宣祖→光海君→仁祖→孝宗→顕宗→粛宗|トンイまでの流れを3分解説

第14代宣祖から第19代粛宗までの系図・時代背景の概要・年表・ドラマ対応表で整理します。

『トンイ』の主人公・崔淑嬪(チェ・スクビン)は第19代粛宗の側室で、第21代英祖の生母です。

目次
  1. 系図(人物関係を一目で)
  2. 時代背景の概要
  3. もっと詳しく(年表・派閥の変遷)
  4. 主なドラマや映画(リスト)

系図(人物関係を一目で)

第14代宣祖
├ 第15代光海君
│ 宣祖の次男

└ 定遠君(仁祖の父)
│宣祖の八男

└ 第16代仁祖
│ 光海君の甥

└ 第17代孝宗
│仁祖の次男

└ 第18代顕宗
│ 孝宗の長男

└ 第19代粛宗
│ 顕宗の長男

├ 第20代景宗
│ 粛宗の長男

└ 第21代英祖
粛宗の次男

第20代景宗の母は張禧嬪(チャン・ヒビン)
第21代英祖の母はトンイの主人公(崔淑嬪)

第13代明宗の一人の息子・順懐世子が早世し、直系の後継ぎが不在となり、傍系の王族から選ばれたのが宣祖です。

宣祖は、父が第11代中宗の側室の子という傍系から初めて王になった人物で、その後は庶子の光海君が即位しました。

仁祖も傍系出身でクーデターで王位に就き、この「正統性の問題」が党争を激しくし、王権は不安定に。

一方、粛宗は派閥を入れ替える「換局」で王権を強めますが、その子
景宗の母は張禧嬪(一時は王妃→降格、中人出身(通訳官の家系)説あり)
英祖の母は崔淑嬪(側室、身分の低い女官出身とされる)で、母の出自が政治の争点にもなりました。

時代背景の概要

第14代宣祖の時代、豊臣秀吉の侵攻(壬辰倭乱)で国土が荒れ、王は首都を離れて避難し、王権への不信を招きました。

さらに中国大陸では明と後金(のち清)が対立し、朝鮮はどちらにつくかで党争が激化。
派閥は儒教の名分を掲げ、政敵排除やクーデターを正当化し、王位継承や政策はたびたび派閥闘争に左右されました。

第16代仁祖の時代にはクーデターや清の侵攻で再び王が首都を離れて避難、南漢山城での籠城の末、屈辱的に降伏して清への臣従を受け入れます。
派閥が政治の主導権を握り、王権は弱体化しました。

しかし第19代粛宗は「換局」と呼ばれる派閥交代を繰り返して主導権を取り戻し、王権を強化。
政治の舞台は西人内部の老論・少論の争いへと移っていきます。

この粛宗の時代、側室の崔淑嬪(トンイ)が登場、第21代英祖の生母です。

余談ですが😅
第21代英祖の時代には、衝撃的な「米びつ餓死事件」が起きました。
英祖は、精神を病み奇行を繰り返した息子思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込め、8日後に餓死させます。
この思悼世子は、第22代正祖の父。
正祖は、第4代世宗(ハングルを作った王)と並ぶ名君とされ、ドラマ『イ・サン』の主人公としても知られています。

もっと詳しく(年表・派閥の変遷)

第14代 宣祖(ソンジョ)
在位:1567〜1608

📌1592年〜1598年:壬辰倭乱(文禄・慶長の役)
豊臣秀吉が朝鮮に侵攻
明の援軍を受けつつも戦場は全国に広がり、国土は荒廃

📌1601年に正妃・懿仁王后が崩御、翌1602年に仁穆王后(インモクワンフ)を迎える
📌1606年に嫡子・永昌大君(ヨンチャンデグン)が誕生
これにより王位継承問題が再燃

📌1608年に崩御(享年56歳)
第15代 光海君(クァンヘグン)
在位:1608〜1623

📌1613年:癸丑獄事
大北派(光海君側)が小北派(永昌大君側)を粛清
仁穆王后の父・金悌男(キム・ジェナム)らを処刑
永昌大君が翌年(1614年)流配先で死去

📌1618年:仁穆王后を「廃母」扱いで西宮に幽閉(クーデターの大義名分に)

📌1619年:サルフの戦い
明の要請で朝鮮軍を派遣するも姜弘立(カン・ホンリプ)の軍が大敗・降伏
後金(のち清)と講和し再戦を回避

📌1623年:仁祖反正
西人派が仁祖を担ぎクーデターを決起
光海君を廃位され、18年後に流刑地の済州島で死去(享年66歳)
第16代 仁祖(インジョ)
在位:1623〜649

