰り返して主導権を取り戻し、王権を強化。
政治の舞台は西人内部の老論・少論の争いへと移っていきます。
この粛宗の時代、側室の崔淑嬪(トンイ)が登場、第21代英祖の生母です。
余談ですが😅
第21代英祖の時代には、衝撃的な「米びつ餓死事件」が起きました。
英祖は、精神を病み奇行を繰り返した息子思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込め、8日後に餓死させます。
この思悼世子は、第22代正祖の父。
正祖は、第4代世宗(ハングルを作った王)と並ぶ名君とされ、ドラマ『イ・サン』の主人公としても知られています。
もっと詳しく(年表・派閥の変遷)
第14代 宣祖(ソンジョ) 在位:1567〜1608 📌1592年〜1598年:壬辰倭乱(文禄・慶長の役) 豊臣秀吉が朝鮮に侵攻 明の援軍を受けつつも戦場は全国に広がり、国土は荒廃 📌1601年に正妃・懿仁王后が崩御、翌1602年に仁穆王后(インモクワンフ)を迎える 📌1606年に嫡子・永昌大君(ヨンチャンデグン)が誕生 これにより王位継承問題が再燃 📌1608年に崩御(享年56歳) |
第15代 光海君(クァンヘグン) 在位:1608〜1623 📌1613年:癸丑獄事 大北派(光海君側)が小北派(永昌大君側)を粛清 仁穆王后の父・金悌男(キム・ジェナム)らを処刑 永昌大君が翌年(1614年)流配先で死去 📌1618年:仁穆王后を「廃母」扱いで西宮に幽閉(クーデターの大義名分に) 📌1619年:サルフの戦い 明の要請で朝鮮軍を派遣するも姜弘立(カン・ホンリプ)の軍が大敗・降伏 後金(のち清)と講和し再戦を回避 📌1623年:仁祖反正 西人派が仁祖を担ぎクーデターを決起 光海君を廃位され、18年後に流刑地の済州島で死去(享年66歳) |
第16代 仁祖(インジョ) 在位:1623〜649 📌 1623年:仁祖反正で即位 中国(明)の味方をする方針に転換 📌 1624年:李适(イ・グァル)の乱 仁祖反正に不満を持つ軍人の反乱、一時漢陽(ソウル)を占拠される 📌 1627年:丁卯胡乱 後金(のち清)が朝鮮に侵攻、「兄弟国」として講和 📌 1636年:丙子胡乱 後金(のち清)が再び侵攻し、南漢山城で仁祖は降伏 三田渡(サムジョンド)で屈辱的な降伏式、「臣下」として扱いを受け入れる 王子2人(昭顕世子・鳳林大君)が清へ人質として送られる 📌 1644年:明が滅亡、清が中国本土を支配 同年、清から帰国した昭顕世子が急死(毒殺説あり) 後継は弟の鳳林大君(のちの孝宗)に変更 📌 1649年:崩御(享年54歳) |
第17代 孝宗(ヒョジョン) 在位:1649〜1659 北伐計画(北方(清)への出兵計画)を推進 清からの独立回復を目指し、明の遺臣や反清勢力と連携を模索 → 実行には至らず 📌1654年・1658年:清の要請でロシア勢力討伐に朝鮮軍を派兵(ナヒョン河の戦い・アルバジン遠征) → 結果として清との従属関係が強化される 📌 1659年:崩御(享年41歳) |
第18代 顕宗(ヒョンジョン) 在位:1659〜1674 即位早々、孝宗の継母・慈懿大妃が喪に服す期間をめぐって派閥闘争 📌 1659年:第一次礼訟論争(孝宗の喪):西人派勝利 📌 1674年:第二次礼訟論争(顕宗の母・仁宣王后の喪):南人派勝利 📌 1674年:崩御(享年33) |
第19代 粛宗(スクチョン) 在位:1674〜1720 派閥を入れ替える「換局」で王権を強化 📌 1680年:庚申換局:南人→西人への政権交代 📌 1682〜1684年:西人が老論と少論に分裂 📌 1689 己巳換局:仁顕王后を廃位/張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に 西人→南人への政権交代 📌 1694 甲戌換局:仁顕王后が復位/張禧嬪は降格 南人→西人への政権交代 📌 1701:仁顕王后病没、呪詛事件で張禧嬪を処刑 → 南人は政権中枢に戻れず 📌 1718年:世子(のち景宗)の代理聴政開始 📌 1720年:崩御(享年60) |
宣祖〜粛宗までの派閥の変遷
宣祖以前:士林派(新興儒学派)vs 勲旧派(古参功臣層)
政権は士林派へ
*士林派が 東人(改革)・西人(保守)に分裂
宣祖の時代:東人 vs 西人
*東人が北人・南人に分裂
*北人が大北(光海君派)・小北(永昌大君派)に分裂
宣祖の晩年:西人 vs 大北 vs 小北
光海君が即位 → 小北退場
西人が仁祖を担ぎクーデター → 大北退場
顕宗の時代の礼訟論争で南人台頭
粛宗の時代:西人vs 南人
*西人が分裂 → 老論・少論
甲戌換局で西人勝利 → 南人退場
粛宗末〜: 老論(英祖派)vs 少論(景宗派)
余談ですが、第23代純祖以降は、王妃の実家が国政を牛耳る勢道政治で「金氏 or 趙氏」の時代に
主なドラマや映画(リスト)
各時代に対応する作品一覧
- 宣祖の時代
- 『王の女』(序盤:光海君メイン)
- 『王の顔』(序盤:光海君メイン)
- 『火の女神ジョンイ』
- 『ホジュン〜伝説の心医』
- 光海君の時代
- 『華政(ファジョン)』
- 『ポッサム』
- 『王になった男』(架空設定)
- 『代立軍 ウォリアーズ・オブ・ドーン』(映画)
- 仁祖の時代
- 『華政(ファジョン)』後半
- 『花たちの戦い -宮廷残酷史-』
- 『イルジメ〜一枝梅』
- 『三銃士』(架空設定)
- 『天命の城』(映画)
- 『梟-フクロウ-』(映画)
- 孝宗の時代
- 『華政(ファジョン)』終盤
- 顕宗の時代
- 『馬医』
- 粛宗の時代
- 『トンイ』
- 『チャン・オクチョン』