好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

「謎の4世紀」に何があったのか──富雄丸山古墳と、海を渡った鉄の話

長さ、2メートル37センチ。

奈良市の住宅街のはずれにある丘から、そんな鉄の剣が出てきました。それまで日本で見つかっていた同じ種類の剣で、いちばん長いものが84.6センチ。いきなり3倍近い記録が出たわけです。

しかも刃は、まっすぐではありません。蛇がうねるように、6回も曲がっています。

誰が、なんのために、こんなものを地面に埋めたのか。そしてこの剣の材料になった鉄は、いったいどこから来たのか。

答えを探していくと、話は海の向こうまで届きます。

このブログでは以前、弥生時代の日本と金海(キメ)が鉄でつながっていた話と、5世紀に伽耶の技術者たちが海を渡ってきた話を書きました。

狗邪韓国とは? 弥生時代の日本と金海を結んだ海の玄関口「弥生時代」と聞くと、稲作、銅鐸、卑弥呼あたりが浮かびます。「金海(キメ)」と聞くと、韓国の空港がある街、くらいでしょうか。 この二つ、実はまったく別の話ではあ… 須恵器も馬も、大阪から広がった──伽耶の技術者が5世紀に渡ってきた話以前、韓国の金海(キメ)にある国立金海博物館で、金官加耶(きんかんかや)という古代国家の展示をじっくり見てきました。鉄と焼き物で栄えた国です。 展示のなかに、金…

弥生時代は、およそ3世紀まで。技術者がやってくるのは5世紀。
その間の4世紀は、中国の歴史書に日本列島の記録がほとんど残っておらず、「謎の4世紀」と呼ばれています。

この記事は、その空白の時代の話です。
前半で「わかっていること」を並べ、後半で、これまでの2つの記事を土台に「そこから何が考えられるか」を推理していきます。

第1部:わかっていること

① 日本最大の円墳、富雄丸山

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)。奈良市の西のはし、富雄川を見下ろす丘の上にあります。

数字で並べると、こうなります。

  • つくられた時期:4世紀の後半(今から約1600年前)
  • かたち:円墳(まんまるい古墳)
  • 大きさ:直径109メートル
  • つくり:3段の階段状/表面には葺石(ふきいし)/まわりには埴輪

直径109メートルというのは、円墳としては日本一です。サッカーコートの横幅がすっぽり収まると考えるとイメージしやすいかもしれません。

ここでひとつ、覚えておいてほしい言葉があります。

「造出し(つくりだし)」

まんまるの墳丘の北東側に、ぽこっと張り出した部分があります。家でいえば玄関ポーチのような出っぱりで、お祭りやお供えをするための場所だったと考えられています。

主人公が眠るのは、あくまで丘のてっぺん。造出しは、その脇。

——この「脇」から、とんでもないものが出てきました。

② 未盗掘の棺から出てきたもの【一覧】

丘のてっぺん(主人公の墓)は、明治時代に盗掘に遭っています。中身はほとんど持ち去られました。

ところが造出しの埋葬施設は、誰にも掘られていませんでした。1600年前に置かれたままの姿で見つかったのです。

出てきたものを、置かれていた場所ごとに並べます。

場所出てきたものメモ
棺の外・粘土の中蛇行剣(だこうけん)刃の長さ237cm/全長 約285cm。古代東アジア最大の鉄剣
棺の外・粘土の中鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)長さ64cm・幅31cm。盾のかたちの鏡。世界に類例なし
棺の中・主室竪櫛(たてぐし)9点、水銀朱遺体のそばに赤い顔料が散らされていた
棺の中・副室1号鏡:三角縁神獣鏡直径21cm/961g
棺の中・副室2号鏡:虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)直径約19cm/844g
棺の中・副室3号鏡:画像鏡(がぞうきょう)直径19.6cm/673g

3枚の鏡は、鏡の面を上に向けて、重ねて置かれていました。

棺そのものも見ものです。木を竹のように縦割りにした「割竹形木棺(わりたけがたもっかん)」で、内部は2枚の仕切板によって3つの部屋に分けられていました。真ん中に遺体、その両脇が副葬品用の小部屋、という構造です。

ここまでが、まぎれもない事実の部分。

次から、この一覧をじっと眺めると見えてくる「おかしなこと」の話に入ります。

③ 鏡3枚の年代が、バラバラすぎる

棺の中から出てきた3枚の鏡を、つくられた順に並べ替えてみます。ここに、この記事のいちばんの驚きがあります。

  • 2号鏡(虺龍文鏡)……紀元前1世紀の末〜1世紀の初め頃/前漢〜新の時代
  • 3号鏡(画像鏡)……2世紀末〜3世紀前半/後漢の時代
  • 1号鏡(三角縁神獣鏡)……3世紀の中ごろ/魏の時代

