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日本はなぜ中国のお金を使ったのか|皇朝十二銭と宋銭をわかりやすく

日本で最初に広く使われたお金は、708年の和同開珎(わどうかいちん)です。

ところが日本の国は、958年を最後に銭を作るのをやめてしまいます。次に本格的な国産の銭「寛永通宝」が登場するのは1636年。そのあいだ、およそ680年あります。

では、その間の日本人は何を使っていたのでしょうか。

答えは、中国のお金です。

この記事では、東京国立博物館で撮った実物の写真を並べながら、日本のお金の1000年を「作った→やめた→借りた→作り直した」の順にたどります。

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まず全体像:作った→やめた→借りた→作り直した

先に1枚の表で流れをつかんでおきましょう。

ステップ時期使われていたお金ひとことで
はじまり7世紀無文銀銭(銀の板)重さで量るお金
① 作った708〜958年和同開珎〜乾元大宝(皇朝十二銭)国がお金を作る
② やめた10世紀末〜12世紀米・絹・布銭が消える
③ 借りた12〜16世紀宋銭・明銭(中国の銭)よその国のお金を使う
④ 作り直した17世紀〜小判・丁銀・寛永通宝金・銀・銭の3本立て

表の②と③をあわせた約680年が、この記事の主役です。

※豊臣秀吉の時代に「天正通宝」などの銭が作られたこともありますが、ごく少量でした。ここでは「国が本格的に銭を発行しなかった期間」として約680年と数えています。

その前に:お金ってそもそも何?

お金は、みんなが「これには値打ちがある」と信じているから使える、いわば約束です。

1万円札の紙そのものに1万円の値打ちがあるわけではありませんよね。「国が1万円だと保証していて、みんなもそう信じている」から使えるのです。

この約束を、国が守りきれるかどうか。それが、日本のお金の1000年を読むカギになります。

お金のはじまりは「量る銀」だった|無文銀銭と富本銭

文字のない銀の板「無文銀銭」

無文銀銭
無文銀銭。(東京国立博物館・筆者撮影)

和同開珎より前、7世紀の日本には無文銀銭(むもんぎんせん)という銀の円板がありました。名前のとおり、文字も模様もありません。

博物館の説明によると、銀を直径3センチほど、重さ10グラムくらいに加工したもので、なかには銀の小さなかけらを貼りつけて重さを調整したものもあるそうです。

つまりこれは「1枚、2枚」と数えるお金ではなく、はかりに乗せて重さで値打ちを決めるお金。お肉の量り売りと同じ発想です。

数えるお金量るお金
値打ちの決め方枚数重さ
今でいうと硬貨・お札量り売り
この写真では富本銭・和同開珎無文銀銭

この「量る」というやり方は、900年以上あとの江戸時代にもう一度登場します。

数えるお金への挑戦「富本銭」

富本銭
富本銭。(東京国立博物館・筆者撮影)

同じケースに並んでいるのが、7世紀後半の銅の銭 富本銭(ふほんせん)です。

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡では、富本銭を作っていた工房の跡が見つかっています。『日本書紀』には683年に「これからは銅銭を使え、銀銭は使うな」という命令が出たと書かれていて、この銅銭が富本銭ではないかと考えられています。

ただし、富本銭が市場でどれだけ使われたのかは、今も意見が分かれています。

和同開珎──国がお金を「作る」と決めた708年

銅が見つかって、年号まで変えた

708年、武蔵国秩父郡(いまの埼玉県秩父市)から朝廷に銅が献上されました。朝廷は大喜びして、年号を「和銅」に改めます。そしてこの年、和同開珎が作られはじめました。

和同開珎(銅製と銀製)
和同開珎(左は銅製、右は銀製)。(東京国立博物館・筆者撮影)

写真の和同開珎は2枚あり、左は銅製、右は銀製です。和同開珎は、まず銀で作られ、そのあとで銅でも作られました。

ちなみに読み方は「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の2説があり、今も決着していません。博物館の英語のキャプションにも、2つの読み方が並べて書かれています。

本当に作っていた証拠「鋳型」

和同開珎の鋳型
和同開珎の鋳型(山口県下関市出土)。(東京国立博物館・筆者撮影)

