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神功皇后は新羅の子孫?天日槍から継体天皇へ、日本書紀の『新羅』の謎

『日本書紀』や『古事記』を読んでいると、ある国だけ、なんだか扱いが変だと気づきます。

新羅(しらぎ)です。

新羅は、倭にとって長いあいだ「敵」でした。ところが記紀では、その敵が、神話の最初のほうから顔を出します。しかも、大王家の血筋の中にまで入り込んでいるのです。

この記事は、証拠を並べる記事ではありません。「なぜ新羅だけ違うのか」を考える、推理の記事です。どこまでが書かれている事実で、どこからが推理なのかは、最後に表で仕分けします。

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まず、これだけ

同じ朝鮮半島の国でも、記紀の中での役どころは、国によってはっきり違います。

新羅百済加耶
記紀での役どころなのに、神話や王家の血筋に入り込んでいる友好国・味方「任那」として、倭の拠点のように書かれる
出てくる時代神話の時代から(スサノオ、国引き神話)主に4世紀後半以降の歴史記事伝説(ツヌガアラシト)と5〜6世紀の記事
つながる場所出雲・但馬・敦賀など日本海側北部九州からヤマト両方

敵のはずの国が、いちばん深いところに住んでいる。

この「引っかかり」を、ひとつずつ見ていきます。

神話に出てくる新羅

スサノオは、まず新羅に降りた

乱暴がすぎて高天原(たかまがはら)を追い出されたスサノオ。ふつうは、そのまま出雲に降りてヤマタノオロチを退治する話として知られています。

ところが『日本書紀』の別伝(一書)のひとつでは、スサノオは子の五十猛神(いたけるのかみ)を連れて、まず新羅の曽尸茂梨(そしもり)という場所に降りています。

そして「この地には住みたくない」と言い、土で船を作って、海を渡って出雲に着いた。

曽尸茂梨がどこなのかは分かっていません。でも、出雲の英雄神が、新羅を経由して出雲に来たという話が、国の正史に残っているのです。

出雲は、新羅から土地を引いてきた

『出雲国風土記』の国引き神話では、神さまが「出雲の国は小さい」と言って、海の向こうから綱で土地を引き寄せます。

その引き寄せた先のひとつが、「志羅紀(しらき)」の岬。新羅です。

百済は、神話に出てこない

倭にとっていちばん長い付き合いの味方は、百済でした。でもその百済は、記紀の神話にはまったく登場しません。

神話の時代から出てくる半島の国は、敵だった新羅のほうなのです。

天日槍から継体天皇へ──一本の線

ここからが、いちばん引っかかるところです。記紀に書かれた系譜や出来事を順に並べると、一本の線が見えてきます。

出来事どこに書かれているか
新羅の王子・天日槍が但馬に住む記紀
その子孫から、神功皇后の母が出る古事記
神功皇后が新羅を攻める(三韓征伐)記紀
その子・応神天皇が、敦賀の神と名前を交換する古事記、書紀の別伝
応神天皇の5世の孫・継体天皇が越前から迎えられる書紀、『上宮記』逸文

① ② 天日槍の子孫から、神功皇后の母が出る

『日本書紀』によると、垂仁天皇の時代に、新羅の王子・天日槍(アメノヒボコ)が、玉や小刀、鏡などの宝物を持って渡ってきました。

最初に着いたのは播磨。別の伝えでは、そこから宇治川をさかのぼって近江、若狭と移り歩き、最後は但馬(兵庫県北部)に住みついたとされます。『古事記』では、逃げた妻を追ってきたものの難波に入れず、但馬にとどまった、という話になっています。

いまも兵庫県豊岡市の出石神社(いずしじんじゃ)が、天日槍をまつっています。泥の海だった土地を切り開いて、田畑にしたという伝承も残ります。

『古事記』は、その子孫を何代もたどっています。そして最後に、葛城之高額比売(かずらきのたかぬかひめ)が、神功皇后の母だと書くのです。

つまり『古事記』の系譜では、神功皇后は、新羅から来た王子の血を引いていることになります。

③ 新羅の血を引く皇后が、新羅を攻める

その神功皇后が主人公になるのが、三韓征伐の物語です。

夫の仲哀天皇は「海の向こうの国を攻めよ」という神のお告げを信じず、急死します。そこで神功皇后が自ら軍を率いて海を渡り、新羅の王を降伏させた。それを聞いた百済や高句麗も従った、というお話です。