そして、この古墳がつくられたのは4世紀の後半。

もう一度、いちばん古い2号鏡を見てください。つくられてから土に埋められるまで、最大でおよそ400年あいています。

400年というのは、江戸時代のはじめから今日までとほぼ同じ長さです。関ヶ原の頃につくられた鏡を、令和の私たちがお棺に入れてもらう——そんな感覚です。

つまりこの3枚は、「まとめて買ってきた新品」ではありません。何世代にもわたって受け継がれ、大事に持ち伝えられてきた家の宝だったと考えられます。

この鏡は、どこを通って来たのか

3枚とも中国製です。日本でつくられたものではありません。

なかでも2号鏡がすごい。虺龍文鏡はふつう直径10センチ前後なのですが、これは19センチもあって、国内で知られる同種の鏡のなかで最大。しかもこの特異な大型タイプは、中国国内だけでなく、ウズベキスタンやロシアの南西部でも出土しています。

ウズベキスタンと奈良に、同じ型の鏡がある。

当時の日本列島が、ユーラシアの広い交流網の端っこにつながっていたことを物語ります。

そして——中国大陸から日本列島へモノが渡ってくるとき、必ず通る場所があります。

朝鮮半島です。

④ 2メートル37センチの鉄剣

ここで剣に戻ります。

この蛇行剣、実は武器として使うためのものではありません。材料の鉄を分析すると炭素の量が少なく、武器としての実用性はなかったことがわかっています。振り回せば折れます。

では、なんのために作ったのか。

答えは単純です。見せるためです。蛇行する異様な形そのものに、魔を払うような呪術的な力を託し、さらに、これほど大量の鉄を使えること自体を示す

言うなれば、金の延べ棒を溶かして2メートル半の飾りを作り、そのまま墓に入れたようなものです——4世紀の倭にとって、鉄は金に匹敵する貴重品だったからです。

AD – 読み進める前のひとやすみ

第2部:ここから考察

ここから先は、出土品という「証拠」をもとにした推理です。以前書いた弥生時代の記事と、5世紀の技術移転の記事を下敷きにしながら、考えてみます。

⑤ この鉄は、どこから来たのか

まず思い出したいのが、3世紀末ごろ、中国で編纂された歴史書『三国志』の記述です。弥生の記事でも紹介しました。要約するとこうです。

弁辰(べんしん)では鉄が採れる。韓も濊(わい)も倭も、みなここへ来て手に入れていく。市場での売り買いにはすべて鉄を使い、それは中国で銭を使うのと同じである。

弁辰の中心のひとつが、金海。のちの金官伽耶です。

そして日本列島で製鉄——砂鉄や鉄鉱石から鉄そのものを取り出すこと——が本格的に始まるのは、6世紀後半ごろと考えられています。つまり4世紀の倭も、弥生時代と同じく「鉄を買う側」でした

以前の記事で使ったたとえをもう一度出すと、食材はすべて輸入で、キッチンだけが国内にあった状態です。

そこに、刃だけで237センチの鉄剣です。

これだけの長さをひとふりに注ぎ込むには、板状の鉄素材(鉄鋌・てってい)が大量に必要です。しかも実用にならないと分かっていて作っている。つまりこの剣は——

剣の記録である前に、輸入の記録です。

弥生時代に開かれた「鉄の道」。対馬・壱岐の飛び石を伝い、命がけで海を渡って続いてきたあの道が、4世紀にも途切れることなく続いていた。それどころか、237センチ分の鉄を一つの祭具に使えるほど、太くなっていた

富雄丸山の蛇行剣は、その到達点を示す物差しなのだと思います。

なお、これほどの長さの剣を歪みなく鍛え上げるのは相当な高等技術です。素材だけでなく、鍛冶の手そのものに渡来系の職人が関わっていた可能性もじゅうぶんにあります。

同じころ、海の向こうでも「戦えない鉄の刃」がつくられていた

奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わる国宝、七支刀(しちしとう)。これもまた、単純な「戦うための武器」ではありません。

刀身の左右から3本ずつ、互い違いに枝が伸びた、木のようなかたち。金で象嵌された銘文から、369年に百済(くだら)でつくられ、倭王に贈られたものと考えられています。富雄丸山古墳と、ほぼ同じ時代です。