こちらは和同開珎を作るための鋳型(いがた)のかけらです。土でできていて、溶かした銅を流しこむ丸いくぼみが並んでいるのが見えます。

出土したのは奈良から遠く離れた山口県下関市。銅の産地だった長門国(ながとのくに)にも、銭を作る役所が置かれていました。

「ためたら特典」で広めようとした

作ったお金は、使ってもらわなければ意味がありません。朝廷は711年、銭をためて差し出した人には位を与えるというルールまで作りました(蓄銭叙位令)。

今でいえば「新しいポイントカードを、ためたら特典つきで広める」ようなものです。ただ、みんながためこんで使わなくなる、という逆効果もあったといわれています。

奈良時代にもう偽金があった|開基勝宝と「10倍ルール」

日本で一番古い金貨

開基勝宝
開基勝宝。(東京国立博物館・筆者撮影)

金色にかがやく銭は開基勝宝(かいきしょうほう)。日本で一番古い金貨です。

博物館の説明パネルによると、『続日本紀』の760年の記事に、勝手に作られた銭(私鋳銭=偽金)が多いので、新しく銅・銀・金の3種類のお金を作った、と書かれています。

素材お金の名前値打ち
万年通宝10枚で銀銭1枚
太平元宝10枚で金銭1枚
開基勝宝いちばん上

和同開珎が生まれてからわずか50年ほどで、もう偽金が問題になっていたのです。銭を作る技術が広まれば、偽物を作れる人も増えるというわけです。

古いお金が一晩で10分の1に

このとき出た銅銭「万年通宝」は、1枚で和同開珎10枚分の値打ちとされました。

たとえば和同開珎を10枚ためていた人は、それが新しい銭1枚と同じ扱いになります。昨日まで財布に入っていたお金の値打ちが、一晩で10分の1になるようなものです。

こうなると、古いお金をためていた人ほど損をします。「国のお金を持っていても大丈夫なのかな」と、お金への信用が少しずつ削られていきました。

皇朝十二銭は小さくなり、958年に止まった

国が作った12種類の銭

皇朝十二銭
皇朝十二銭。(東京国立博物館・筆者撮影)

和同開珎から乾元大宝まで、国が作った12種類の銅銭をまとめて皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼びます。写真では12枚が輪になって並んでいます。

名前読み発行年前の銭から
1和同開珎わどうかいちん708年
2万年通宝まんねんつうほう760年52年
3神功開宝じんぐうかいほう765年5年
4隆平永宝りゅうへいえいほう796年31年
5富寿神宝ふじゅしんぽう818年22年
6承和昌宝じょうわしょうほう835年17年
7長年大宝ちょうねんたいほう848年13年
8饒益神宝じょうえきしんぽう859年11年
9貞観永宝じょうがんえいほう870年11年
10寛平大宝かんぴょうたいほう890年20年
11延喜通宝えんぎつうほう907年17年
12乾元大宝けんげんたいほう958年51年

右の列を眺めてみてください。平安時代に入ると、10〜20年ほどおきに新しい銭が出ています。新しい銭が出るたびに、古い銭の値打ちが下げられることもくり返されました。

だんだん小さく、質も落ちていった

実物を見ると、あとの時代の銭ほど小さくなっていきます。大まかにいうと、和同開珎は10円玉くらい、最後の乾元大宝は1円玉くらいの大きさです。

大きさだけではありません。銅が足りなくなり、あとの銭ほど鉛が多く混ぜられ、文字もつぶれて読みにくくなっていきます。

958年、国は銭を作るのをやめた

銭づくりが止まった理由は、ひとつではありません。

理由どういうことか
銅が足りない材料そのものが確保できない
信用がすり減った何度も値打ちを切り下げたので、みんなが信じなくなった
国の力が弱まった全国にお金を行きわたらせる仕組みが保てなくなった

ゲームのポイントが何度も10分の1に切り下げられたら、みんなポイントを集めるのをやめて、現物で取引しようと思いますよね。

同じことが起こりました。10世紀の終わりごろから、銭はほとんど使われなくなり、日本では米・絹・布が再びお金の代わりになっていきます。

12世紀、お経と一緒に埋めたのは中国の銭だった|宋銭

経塚から出てきた「中国のお金」

稲荷山経塚出土品。唐の開元通宝と銀塊・延金など(京都市伏見区出土)
稲荷山経塚出土品(京都市伏見区出土)。上の銭は唐の開元通宝で、宋銭と一緒に使われた中国の銭。(東京国立博物館・筆者撮影)

