好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

藤原宮子と髪長姫伝説|聖武天皇の母は海女だったのか

聖武天皇の母、藤原宮子(ふじわらのみやこ)。

歴史の教科書にはほとんど出てこない人ですが、その人生には、ふたつの大きな謎があります。

ひとつは、生んだ息子に36年間も会えなかったこと。
もうひとつは、和歌山のお寺に伝わる「宮子は海女の娘だった」という伝説です。

ひとつめは、奈良時代の正式な歴史書に書かれた史実。
ふたつめは、お寺が語り継いできた伝説。

この記事では、そのふたつをきちんと分けながら、宮子という人をたどってみます。

AD – 読み進める前のひとやすみ

藤原宮子はどんな人?

まず、史料からわかることを整理します。

項目内容
藤原不比等
光明子(のちの光明皇后)
文武天皇
首皇子(のちの聖武天皇)
天皇家に入った年697年
息子を生んだ年701年
亡くなった年754年

宮子は、藤原不比等の娘として、文武天皇の妃になりました。
そして701年に生まれたのが、首皇子(おびとのみこ)、のちの聖武天皇です。

不比等にとって、宮子は藤原氏と天皇家を結ぶ、最初の架け橋でした。
宮子が生んだ男の子が天皇になれば、藤原氏は天皇の母方の家になる。不比等の計画の、まさに中心にいた人です。

息子に一度も会えなかった36年

ところが、宮子の人生は、ここから思いもよらない方向に進みます。

奈良時代の歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、宮子について、おおよそこう書かれています。

皇太夫人(宮子)は、深くふさぎこんだまま、長いあいだ人との関わりを絶っていた。天皇を生んでから、一度も会ったことがなかった。

息子を生んだあと、宮子は心を閉ざしてしまい、人前に出られなくなりました。
いまで言えば、産後のうつのような状態だったのではないか、とも考えられています。

生まれた首皇子は、母に抱かれることなく育ちます。
父の文武天皇は707年に若くして亡くなり、幼い首皇子は、父も母もそばにいない子ども時代を過ごしました。

宮子首皇子(聖武天皇)
701首皇子を生む誕生
707夫・文武天皇が亡くなる父を亡くす
724皇太夫人(天皇の母)になる天皇に即位
73736年ぶりに回復初めて母と対面
754亡くなる

息子が天皇になっても、母は会うことができない。
同じ都にいながら、ふたりの間には36年という時間が流れていました。

「天皇の母の呼び名」で起きたもめごと

宮子が天皇の母になった724年には、ちょっとした騒ぎも起きています。

聖武天皇は即位すると、母の宮子を「大夫人(だいぶにん)」と呼ぶように命じました。
ところが、左大臣の長屋王らが「法律で定められた呼び名とちがう」と異議を申し立てます。結局、呼び名は改められました。

小さな話に見えますが、藤原氏の娘である宮子の扱いをめぐって、長屋王と聖武天皇側が早くもぶつかっていたことがわかります。
この5年後に起きるのが、長屋王の変です。

長屋王の変と藤原四兄弟の死|天然痘は祟りだったのか729年、奈良の都で、ひとりの皇族が自ら命を絶ちました。天武天皇の孫で、政界のトップにいた長屋王(ながやおう)です。 妻と息子たちも、一緒に亡くなりました。 そ…

737年、玄昉が治した日

737年12月、ついにその日がやってきます。

唐で長く学び、2年前に帰国したばかりの僧、玄昉(げんぼう)が、宮子の看病にあたりました。
すると宮子は、霧が晴れるように心を取り戻したのです。

そしてその日、宮子は聖武天皇と対面しました。
母と子が顔を合わせたのは、息子が生まれてから初めてのことでした。

『続日本紀』は、このとき天下の人々が喜んだと記しています。

この年は、天然痘が大流行し、藤原四兄弟が次々に亡くなった年でもあります。
宮子にとっては兄弟を失った年に、息子と初めて会えた年でもありました。

玄昉は、このあと政治の表舞台へ

宮子を治した玄昉は、天皇家から厚い信頼を得て、政治にも大きな影響力を持つようになります。
それに反発した藤原広嗣(藤原四兄弟の宇合の息子)が、740年に九州で反乱を起こすことになります。

宮子の回復は、奈良時代の政治の流れまで変えていったのです。

和歌山・道成寺に伝わる「髪長姫」の物語

ここからは、伝説の話です。

和歌山県日高川町にある道成寺(どうじょうじ)。
「安珍・清姫」の物語で有名なお寺ですが、実はもうひとつ、このお寺が生まれた由来の物語があります。
それが、宮子を主人公にした「髪長姫(かみながひめ)」の伝説です。

道成寺は、701年に文武天皇が宮子の願いを受けて建てたと伝えられています。
その「宮子の願い」とは何だったのか。語り伝えられている物語の大筋は、こうです。

  1. 紀州の日高の海辺、「九海士(くあま)の里」に、海女の母をもつ娘がいた
  2. 娘には、生まれつき髪がまったく生えなかった
  3. ある日、母が海の底で光り輝く観音さまを見つけ、引き上げる
  4. その観音さまを拝み続けると、娘に長く美しい黒髪が生えてきた
  5. その髪の毛を、都でツバメ……ではなくスズメが巣に運び、それを藤原不比等が見つける
  6. 髪の持ち主を探させた結果、娘は都に召され、不比等の養女となって文武天皇の妃になった
  7. 故郷と観音さまを恋しく思う宮子のために、文武天皇が建てたのが道成寺