面白いのは、二つの「その後」が対照的なことです。蛇行剣には仲間がいます。列島の各地から出土していて、それまでの最長記録が84.6センチでした。ところが七支刀と同じかたちのものは、日本にも、朝鮮半島にも、中国にも——一本も見つかっていません。作り方すら、いまだにはっきりしません。

4世紀の後半、海をはさんだ両側で、戦うためではない鉄の刃が同時につくられていた。それだけでも、当時の人にとって鉄がどういう存在だったかが伝わってきます。

⑥ 鏡400年の伝世が意味すること

次は鏡です。

「大陸の古い鏡を、家宝として代々伝え、最後は王の棺に納める」——実はこれ、富雄丸山が最初ではありません。

弥生の記事で紹介した、福岡の三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡。伊都国と奴国の王墓です。ここには、大量の前漢鏡が甕棺と一緒に納められていました。紀元前後の話です。

つまり北部九州の弥生の王たちは、すでに「大陸の鏡を抱いて眠る」ことをしていた。

この伝統は、古墳時代の畿内へそのまま引き継がれます。天理市の黒塚古墳には三角縁神獣鏡が33面、桜井茶臼山古墳にはなんと103面分以上。3世紀後半から4世紀の畿内では、大量の鏡とともに眠ることが、有力者の証だったのです。

そう並べると、富雄丸山の棺の中は少し変わっています。鏡は、たった3面。数では黒塚にも茶臼山にも遠く及びません。そのかわり、1面1面が大型で、最も古い1枚は400年伝わった骨董品。「たくさん配られた側」ではなく、「選び抜いた家宝を持つ側」なのです。

弥生の王墓から富雄丸山まで、およそ400年。奇しくも、2号鏡が伝世した長さと同じです。「海の向こうから来た鏡こそが最高の宝であり、死者に持たせるべきもの」という価値観が、その400年間、途切れずに続いていた。

そして400年伝世した2号鏡は、こう考えたくなります。この一族は、弥生時代から続く「海の道」の記憶を、モノとして相続していた家系なのではないか、と。

⑦ では、誰の墓なのか

ここで、この古墳の大きな矛盾に向き合います。

古墳時代、お墓のかたちには序列がありました。いちばん格が高いのが、鍵穴の形をした前方後円墳。円墳はその下です。

ところがこの古墳は、円墳でありながら日本一の大きさを持ち、中身は大王級。制服は二軍なのに、持ち物は一軍という状態です。

主人公が相当な人物だったことは、確かめられています。2026年1月、天理参考館が所蔵していた「富雄丸山出土と伝わる」三角縁神獣鏡3面が、科学分析によって本当にこの古墳の出土品だと確認されました。丘のてっぺん——主人公の墓の副葬品です。三角縁神獣鏡はヤマト王権が各地の有力者に配ったとされる鏡。それを複数持つのは、王権の重要人物の証です。

では、なぜ前方後円墳ではないのか。

素直に読むなら、血筋で王族なのではなく、実務の力で王権の中枢に食い込んだ一族。だから墓のかたちは王族の型を使えない。でも、モノだけは誰にも負けない。

その「実務」とは何だったのか。ここまでの話を並べると、答えは絞られてきます。

  • 半島からしか手に入らない鉄を、237センチ分も注ぎ込める
  • 大陸渡来の鏡を、何世代も相続している
  • 眠っている場所は、大和盆地の西の出入口、富雄川のほとり

弥生の記事で書いたとおり、当時の航海は命がけでした。船を仕立て、風と潮を読み、持衰(じさい)を乗せて海を渡る。それを仕切れる者、海の向こうと顔のつながった者は、王権にとってかけがえのない存在だったはずです。

海の道と鉄の調達を担った一族——それがこの古墳の主だった、というのが本記事の推理です。

そう考えると、造出しに眠るもう一人の意味も見えてきます。日本一の剣と世界に一つの盾形鏡は、どちらも魔を払う道具。それを持たされて、主人公を守る位置に葬られた人物。一族の祭祀——航海の安全を祈る役目——を担った人だったのかもしれません。

棺の中には竪櫛9点と水銀朱があり、「女性ではないか」と考える人もいます。ただ竪櫛は男女どちらにも副葬されるので、断定はできません。

⑧ 地図で確かめる——佐紀古墳群と、消えた河内湖

「海の道の一族」という推理を、今度は地図の上で確かめてみます。

大王の墓は、どこにあったか

大王クラスの墓がつくられた場所は、時代とともに動いています。

時期大王墓の造営地代表
3世紀〜4世紀前半奈良盆地の東南(纒向・大和古墳群)箸墓古墳
4世紀後半奈良盆地の北端(佐紀古墳群)五社神古墳ほか200m級がずらり
5世紀大阪平野(古市・百舌鳥古墳群)仁徳天皇陵古墳