写真は、京都・伏見の稲荷山にある経塚(きょうづか)から出た、平安時代12世紀の品々です。

簪(かんざし)、水晶の数珠玉、薄くのばした金(延金)、銀のかたまり、短刀。そのなかに銭が並んでいます。この銭は開元通宝(かいげんつうほう)。中国・唐の時代のお金です。

経塚とは、仏教の教えがすたれる「末法」の世に備えて、お経を筒に入れて地中に埋めた場所のこと。お経と一緒に、大切なものも納められました。

経塚とは?56億7000万年後に宛てた手紙|末法思想と経筒平安時代の貴族たちが、山の頂上に穴を掘って、お経を埋めていました。 盗まれないように隠したのではありません。いつか掘り返すつもりでもありません。 宛先は、56億…

日本最後の銭と、中国の銭が同じ場所に

東京国立博物館には、同じ稲荷山経塚から出た宋(そう)の銭も収蔵されています。元豊通宝、元祐通宝、政和通宝。どれも中国・北宋のお金です(所蔵品の情報は文化遺産オンラインで見られます)。

さらに京都の花背別所経塚(はなせべっしょきょうづか)からは、乾元大宝と政和通宝が一緒に見つかっています。

乾元大宝は、さきほどの皇朝十二銭の最後の1枚。政和通宝は、それから150年ほどあとに中国で作られた銭です。

日本のお金が終わり、中国のお金に入れ替わっていく様子が、1つの経塚の中にそのまま埋まっているわけです。

なぜ中国のお金だったのか

中国の北宋(ほくそう)という王朝は、中国の歴史のなかでもいちばん多くの銭を作った国でした。その銭が、12世紀の後半ごろから、平清盛たちの日宋貿易などを通じて日本に入りはじめます

さらに13世紀の後半、中国の新しい王朝・元が紙のお金を中心にして銭を使うことを禁じたため、行き場を失った銭が大量に日本へ流れこみました(参考:日本銀行金融研究所 貨幣博物館「日本貨幣史」)。

自分の国でお金を作れないなら、みんなが信じているお金を借りてくるほうが早い。

今でも、自分の国のお金を作らずに、アメリカのドルをそのまま使っている国があります。中世の日本がやったのは、それと同じことです。

鎌倉時代になると、年貢を銭で納めることも広まり、中国の銭はすっかり日本の日常のお金になりました。

「宋銭」は中国のお金の代表選手

教科書では「宋銭」と習いますが、実際の財布の中身は、いろいろな時代の中国の銭が混ざっていました。

呼び名中身この記事で出てくるもの
渡来銭(とらいせん)中国などから来た銭の総称
宋銭宋の時代の銭。数がいちばん多い主役稲荷山経塚の元豊通宝など(東博所蔵)
唐の銭開元通宝など、もっと古い銭稲荷山経塚の開元通宝(写真)
明銭永楽通宝など。室町時代に加わる

当時の人は、王朝ごとに分けて使っていたわけではありません。写真の経塚でも、唐の銭と宋の銭が同じ場所に納められていました。「宋銭の時代」とは、宋銭を主役に、中国のお金をまるごと借りて使っていた時代のことなのです。

和同開珎のお手本が、500年後に日本で埋められた

ひとつおもしろいことがあります。写真の開元通宝は、唐で621年に作りはじめられた銭で、和同開珎のお手本になったお金です。

お手本だった銭が、500年ほどたって、今度は日本で「ふつうのお金」として使われ、経塚に納められていたのです。

借りたお金の弱点「撰銭(えりぜに)」

ただし、よその国のお金に頼ると困ることもあります。

室町時代になると、明の永楽通宝(えいらくつうほう)なども加わりますが、日本の中には欠けた銭、すり減った銭、国内で勝手にまねして作った銭(私鋳銭)がどんどん混ざっていきました。

すると、受け取る側が「この銭はイヤ、こっちの銭ならいい」と選ぶようになります。これが撰銭(えりぜに)です。

レジで「その硬貨は受け取れません」と言われるようなもので、これでは商売が止まってしまいます。そこで室町幕府や戦国大名は、どの銭を受け取るべきかを決める「撰銭令」を出しました。

