729年、奈良の都で、ひとりの皇族が自ら命を絶ちました。
天武天皇の孫で、政界のトップにいた長屋王(ながやおう)です。
妻と息子たちも、一緒に亡くなりました。
それから8年後の737年。
この事件を主導したとされる藤原四兄弟が、わずか5か月のあいだに全員亡くなります。
人々はそれを「長屋王の祟り」と呼びました。
この記事では、聖武天皇が即位してまもない729年から737年まで、奈良時代でもっとも劇的な8年間を、系図と史料をたよりにたどります。
⤴︎ 聖武天皇とはどんな人?
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長屋王はどんな人?
| 項目 | 内容 |
|---|
| 父 | 高市皇子(天武天皇の長男) |
| 母 | 御名部皇女(天智天皇の娘) |
| 妻 | 吉備内親王(元明天皇の娘)、藤原長娥子(不比等の娘)ほか |
| 地位 | 721年 右大臣 → 724年 左大臣 |
| 亡くなった年 | 729年 |
長屋王は、天武天皇の孫です。
父の高市皇子は、壬申の乱で活躍し、のちに太政大臣にもなった人物でした。
720年に藤原不比等が亡くなると、長屋王は政界のトップに立ちます。
724年には左大臣となり、名実ともに朝廷の中心人物になりました。
729年、長屋王の変で何が起きたか
729年2月、ひとつの密告が朝廷に届きます。
「長屋王は、ひそかに呪いの術を学び、国家を傾けようとしている」
その夜のうちに、兵が長屋王の屋敷を取り囲みました。
兵を率いたのは、藤原四兄弟の三男・宇合(うまかい)です。
取り調べを受けた長屋王は、2日後に自害します。
妻の吉備内親王と、ふたりの間の息子たちも、あとを追って亡くなりました。
| 日付 | できごと |
|---|
| 729年2月 | 長屋王が呪いの術で国を傾けようとしていると密告される |
| 同じ夜 | 藤原宇合らの兵が屋敷を包囲 |
| 2日後 | 長屋王が自害。吉備内親王と息子たちも死去 |
| 同年8月 | 光明子が皇后になる |
密告からわずか数日。
政界のトップが、あっという間に消えてしまいました。
なぜ長屋王は狙われたのか
この事件を理解するカギは、長屋王の家族にあります。
ポイント1 息子たちは、聖武天皇の「いとこ」だった
長屋王の妻・吉備内親王は、元明天皇の娘で、文武天皇のきょうだいです。
つまり、長屋王と吉備内親王の息子たちは、聖武天皇のいとこにあたります。
しかも長屋王は、父方が天武天皇、母方が天智天皇の血を引いています。
その息子たちは、天皇家の血筋として申し分のない、天皇になってもおかしくない家でした。
ポイント2 聖武天皇の跡継ぎが、いなくなっていた
事件の前年、728年。
聖武天皇と光明子のあいだに生まれ、すぐに皇太子になった基王(もといおう)が、満1歳の誕生日を迎える前に亡くなりました。
聖武天皇には、跡を継ぐ男の子がいなくなったのです。
そうなると、次の天皇の候補として、長屋王の息子たちの存在が大きくなります。
藤原氏にとって、これは見過ごせない事態でした。
ポイント3 光明子を皇后にしたかった
藤原四兄弟には、もうひとつの目標がありました。
妹の光明子を、皇后にすることです。
当時、皇后になれるのは皇族の女性だけ。
皇后は、天皇が亡くなったときに位を継ぐこともありうる、とても重い地位だったからです。
藤原氏の娘を皇后にするという前例のない話に、皇族の代表である長屋王は、反対しそうな立場にいました。
実際、長屋王の変のわずか半年後に、光明子は皇后になっています。
決め手は、同じ長屋王の子の「その後」
系図でもうひとつ注目してほしいのが、長屋王のもうひとりの妻、藤原長娥子(ながこ)です。
長娥子は、藤原不比等の娘。四兄弟の姉妹にあたります。
長屋王の変では、吉備内親王の生んだ息子たちは亡くなりましたが、長娥子の生んだ息子たちは、罪を問われませんでした。
同じ長屋王の子なのに、藤原氏の血を引く子は助けられ、天皇家の血が濃い子は消された。
この差が、事件の本当のねらいを物語っているように見えます。
ひとことで言うと
長屋王の変は、「藤原氏の皇后」と「藤原氏の血を引く天皇」への道をひらくために、いちばん邪魔になる家を消した事件だった、と考えられています。
『続日本紀』自身が「うその密告」と書いている
長屋王は、本当に呪いの術を学んでいたのでしょうか。
答えは、奈良時代の正式な歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』そのものに書かれています。
