以前、韓国の金海(キメ)にある国立金海博物館で、金官加耶(きんかんかや)という古代国家の展示をじっくり見てきました。鉄と焼き物で栄えた国です。
展示のなかに、金官加耶が力を失っていく場面がありました。栄えた港町が傾いていく話です。そこで金海の物語は終わったのだと、私はそのとき思っていました。
でも、終わっていなかったのです。
5世紀、日本列島に新しい技術が一気に入ってきます。焼き物、馬、鉄、金細工、そしてかまど。それまでの日本にはなかったものばかりです。
渡ってきた元をたどると、朝鮮半島の南に行き着きます。百済からも新羅からも人と技術が来ていますが、なかでも大きな役割を果たしたのが伽耶でした。倭からいちばん近く、弥生時代から鉄の取引で付き合いのあった相手です。
狗邪韓国とは? 弥生時代の日本と金海を結んだ海の玄関口「弥生時代」と聞くと、稲作、銅鐸、卑弥呼あたりが浮かびます。「金海(キメ)」と聞くと、韓国の空港がある街、くらいでしょうか。 この二つ、実はまったく別の話ではあ…
しかも技術者たちが根を下ろした場所のひとつが、大阪でした。須恵器のふるさとは堺、馬を育てていたのは河内。私が普段歩いている場所です。
なぜ5世紀に、技術が海を渡ってきたのか
ここからが本題です。
では、なぜ5世紀だったのでしょうか。
技術は勝手に海を渡りません。人が動くから、技術も動きます。そして人を動かしたのは、戦争でした。
きっかけは、高句麗の南下
4世紀の終わりごろ、朝鮮半島の北にあった高句麗という強国が、猛烈な勢いで南へ攻め下ってきます。
西暦400年、高句麗の広開土王(こうかいどおう)が大軍を送り、新羅を助けて、倭軍と伽耶の勢力を叩きました。この出来事は、広開土王の功績を刻んだ巨大な石碑に記録されています。
この一撃で最も大きな打撃を受けたのが、洛東江(ナクトンガン)の河口にあった金官加耶──いまの金海です。
ここで、ひとつ補足させてください。伽耶は「ひとつの国」ではありませんでした。洛東江の流域に散らばった小国の集まり──いわば商店街の組合のようなもので、そのときいちばん力のある国が「会長役」を務めていました。
4世紀まで、その会長役は金海の金官加耶です。海に開いた港町で、鉄を作って船で売る。要するにいちばん儲かっている店でした。
その店が、高句麗の一撃で傾きます。すると会長役は、内陸の高霊(コリョン)の大加耶へと移っていきました。海から遠く守りやすい土地であり、しかも鉄の産地でもあったからです。
伽耶は、海の国から山の国へと姿を変えました。
高句麗は遠いのに、なぜ金海が傾いたのか
地図を見ると、高句麗は半島の北。金海は南のいちばん端です。かなり離れています。高句麗軍が金海まで攻め込んで占領した、というわけではありません。
では、なぜ金海が最も打撃を受けたのか。
金官加耶は、鉄を売って栄えた港の国でした。生命線は軍隊ではなく、交易ルートです。
高句麗の南下は、このルートを断ちました。北へ売りに行く道は塞がれ、高句麗の後ろ盾を得た新羅が強くなって金海と敵対し、いちばんの得意先だった倭も軍事的に押されて動きが鈍る。
店は焼かれていないのに、客が来なくなった。
港町にとって、これは占領されるのと同じくらい致命的でした。
しかも新羅は、洛東江をはさんですぐ隣です。高句麗は遠い。でも高句麗が押し上げた新羅は、目と鼻の先にいる。
遠くの地震で、隣の家が倒れかかってきたわけです。
では、職人たちはどこへ行ったか
ここが大事なところです。
国が傾いても、技術を持った人間は消えません。窯を築ける人、鉄を打てる人、馬を育てられる人。彼らは、より安全で、自分たちを歓迎してくれる場所を探します。
そして目の前には、海を渡ればすぐの列島がありました。