自分でお金を作れない国は、お金のルールも自分で決めきれないのです。

中世には、壺いっぱいの銭を地中に埋めて保管することもありました。この「埋めたお金」の話は番外編で。

江戸で「金・銀・銭」の3本立てに|慶長の大判・小判・丁銀と寛永通宝

慶長大判(上)、慶長丁銀(左)、慶長小判(右)、寛永通宝(下)
慶長大判(上)、慶長丁銀(左)、慶長小判(右)、寛永通宝(下)。(東京国立博物館・筆者撮影)

1つのケースに、3種類のお金

この展示ケースには、江戸時代のお金がまとめて並んでいます。金の大判小判、銀の丁銀(ちょうぎん)、そして銅の寛永通宝(かんえいつうほう)です。

徳川家康は1601年に金貨と銀貨(慶長金銀)を整え、1636年には寛永通宝が作られます。958年から数えて約680年ぶりに、国(幕府)が作ったお金が全国をめぐる時代がやってきました。17世紀の後半には、中国の銭を使うことも禁じられていきます。

3つのお金は「数え方」がちがう

写真のお金慶長大判・慶長小判慶長丁銀寛永通宝
値打ちの決め方枚数で数える重さで量る枚数で数える
単位両・分・朱匁(もんめ)文(もん)
よく使われたところ江戸大坂庶民の毎日

金・銀・銭の交換レートは毎日のように変わり、両替商がそのあいだを取りもちました。財布に円とドルとユーロが同時に入っていて、毎日レートが変わる。江戸時代のお金は、そんなイメージです。

大判は「買い物用」ではなかった

いちばん大きな大判には、墨で「拾両(10両)」と書かれ、作った後藤家のサインが入っています。大判は日常の買い物に使うものではなく、贈り物やごほうびに使う特別なお金でした。

ふだんの大きな取引で使われたのは、手のひらにのる小判(1枚=1両)のほうです。

丁銀は「量る銀」──7世紀と一周した

左のナマコのような形のお金が丁銀です。形も重さもそろっていません。なぜなら、丁銀は重さを量って使うお金だからです。

ここで、記事のはじめに出てきた無文銀銭を思い出してください。7世紀の銀も、重さで量るお金でした。900年以上たって、銀はふたたび「量る」お金に戻ってきたのです。

「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」という言葉があります。武士の町・江戸は小判で数え、商人の町・大坂は銀の重さを量って商売をしていました。

小判も、皇朝十二銭と同じ道をたどった

写真の慶長小判は、東京都中央区の銀座6丁目から出土したものです。ちなみに「銀座」という地名は、江戸幕府の銀貨を作る役所がこの地にあったことに由来します。

この慶長小判は重さ約17.7グラム。ところが幕末の万延小判は約3.3グラムしかありません。幕府はお金が足りなくなるたびに小判を作り直し、金の量を減らしていきました。

小さくなって、質が落ちていく。平安時代の皇朝十二銭と同じことが、900年後にもう一度くり返されたのです。

まとめ:日本のお金の1000年を1枚の表で

時代お金キーワード
7世紀無文銀銭量る
708〜958年皇朝十二銭国が作る→すり減る
10世紀末〜米・絹・布銭が消える
12〜16世紀宋銭・明銭中国のお金を借りる
17世紀〜小判・丁銀・寛永通宝3本立て(銀はまた量る)

日本が中国のお金を使ったのは、国がお金の「約束」を守りきれなくなったから。そして、そのとき東アジアでいちばん信用されていたのが中国の銭だったからです。

博物館で見るときの3つのポイント

ポイント見るところ
① 皇朝十二銭は大きさを見るあとの銭ほど小さく、文字がつぶれていく
② 出土品の銭は名前を読む平安時代の出土品に、中国の銭が混ざっている
③ 金と銀は形を見る小判は形がそろい、丁銀はバラバラ=数えるか、量るか

1枚の銭の大きさや形に、その時代の国の力と、人びとがお金をどれだけ信じていたかが刻まれています。博物館でガラスケースの前に立ったら、ぜひ「このお金は、みんなに信じてもらえていたかな?」と想像してみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