面白いのは、その出発の場面です。『日本書紀』によると、神功皇后は角鹿(つぬが)=敦賀の笥飯宮(けひのみや)から、日本海を西へ進んで九州に向かっています。日本海側から出発しているのです。

新羅の血を引く皇后が、日本海側から出発して、新羅を攻める。

なお、三韓征伐は史実とは考えられていません。4世紀後半に倭が半島で戦っていたことは広開土王碑などから分かりますが、この物語そのものは、のちの時代に作られた伝承です。

書紀は、神功皇后に卑弥呼を重ねていた

もうひとつ、見逃せない仕掛けがあります。

『日本書紀』の神功皇后の巻には、中国の『魏志』から、「倭の女王」が魏に使いを送った記事が注として引用されています。卑弥呼のことです。

『日本書紀』を編んだ人たちは、神功皇后の年代を、卑弥呼の時代に重ねていたのです。はっきり「同じ人物」とは書いていません。でも、読む人がそう受け取るように並べてあります。

④ 応神天皇、敦賀の神と名前を交換する

神功皇后の子が、応神天皇です。

『古事記』によると、まだ太子だった応神は、禊(みそぎ)のために敦賀を訪れます。すると夢に土地の神・イザサワケが現れ、「私の名と、あなたの名を取りかえたい」と言いました。太子はこれを受け入れます。

いまの敦賀の氣比神宮(けひじんぐう)は、この神をまつっています。

『日本書紀』もこの話を「ある伝え」として載せています。ただし、「どちらがもとの名だったのかは、はっきりしない」と、編者自身が首をかしげています。

同じ浦に、加耶の王子も着いている

『日本書紀』によると、加耶の王子ツヌガアラシトが着いたのも、この笥飯浦(けひのうら)でした。「敦賀」の地名の由来になった王子です。

加耶の王子が着いた浦。神功皇后が出発した宮。応神天皇が名前を交換した神。すべて、敦賀の「けひ」に集まっています。

天日槍とツヌガアラシトは、同じ話?

さらに引っかかることがあります。2人の王子の伝説が、そっくりなのです。

天日槍(古事記)ツヌガアラシト(書紀の別伝)
出身新羅意富加羅国(加耶)
妻との出会い赤い玉が娘に変わる白い石が娘に変わる
その後妻が逃げ、追って日本へ娘が逃げ、追って日本へ
妻が向かった先難波難波

玉(石)から生まれた娘が日本へ逃げ、それを王子が追いかける。どちらも、娘は難波の比売碁曽社(ひめこそしゃ)の神になったとされます。

そのため、もとは同じひとつの伝承が、「新羅」版と「加耶」版に分かれたのではないかという見方があります。

⑤ そして、応神天皇の5世の孫・継体天皇

507年、越前で育った男大迹王(おおどのおおきみ)が即位します。継体天皇です。

『日本書紀』は「応神天皇の5世の孫」とだけ書き、途中の名前を載せていません。その間をつなぐ系譜は、鎌倉時代の注釈書に引かれた『上宮記(じょうぐうき)』という古い本の逸文にだけ残っています。

継体天皇が育った越前は、敦賀のある国です。

並べると見える線と、その注意点

新羅の王子の子孫が皇后になり、その皇后が新羅を攻め、その子が敦賀の神と名を交わし、その子孫が越前から王になる。

こう並べると、日本海側と新羅方面のつながりが、大王家の物語の芯を通っているように見えます。

ただし、ここに並べたのは「書かれた系譜と物語」です。記紀は8世紀に、国の立場から編集された本です。系譜が本当の血のつながりを示しているとは限りません。「なぜ、こういう線を書いたのか」を考える材料として見てください。

新羅の側から見た倭

では、新羅の側の歴史書は、倭をどう書いているのでしょうか。12世紀に編まれた『三国史記』の新羅本紀を見てみます。

倭は「攻めてくる相手」だった

新羅本紀の前半には、倭が攻めてきたという記事がくり返し出てきます。海辺の村を襲い、城を囲む。新羅にとって倭は、長いあいだやっかいな敵でした。

それなのに、中にも倭人がいた

ところが同じ新羅本紀が、新羅の中枢にいた倭人の話も伝えています。

瓠公(ここう)──新羅の重臣になった倭人

新羅の始祖・赫居世(かくきょせい)に仕えた重臣瓠公は、もとは倭人だったと書かれています。瓢箪(ひょうたん)を腰にさげて海を渡ってきたので、この名で呼ばれたといいます。