📌 1623年:仁祖反正で即位
中国(明)の味方をする方針に転換

📌 1624年:李适(イ・グァル)の乱
仁祖反正に不満を持つ軍人の反乱、一時漢陽(ソウル)を占拠される
📌 1627年:丁卯胡乱
後金(のち清)が朝鮮に侵攻、「兄弟国」として講和
📌 1636年:丙子胡乱
後金(のち清)が再び侵攻し、南漢山城で仁祖は降伏
三田渡(サムジョンド)で屈辱的な降伏式、「臣下」として扱いを受け入れる
王子2人(昭顕世子・鳳林大君)が清へ人質として送られる

📌 1644年:明が滅亡、清が中国本土を支配
同年、清から帰国した昭顕世子が急死(毒殺説あり)
後継は弟の鳳林大君(のちの孝宗)に変更

📌 1649年:崩御(享年54歳)
第17代 孝宗(ヒョジョン)
在位:1649〜1659

北伐計画(北方(清)への出兵計画)を推進
清からの独立回復を目指し、明の遺臣や反清勢力と連携を模索
実行には至らず
📌1654年・1658年:清の要請でロシア勢力討伐に朝鮮軍を派兵(ナヒョン河の戦い・アルバジン遠征)
→ 結果として清との従属関係が強化される

📌 1659年:崩御(享年41歳)
第18代 顕宗(ヒョンジョン)
在位:1659〜1674

即位早々、孝宗の継母・慈懿大妃が喪に服す期間をめぐって派閥闘争
📌 1659年:第一次礼訟論争(孝宗の喪):西人派勝利
📌 1674年:第二次礼訟論争(顕宗の母・仁宣王后の喪):南人派勝利

📌 1674年:崩御(享年33)
第19代 粛宗(スクチョン)
在位:1674〜1720

派閥を入れ替える「換局」王権を強化

📌 1680年:庚申換局:南人→西人への政権交代
📌 1682〜1684年:西人が老論と少論に分裂

📌 1689 己巳換局:仁顕王后を廃位/張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に
西人→南人への政権交代

📌 1694 甲戌換局:仁顕王后が復位/張禧嬪は降格
南人→西人への政権交代
📌 1701:仁顕王后病没、呪詛事件で張禧嬪を処刑 → 南人は政権中枢に戻れず

📌 1718年:世子(のち景宗)の代理聴政開始
📌 1720年:崩御(享年60)

宣祖〜粛宗までの派閥の変遷

宣祖以前:士林派(新興儒学派)vs 勲旧派(古参功臣層)
政権は士林派へ

*士林派が 東人(改革)・西人(保守)に分裂
宣祖の時代:東人 vs 西人

*東人が北人・南人に分裂

*北人が大北(光海君派)・小北(永昌大君派)に分裂
宣祖の晩年:西人 vs 大北 vs 小北

光海君が即位 → 小北退場
西人が仁祖を担ぎクーデター → 大北退場

顕宗の時代の礼訟論争で南人台頭
粛宗の時代:西人vs 南人

*西人が分裂 → 老論・少論
甲戌換局で西人勝利 → 南人退場

粛宗末〜: 老論(英祖派)vs 少論(景宗派)

余談ですが、第23代純祖以降は、王妃の実家が国政を牛耳る勢道政治で「金氏 or 趙氏」の時代に

主なドラマや映画(リスト)

各時代に対応する作品一覧

  • 宣祖の時代
    • 『王の女』(序盤:光海君メイン)
    • 『王の顔』(序盤:光海君メイン)
    • 『火の女神ジョンイ』
    • 『ホジュン〜伝説の心医』
  • 光海君の時代
    • 『華政(ファジョン)』
    • 『ポッサム』
    • 『王になった男』(架空設定)
    • 『代立軍 ウォリアーズ・オブ・ドーン』(映画)
  • 仁祖の時代
    • 『華政(ファジョン)』後半
    • 『花たちの戦い -宮廷残酷史-』
    • 『イルジメ〜一枝梅』
    • 『三銃士』(架空設定)
    • 『天命の城』(映画)
    • 『梟-フクロウ-』(映画)
  • 孝宗の時代
    • 『華政(ファジョン)』終盤
  • 顕宗の時代
    • 『馬医』
  • 粛宗の時代
    • 『トンイ』
    • 『チャン・オクチョン』