倭の側も、彼らを積極的に受け入れました。当時の倭にとって、大陸の技術者は喉から手が出るほど欲しい存在です。土地を与え、集落を作らせ、仕事を任せました。
金官加耶の衰退と、倭の技術革命。この2つは、同じ出来事の裏と表なのです。
伽耶から届いた「五点セット」
ひとつ補足を。「渡ってきた技術=伽耶」とまとめてしまうと、少し雑になります。
ざっくり色分けすると、鉄・焼き物・馬具といったモノづくりは伽耶からの流れが太く、文字や仏教といったかたちのないものは百済から、という住み分けでした。この記事で扱う5つは、伽耶からの流れが中心になります。
さて、海を渡ってきた技術は、ひとつずつバラバラに来たのではありません。まとめて、セットで来ました。
ここが面白いところです。窯の技術だけが来ても、それを使う職人がいなければ意味がない。馬だけ連れてきても、飼い方を知らなければ死んでしまう。だから技術は「人ごと」渡ってきたのです。
大きく5つあります。
① 焼き物 ── 台所がひっくり返った
いちばん分かりやすいのがこれです。
それまでの日本の焼き物は土師器(はじき)といいます。地面に器を並べて薪をかぶせ、そのまま焼く。いわゆる野焼きです。
温度は800度くらいまでしか上がりません。空気がたっぷりある状態で焼けるので、粘土の鉄分が酸化して赤茶色になります。素焼きなので、水を入れるとじわじわ滲みます。
これに対して須恵器(すえき)は、まったく別の代物です。
斜面にトンネル状の窯を掘って、その中で焼く。1100度を超えます。しかも窯の口を絞って酸素を減らすので、鉄分が還元されて灰色になる。高温で焼き締まっているから、水が漏れません。
土鍋しかなかった台所に、いきなりステンレス鍋が届いたようなものです。
そしてこの窯の技術、朝鮮半島南部の陶質土器がそのまま起源です。つまり金海博物館に並んでいた、あの灰色の硬い焼き物。あれの兄弟が、日本で須恵器と呼ばれるようになりました。
② 馬 ── 弥生時代の日本に、馬はいませんでした
これ、意外と知られていません。
埴輪に馬が登場するのは5世紀からです。それ以前の日本列島に、乗るための馬はほとんどいませんでした。
しかも、馬だけ連れてきても飼えません。餌のこと、繁殖のこと、蹄の手入れ。全部わからないと死なせてしまいます。だから飼育の技術者ごと渡ってきました。
さらに馬具です。轡(くつわ・口にかませる金具)、鞍、鐙(あぶみ・足をかける輪)。これらを作る鍛冶の技術も一緒でした。
古墳に馬具が副葬されるようになるのは、「私は馬に乗れる身分である」という誇示です。当時、馬に乗れるというのは、いまでいえば自家用ジェットを持っているようなものでした。
③ 鉄 ── 買う側から、作る側へ
伽耶といえば鉄です。中国の史書にも、この地域の鉄を周辺の国々が買いに来たと記されています。
それまでの倭は、鉄鋌(てってい)という板状の鉄素材を伽耶から輸入していました。要するに材料を買ってきて、国内で加工していたわけです。
5世紀になると、鍛冶の技術そのものが入ってきます。買う側から、作る側へ。
その成果がいちばん見えるのが鎧です。
- 短甲(たんこう) ── 鉄板を鋲で留めた、固い胴鎧。歩兵向き
- 挂甲(けいこう) ── 小さな鉄板(小札・こざね)を紐で綴じた、柔らかい鎧。馬に乗るのに向く
短甲から挂甲へ。この変化は、戦い方が歩兵から騎馬へ移ったことをそのまま示しています。
④ 金細工 ── 古墳が光りはじめる
金銅(銅に金メッキ)の冠、垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)という揺れる耳飾り、飾履(しょくり)という金属製の靴。
それまでの日本の装身具は、勾玉や管玉など石が中心でした。そこへ、金色に輝く細工物が入ってきます。