脱解(だっかい)──海の向こうから来た王

新羅の第4代の王脱解は、多婆那国(たばなこく)の生まれとされます。箱に入れて海に流され、半島の東南岸に流れ着き、のちに王の娘婿となって王位につきました。

『三国史記』は、この多婆那国を、倭国の東北一千里にあると書きます。場所は分かっていませんが、候補のひとつが丹波です。ほかに但馬や、九州の玉名とする説もあります。

13世紀の『三国遺事』には、脱解が「うちの先祖は鍛冶屋だった」と名乗って屋敷を手に入れる話も伝わっています。

天日槍脱解
書いた側日本(『日本書紀』『古事記』)韓国(『三国史記』)
向き新羅 → 但馬多婆那国(丹波?)→ 新羅
何者か渡ってきた王子流れ着いて王になった

日本の本は「新羅から来た王子が但馬に住んだ」と語り、韓国の本は「丹波かもしれない国から来た人が新羅の王になった」と語る。同じ海のまわりで、向きだけが逆の話が残っているのです。

敵であり、身内でもある。

記紀が新羅を書くときと、鏡に映したように同じ形です。

倭の女王「卑弥乎」の使い

さらに新羅本紀には、173年のこととして、「倭の女王・卑弥乎(ひみこ)が使いを送ってきた」という記事があります。

中国の『魏志』倭人伝が伝える卑弥呼の遣使は239年なので、年代は合いません。新羅本紀の初期の記事は、年代の信頼度に問題があることも知られています。

それでも、新羅側の歴史書にも、倭の女王の名前が刻まれているのです。

2代目の王は「巫(みこ)」だった

そして新羅の2代目の王、南解次次雄(なんかいじじゆう)。この「次次雄(チャチャウン)」という呼び名について、『三国史記』は新羅の学者・金大問(きんだいもん)の説明を引いています。

次次雄は、新羅の言葉で巫(みこ)のこと」。神に仕えて祭りをつかさどる人を人々が畏れ敬い、尊い人をそう呼ぶようになった、というのです。

しかも南解次次雄は、始祖の廟の祭りを妹の阿老(あろう)に任せています。卑弥呼にも、政治を手伝うがいました。

祭りを担当政治を担当
新羅(南解次次雄)妹・阿老兄・次次雄
倭(卑弥呼)姉・卑弥呼

男女は逆ですが、きょうだいで「祈る役」と「治める役」を分ける形は同じです。

海のこちらにも向こうにも、「祈る王」がいた。

なぜ新羅だけ違うのか

ここからは推理です。考えられる理由を3つと、そもそもの注意をひとつ挙げます。

理由1・海でつながっていた(地理)

新羅がらみの伝説が、どこから入ってくるのか。地図の上に置いてみます。

伝説着いた・始まった場所その後に広がった場所
スサノオ(書紀の別伝)新羅 → 出雲子の五十猛神が木の種を植え、紀伊でまつられる
国引き神話出雲
天日槍播磨(書紀)/難波(古事記)宇治川 → 近江若狭但馬(書紀の別伝)
玉から生まれた娘(アカルヒメ)難波書紀の別伝では豊国(大分県)にも
神功皇后敦賀から出発穴門 → 北部九州 → 新羅へ
応神天皇の名前交換敦賀

入口の多くは、出雲・敦賀・若狭・但馬という日本海側です。

ただし「全部」ではありません。天日槍は『播磨国風土記』で土地の神と国を取り合っていますし、娘は難波へ逃げています。娘をまつる比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)は、いまも大阪市東成区にあります。

入口は日本海側に集まり、そこから瀬戸内や内陸へ広がっていく。

玄関の向きが違った

都のある場所玄関が向いていた海日本への主な道
百済半島の西側黄海半島の南岸 → 対馬 → 北部九州 → 瀬戸内 → 難波
加耶半島の南岸対馬の真向かいの海対馬 → 北部九州 → 瀬戸内 → 難波(いちばん近い)
新羅半島の東南(慶州)日本海海流に乗って、山陰・北陸へ

百済と加耶は表玄関(北部九州から瀬戸内)から、新羅は勝手口(日本海側)から入ってきやすかった。百済から来たとされる王仁(わに)の話が、難波や大和を舞台にするのはそのためです。

加耶も、おもには表玄関から来ました。でも、勝手口を使った記憶も残っています。『日本書紀』によると、加耶の王子ツヌガアラシトは穴門(関門海峡のあたり)まで来たあと、北の海を回って出雲を経て、敦賀に着いたのです。