事件から9年後の738年。
長屋王に仕えていた大伴子虫(おおとものこむし)という役人が、碁を打っている最中に、ある男と長屋王の話になって口論となり、その男を斬り殺してしまいます。
斬られたのは、中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)。
長屋王を密告した張本人でした。
『続日本紀』はこの人物を、長屋王のことを「誣告(ぶこく)」した人、つまりうその告げ口をした人、と書いています。
朝廷がつくった公式の歴史書が、「あの密告はうそだった」と認めているのです。
737年、四兄弟が5か月で全員死去
長屋王の変から8年後の737年。
今度は藤原四兄弟に、思いもよらない運命がふりかかります。
| 家 | 名前 | 立場 | 亡くなった月 |
|---|
| 北家 | 房前(ふささき) | 次男 | 4月 |
| 京家 | 麻呂(まろ) | 四男 | 7月 |
| 南家 | 武智麻呂(むちまろ) | 長男 | 7月 |
| 式家 | 宇合(うまかい) | 三男 | 8月 |
4月から8月まで、わずか5か月。
政権の中心にいた4人が、次々に亡くなりました。
長屋王の屋敷を兵で囲んだ宇合も、最後に亡くなっています。
天然痘の大流行と「祟り」の正体
原因は、国じゅうを襲った天然痘
四兄弟の命を奪ったのは、天然痘でした。
天然痘は九州から広がり、737年には都にまで達しました。
朝鮮半島との行き来を通じて持ちこまれたのではないか、と考えられています。
このときの流行では、都の貴族だけでなく、国じゅうの人々が倒れました。
当時の人口の3割前後が亡くなったという推計もあるほどです。
つまり、四兄弟だけが狙われたわけではありません。
国全体が、大きな疫病にのみこまれていたのです。
それでも「祟り」と言われた理由
それでも、人々はこれを長屋王と結びつけて考えました。
無実の罪で死に追いやられた皇族がいて、その事件にかかわった4人が、そろって亡くなった。
しかも、うその密告だったことは、やがて誰の目にも明らかになります。
平安時代のはじめにまとめられた仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』には、長屋王の骨を流した土地で人々が次々に亡くなった、という話も残されています。
長屋王は、「恨みを残して死んだ人」として語り継がれていったのです。
ひとことで言うと
四兄弟の死は、天然痘という疫病によるもので、暗殺でも祟りでもありません。でも、「無実の人を死なせた者が報いを受けた」と人々が感じるには、十分すぎる出来事でした。
その後の振り子
四兄弟がいなくなると、政治の振り子は、藤原氏から離れていきます。
| 年 | できごと |
|---|
| 737 | 藤原四兄弟が全員死去 |
| 738 | 橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に。唐帰りの玄昉・吉備真備を重用 |
| 740 | 宇合の息子・藤原広嗣が、玄昉と吉備真備を追い出せと九州で反乱 |
新しく政権の中心に立った橘諸兄は、実は光明皇后の異父兄です。
母の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)が、藤原不比等と再婚する前に生んだ子でした。
藤原氏ではないけれど、藤原氏とも無縁ではない。奈良時代の人間関係は、どこまでもからみあっています。
そして740年、父・宇合を失った藤原広嗣の反乱をきっかけに、聖武天皇は平城京を離れ、5年にわたって都を転々とすることになります。
長屋王の屋敷は、デパートの下から見つかった
最後に、長屋王の「その後」の話をひとつ。
1980年代の終わり、奈良市の中心部でデパートを建てる前の発掘調査がおこなわれました。
そこで見つかったのが、長屋王の屋敷の跡と、3万点をこえる大量の木簡(文字を書いた木の札)です。
木簡には、屋敷に届けられた食べ物や、働いていた人々のことが細かく記されていました。
なかには「長屋親王」と書かれたものもあり、長屋王が屋敷のなかでは「親王」、つまり天皇の子と同じ扱いで呼ばれていたこともわかっています。
1300年前に消された一家の暮らしが、地面の下に残っていたのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