日本で最初の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳は3世紀中頃〜後半。富雄丸山は、そこからおよそ100年後の古墳ということになります。※なお、大阪平野側でも同じ4世紀後半には津堂城山古墳など最初の大型古墳が動きはじめています。ある日きれいに引っ越したのではなく、中心がゆっくり西へ移っていく——その途中の風景だと思ってください

注目したいのが、富雄丸山と同じ4世紀後半の大王墓群——佐紀古墳群です。場所は今の平城宮跡の北側。富雄丸山からは、直線でわずか5〜6kmしか離れていません。

つまり富雄丸山は、辺境にぽつんと築かれた孤独な墓ではないのです。時の大王家の墓域の、目と鼻の先に、堂々と築かれた日本一の円墳。この立地そのものが、被葬者と王権の距離の近さを物語ります。

しかも位置に意味があります。佐紀は奈良盆地の北の要。富雄丸山はそこから西へ、大和から河内・大阪湾へと抜ける道筋にあたります。海の玄関口と都を結ぶ動線上です。

「西の出口」の先には、湖があった

もうひとつ、現代の地図では見えないものを。

4世紀の大阪平野には、河内湖(かわちこ)という大きな湖がありました。大阪城から天王寺へ続く上町台地が半島のように海へ突き出し、その東側——いまの東大阪や門真のあたり——が、まるごと水面だったのです。

画像出典:大阪湾環境データベース(近畿地方整備局神戸港湾空港技術調査事務所)CC BY 4.0Wikimedia Commons より引用

さかのぼれば縄文のころ、ここは海でした。生駒山のふもとまで船で乗り付けられた時代があり、その記憶は地名に残っています。東大阪の日下(くさか)——神武東征で、船団が上陸したと記される場所です。

やがて上町台地の北から砂州が伸びて湾の口をふさぎ、湖は淡水化。外海との出入口が一点に絞られると、港の機能もそこへ集中します。それが上町台地の北端、難波津(なにわづ)。ここを通らなければ、モノも人も大和へ入れません。

では湖から先、川をさかのぼって大和まで船で——とは、いきませんでした。当時の大和川は今と違い、柏原から北へ流れて河内湖に注いでいたのですが(現在の流路は江戸時代・1704年の付け替え工事によるもの)、柏原の上流に亀の瀬(かめのせ)という地すべりの難所があり、船は通れなかったのです。

では、4世紀の人はどうやって大和へ入ったのか。

山を越えたのです。

日下のあたりで船を降り、生駒山の峠道を歩いて越える。東側に降りれば、そこはもう富雄川・竜田川の谷です。

そして——その峠道の東の出口を見下ろす丘に、富雄丸山古墳は立っています。

海 → 難波津 → 河内湖 → 日下で上陸 → 生駒越え → 富雄。

大王は佐紀に。海を仕切る側近は、その陸揚げ口の正面に。——地形まで重ねると、この配置はますます偶然に見えなくなってきます。

⑨ この古墳の「30年後」

最後に、時計を少しだけ先に進めます。

富雄丸山古墳がつくられたのは4世紀後半。その直後の西暦400年、朝鮮半島で大事件が起きます。

高句麗の広開土王が大軍を南へ送り、倭軍と伽耶の勢力を叩いたのです。この一撃で、鉄の供給元だった金官伽耶——金海が傾きます。店は焼かれていないのに、客が来なくなった。あの話です。

そして国が傾いても、技術を持った人間は消えません。窯を築ける人、鉄を打てる人、馬を育てられる人。彼らは海を渡り、倭に受け入れられ、須恵器と馬と鍛冶の技術が一気に列島へ入ってきます。5世紀の技術革命です。

ここで、考えてみてほしいのです。

なぜ、それほど大規模な受け入れが可能だったのか。

答えのひとつが、富雄丸山の一族のような人々が、それまでに海の道を太く育てていたからではないでしょうか。

航路があり、港があり、顔見知りがいて、信用があった。だから5世紀の技術移転は「ゼロからの出会い」ではなく「長い付き合いの延長」として起きた。

この古墳に眠る人々が命がけで維持した道を、30年後、今度は人が渡ってきたわけです。

同じ5世紀、大王家の墓は佐紀を離れ、海の見える百舌鳥・古市へ移ります。日本書紀には「難波の堀江」という水路を掘ったという記録も現れます。ふさがりつつあった水の出口を、今度は人の手で掘り直したという話です。