この手の金細工は、新羅・百済・伽耶が得意としたものです。日本の古墳から出るものの中には、半島から持ち込まれたものと、日本で真似て作ったものが混ざっています。
⑤ かまど ── 家の中が変わった
地味ですが、暮らしへの影響はこれが最大かもしれません。
それまでの竪穴住居には、床の真ん中に炉がありました。穴を掘って火を焚くだけです。
そこへ、壁際に作り付けのかまどが入ってきます。煙突で煙を外に出せるので、室内が煙たくない。火力が安定するので、蒸すという調理法ができるようになります。
須恵器の甑(こしき・蒸し器)とセットで考えると、主食が「炊く」から「蒸す」に変わった可能性まで見えてきます。
まとめると、こういうことです。
| 分野 | 5世紀より前 | 渡来後 |
|---|---|---|
| 焼き物 | 土師器(野焼き・赤い・水が滲む) | 須恵器(窯焼き・灰色・水が漏れない) |
| 移動 | 馬がほぼいない | 馬と馬具が一式で登場 |
| 鉄 | 素材を輸入 | 国内で鍛冶ができる |
| 装身具 | 石や玉が中心 | 金銅の冠・耳飾り |
| 住まい | 床に炉 | 壁際に作り付けのかまど |
食べるもの、着るもの、移動の手段、戦い方。暮らしの土台がまるごと入れ替わったわけです。
その受け入れ口のひとつが、大阪でした
渡ってきた技術者たちは、どこに住み着いたのか。
入口は、ひとつではありませんでした。弥生時代から半島とつきあいのある北部九州はもちろん、若狭・敦賀・出雲・北陸といった日本海側の港にも、人とモノは入っています。糸魚川のヒスイが海を渡って半島の墓から出てくることを思えば、この道は行きも帰りも使われていたことがわかります。
そのうえで、大阪(河内)はヤマト王権の玄関口の一つだったため、とりわけ多くの技術者が集まり、濃い痕跡を残しました。
須恵器のふるさとは、堺です
日本最古にして最大の須恵器の生産地は、陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)といいます。場所は、堺市の南部から和泉丘陵にかけての一帯です。
5世紀のはじめ、ここに渡来した工人が窯を築きました。丘陵の斜面は窯を掘るのに向いていて、燃料の薪も、粘土もある。条件が揃っていたのです。
そしてここで焼かれた須恵器が、大和の王権を通じて全国へ配られていきました。日本の焼き物の歴史が、堺から始まったといっていい場所です。
昭和の泉北ニュータウン造成のときに、大規模な発掘が行われました。見つかった窯跡は千基を超えるといわれます。「陶器山」という地名や、「陶器(とうき)」の付く地名が残っているのは、その名残です。
馬を育てていたのは、河内でした
馬の方も大阪です。
大阪府の東部から南部にかけての河内地域は、古代の一大馬産地でした。四條畷市の蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)からは、5世紀の馬の骨がまとまって出土しています。馬を埋葬した跡まで見つかりました。
近くには渡来系の人々が暮らした集落の跡もあり、馬と技術者がセットで住んでいたことがわかります。
まとめると
金官加耶(現在の金海)が衰退すると、そこで培われた技術は、人とともに海を渡りました。その受け入れ先として、とりわけ多くの痕跡が残るのが、大阪の河内・和泉地域なんです。
金海 → 大阪 → 上野
伽耶の技術は、まず大阪に根を下ろした。そこで作られた須恵器や馬具が、各地の古墳に副葬された。そして掘り出されたそれらが、いま上野の東京国立博物館に並んでいる😊
金海で見たものの続きが大阪にあって、その結果が上野にある。
私にとっては、自分の住んでいる場所が物語の真ん中にあったという、ちょっと不思議な発見でした。