もうひとつ、差し引いて考えたいこともあります。出雲は、そもそも神話の舞台になりやすい場所です。ヤマタノオロチも国譲りも出雲なので、「神話=日本海側」に見えやすい偏りは少しあります。

それを差し引いても、国ができるずっと前から、日本海側と新羅方面の人たちは行き来していた。その古い記憶が伝説に残り、記紀にも取り込まれた、という考え方です。

理由2・百済の目で書かれた(書き手)

『日本書紀』は、『百済記』『百済新撰』『百済本記』という百済の歴史書を何度も引用しています。

日韓古代史の史書ガイド|日本書紀・三国史記・三国遺事・百済三書の違いをわかりやすく古代の日本と朝鮮半島の話を読んでいると、いろいろな本の名前が出てきます。 『古事記』『日本書紀』『三国史記』『三国遺事』、そして『百済記』『百済新撰』『百済本記…

さらに、663年の白村江の戦いのあと、滅んだ百済から多くの人が日本に逃れてきました。その中には、朝廷で学問や法律を担当する役についた人もいます。

百済にとって、新羅は国を滅ぼした敵です。その目線が、記紀の新羅の書き方に入り込んだ可能性があります。

理由3・新羅を下に置きたかった(8世紀の事情)

『日本書紀』が完成したのは720年。そのころ新羅は、半島を統一した強い国になっていました。

日本は新羅を自分より下の国として扱おうとし、新羅はそれを認めない。両国の関係は、たびたびこじれていました。

だから物語の上では、「昔、神功皇后が新羅を従えた」という話が必要だった。でも、新羅と深く結びついた古い伝承は、消しきれずに残ってしまった。そういう見方です。

物語では下に置きたい。でも、古い記憶からは消せなかった。

注意・そもそも「新羅」とは誰のことか

最後に、ひとつ注意があります。

天日槍は「新羅の王子」とされますが、物語の舞台とされる時代には、まだ新羅という国はできていません。新羅が国としてまとまるのは4世紀ごろです。「新羅」という名前は、8世紀に『日本書紀』を編んだ人たちの地理感覚で付けられた可能性があります。

瓠公や脱解の話も同じです。紀元前1世紀とされる新羅の建国は、まだ伝説の時代の話です。

しかも、天日槍とそっくりな伝説を持つツヌガアラシトは、加耶の王子でした。

記紀の「新羅」は、一国の名前というより、半島東南部の人々をまとめて呼んだ名前だったのかもしれない。

そう考えると、「新羅だけ違う」の謎は、「半島東南部と日本海側のつながりが、記紀の中で『新羅』という名前に集められた」と言いかえられそうです。

事実と推理の仕分け表

分類内容
書かれている事実(その本にそう書いてある)書紀の別伝で、スサノオが新羅の曽尸茂梨に降りる
古事記で、天日槍の子孫が神功皇后の母とされる
書紀の神功皇后の巻に、『魏志』の倭の女王の記事が引用されている
応神天皇と敦賀の神の名前交換の話が、古事記と書紀にある
三国史記に、倭人の瓠公、倭の東北から来た脱解、卑弥乎の使いの記事がある
金大問が「次次雄は巫のこと」と説明している
確かめられないこと天日槍・神功皇后・瓠公・脱解が実在したか
記紀や上宮記の系譜が、本当の血のつながりを示しているか
史実ではないと考えられていること三韓征伐の物語そのもの
この記事の推理新羅だけ違うのは、地理・百済の目線・8世紀の政治事情が重なったから
天日槍とツヌガアラシトは、もとは同じ伝承だった
記紀の「新羅」は、加耶もふくむ半島東南部の人々を指していた

おわりに

記紀は、「日本はこういう国だ」と示すために8世紀に編まれた本です。だから、そのまま信じることはできません。

でも、消したかったはずのものが消えずに残っている場所には、もっと古い記憶が顔を出していることがあります。

敵のはずの新羅が、神話の入口にも、皇后の血筋にも、敦賀の浦にもいる。その「引っかかり」こそが、書いた人たちでさえ動かせなかった、海の向こうとの古いつながりなのかもしれません。

このあたりが気になった方へ

倭と朝鮮半島の関係がわかる300年|七支刀から白村江まで『倭が求めたもの』で整理古代の朝鮮半島の話は、ややこしいです。 高句麗、百済、新羅、加耶。4つの名前が出てきて、同盟したり裏切ったり、そこに倭まで首を突っ込む。年表を見ても、頭に入って…

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