ただし、この堀江そのものの遺構は見つかっていません。掘ったとされる場所は、のちに淀川の本流になってしまったからです。

その代わり、もっと確かな物証があります。

同じ5世紀の前半、上町台地の北端に、16棟もの巨大な高床倉庫が建てられました。法円坂遺跡です。倉庫は正確な東西方向にそろえて並び、総床面積は古墳時代最大。これほど大規模な倉庫群は、単なる集落の施設とは考えにくいものです。

港と、倉と、それを差配する権力。

難波が「王権の玄関口」になった証拠は、伝説のほうではなく、こちらの地面の下にあります。

海と半島との関わりは、もはや一部の有力者が担う仕事ではありません。

5世紀になると、それは王権そのものが握るべき、国家規模の仕事になっていったのです。

⑩ まとめ——3つの時代を、一本の道が貫いている

3行でまとめます。

  1. 富雄丸山古墳には、中国の鏡と半島の鉄が集まっていた。しかしかたちも祈りも列島のもの。「渡来人の墓」ではなく「渡来のモノが集まった墓」
  2. その正体は、弥生以来の「鉄の道」を担った一族の墓ではないか——というのが本記事の推理
  3. この一族が育てた道の先に、5世紀の技術移転が待っていた

そしてこの古墳は、「時代の境目」に立っています

最後にもうひとつだけ。古墳に納めるものは、時代によってがらりと変わります。

4世紀(前期)の主役は、銅鏡と、腕輪のかたちをした石製品。お祭りの道具です。ところが5世紀(中期)になると、甲冑と大量の鉄の矢じり、そして馬具が主役になります。

各地の首長をつなぎとめる手段が、「鏡を配る同盟」から「武具を配る同盟」へ変わっていったのです。※もちろん4世紀の古墳にも武器は納められていますから、ある日きれいに交代したわけではありません。重心がゆっくり移っていった、という話です

富雄丸山は、ちょうどその境目に立っています。

棺の中に納められたのは、400年伝わった家宝の鏡。棺の外に置かれたのは、振り回せば折れる2メートル37センチの鉄剣。祈りの道具でありながら、材料は鉄。

鏡の時代の終わりと、鉄の時代の始まりが、この一つの墓の中で重なっている。

そして甲冑と馬の時代がやってくれば、鉄はもっと、もっと要ります。だからこそ、この一族が育てた海の道は、5世紀にいよいよ王権の本業になっていったのでした。

発掘はまだ続いています。「謎の4世紀」の空白は、これからも少しずつ埋まっていくはずです。

【コラム】富雄という地名と、もう一人の天孫

※ここから先は考古学ではなく、神話と伝承の話です。証拠のない、純粋なロマン枠としてお楽しみください。

古墳のそばを流れる富雄川。この一帯は、古く「登美(とみ)」と呼ばれた土地とされています。

『古事記』『日本書紀』には、この地名を冠した人物、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)——長髄彦が登場します。神武天皇の東征に最後まで抵抗し、一度は撃退したとされる豪族です。

その長髄彦が仕えていたのが、饒速日命(ニギハヤヒ)。神武より先に天磐船に乗って天から降り、この大和の地にいた神とされています。

つまり神話の世界では、「天から来た者」が二系統あり、先に来ていた側が富雄の地にいたことになります。

海の向こうから人やモノが何度も渡ってきた——考古学が描く古代の実像と、この神話を重ねてみたくなるのは、深読みしすぎでしょうか。

妄想を、もう一歩だけ

ニギハヤヒに仕えた一族の系譜を引くとされたのが、物部氏です。ヤマト王権で軍事と祭祀を担い、王権の武器庫ともいえる石上神宮を管理しました。

そして石上神宮には、本文で登場した七支刀が今も伝わっています。

富雄の地にいたニギハヤヒ。
その子孫を名乗る物部氏。
王権の武器と、魔除けの力を持つ刀を守った一族。

——「戦うためだけではない鉄の刃」という本文の話と、妙に響き合ってきませんか。

もちろん、長髄彦やニギハヤヒと富雄丸山古墳を直接結びつける証拠はありません。あくまで神話と伝承の世界です。

それでも、どこか異質な存在感を持つ人物の伝承が残る土地に、巨大な蛇行剣が埋められていた。

証拠なんてなくても、想像したくなる。

歴史のロマンとは、たぶん、こういうところなんでしょうね😊

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