九海士の里は、いまの御坊市にあたる場所とされていて、御坊市では現在も「宮子姫」の物語が大切に語り継がれています。

実は、伝説にも「版」がある

おもしろいのは、この伝説にはいくつかのちがう形があることです。

語り伝えの版(宮子姫髪長譚)絵巻の版(道成寺宮子姫伝記)
宮はどんな娘?髪が生えない娘もともと美しい黒髪の海女
観音さまを見つけたのは?宮自身が、髪で包んで引き上げる
都に届いたのは?髪の毛スズメの巣が作れるほどの髪

同じお寺の物語なのに、語られるうちに少しずつ形が変わっていく。
伝説は「一度つくられたら終わり」ではなく、語り継がれながら育っていくものなのです。

「海女だった」説はどこから来たのか

では、宮子が海女の娘だったというのは、本当なのでしょうか。

結論から言うと、奈良時代の史料には、そのような記録はありません
『続日本紀』などでは、宮子は藤原不比等の実の娘として扱われています。一般的には、光明子の姉とされています。

髪長姫の話は、あくまで道成寺に伝わる伝承です。道成寺自身も、この言い伝えには賛否両論があり、宮子の人生にはいまも多くの謎が残されている、と紹介しています。

梅原猛『海人と天皇』

この伝説を「実は本当だったのでは?」と大胆に論じたのが、哲学者の梅原猛さんです。
1991年に出版された『海人と天皇』という本で、髪長姫の伝承が事実だったのではないか、という考察をおこないました。

「宮子は海女だった」と紹介されるときは、たいていこの本の考え方が元になっています。

ひとことで言うと
「宮子は海女の娘だった」は、お寺の伝説と、それをふくらませた一人の思想家の説。歴史学の定説ではありません。

かぐや姫のモデルは宮子?『竹取物語』とのつながり

宮子のまわりには、もうひとつよく語られる話があります。
それが『竹取物語』とのつながりです。

『竹取物語』は、平安時代のはじめごろに書かれた、日本でいちばん古い物語といわれています。
ただし、作者はわかっていません。だからこそ、「誰がモデルなのか」「誰が書いたのか」という推理が、昔から楽しまれてきました。

5人の求婚者には「モデル」がいる

かぐや姫に求婚する5人の貴公子には、実在のモデルがいるという説が、江戸時代からあります。

竹取物語の求婚者モデルとされる人物
石作皇子多治比嶋
くらもちの皇子藤原不比等
右大臣阿倍御主人阿倍御主人
大納言大伴御行大伴御行
中納言石上麻呂足石上麻呂

いずれも、700年前後の持統天皇・文武天皇の時代に実在した人たちです。
「くらもちの皇子」が不比等とされるのは、不比等の母が車持(くるまもち)氏の出身だったからです。

宮子の父・不比等が、かぐや姫に無理難題を出されて失敗する役として描かれている。そう思って読むと、物語がちょっとちがって見えてきます。

帝は文武天皇、かぐや姫は宮子?

求婚者が文武天皇の時代の人たちなら、物語の最後に登場する帝も、その時代の天皇=文武天皇と考えるのが自然です。

そうなると、帝に求められたかぐや姫は、文武天皇の妃になった宮子なのでは?と考えたくなります。
地方で見いだされた美しい娘が、都の帝に求められる。髪長姫の伝説と、たしかに筋はよく似ています。

実は、もっと古い天皇の名前が挙がることもあります。『古事記』には、垂仁天皇の妃として「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」という女性が登場するのです。しかもその一族には「讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)」という人がいて、竹取の翁の名前「讃岐造(さぬきのみやつこ)」とも重なります。
こちらは、モデルというより「名前の元ネタ」が『古事記』にあるのでは、という説です。

「3人の女性を合わせたモデル」という説も

さらにユニークなのが、薬学史の研究者・船山信次さんの説です。
かぐや姫のモデルは、宮子ひとりではなく、宮子・光明皇后・孝謙天皇の3人を合わせたものではないか、というのです。

そして作者の候補として名前を挙げているのが、吉備真備(きびのまきび)。
唐で長く学んだ学者で、宮子に仕える役所の長官を務め、光明皇后の信頼を得て、のちの孝謙天皇の先生にもなった人です。3人の女性すべてを近くで見ていた人物、というわけです。

ひとことで言うと
求婚者のモデル説は江戸時代から続く有名な説、かぐや姫=宮子や作者=吉備真備は、それをさらに広げた推理です。作者がわからない物語だからこそ、いろいろな読み方ができるのが『竹取物語』の楽しさです。

史実と伝説をどう見分けるか

最後に、宮子について語られる話を、確かさの順に並べてみます。

出どころ確かさ
36年間、息子に会えなかった『続日本紀』(奈良時代の正式な歴史書)史実
玄昉が治して、息子と対面した『続日本紀』史実
道成寺は宮子の願いで建てられた道成寺の縁起寺伝
海女の娘で、髪長姫と呼ばれた道成寺の縁起・絵巻伝説
伝説は事実だった梅原猛『海人と天皇』一人の思想家の説
かぐや姫の帝は文武天皇江戸時代以来の研究

参考にした資料

  • 『続日本紀』(宮子と聖武天皇の対面の記事)
  • 道成寺公式サイト「道成寺の物語」
  • 梅原猛『海人と天皇』朝日新聞社、1991年
  • 船山信次「天平時代の毒と薬」『薬史学雑誌』56巻1号、日本薬史学会、2021年(J-STAGEで読む

道成寺を訪ねるなら

道成寺は、和歌山県日高郡日高川町にあるお寺です。
「安珍・清姫」の物語で広く知られていますが、文武天皇の願いで建てられたと伝わる、和歌山県でいちばん古いお寺でもあります。

多くの人が安珍・清姫を目当てに訪れるお寺ですが、その始まりには、聖武天皇の母・宮子の物語があります。
訪ねるときは、ぜひもうひとつの「はじまりの物語」も思い出してみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