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廃仏毀釈とは?|神仏分離令から国宝が生まれるまで

日本のお寺には、1868年から数年のあいだに消えたものがたくさんあります。

仏像が壊され、経典が焼かれ、寺そのものが地図から消えた。「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と呼ばれる出来事です。

ただ、この話には誤解も多く広まっています。

「明治政府が仏像を壊せと命じた」──これは違います。
「全国どこでも同じように壊された」──これも違います。

この記事では、確認できる事実だけを並べて、何が起きたのかを整理します。そして最後に、少し意外な結末までたどります。

国宝という制度は、この破壊のあとに生まれたものです。

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まず、政府が命じたこと

すべての出発点は、慶応4年3月28日に出された命令です。

正式には神祇官事務局から出されたもので、神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)、通称「神仏分離令」と呼ばれます。

その前に、日付の話を少しだけ

この時代の日付は、二重にややこしくなっています。

ひとつめ。まだ「明治」ではありません。

明治への改元が決まったのは、この年の9月8日です。しかもそのとき、この年の1月1日までさかのぼって明治元年とすると決められました。だから資料では「明治元年3月28日」と書かれますが、当時の人は慶応4年として生きていました。

ふたつめ。この3月28日は旧暦です。

日本が新暦(西暦)に変わるのは1873年から。それ以前の日付をそのまま西暦のカレンダーに当てはめると、季節も順番もずれます。

西暦に直すと、こうなります。

旧暦西暦出来事
慶応4年3月14日1868年4月6日五箇条の御誓文
慶応4年3月28日1868年4月20日神仏判然令

この記事では、当時の呼び方に合わせて旧暦で書き、必要なところで西暦を添えます。

内容はこういうものでした。

命じられたこと
神社の名前に仏教用語を使っているものを報告すること
仏像をご神体としている神社は、その仏像を取り払うこと
本地仏(神社に置かれた仏像)を外すこと
鰐口・梵鐘といった仏具を取り外すこと

読んでいただくとわかりますが、「取り払え」「外せ」とは書いてあっても、「壊せ」「焼け」とはどこにも書かれていません。

政府の狙いは神道を国の宗教として立てることであり、神社と寺をきれいに分けることでした。分離であって、破壊ではなかった。

では、なぜ壊されたのか。

3日後、比叡山のふもとで

命令が出た3日後、慶応4年4月1日(西暦1868年4月23日)。滋賀県大津市の日吉大社(ひよしたいしゃ)で、最初の事件が起きます。

日吉大社は、比叡山延暦寺の鎮守社でした。長いあいだ、神と仏が同じ場所に同居してきた象徴のような場所です。

そこへ、武装した一団が入ります。

先導したのは樹下茂国(じゅげ しげくに)。日吉大社の社司であり、同時に政府の神祇事務局の事務掛でもあった人物です。京都・吉田神社配下の神官たちで結成された「神威隊」を率いて、社に踏み込みました。

社殿から仏像・仏具・経典が引き出され、破壊され、焼かれました。

ここで押さえておきたいのは、この事件の背景です。日吉大社は長く延暦寺の支配下にあり、僧侶のほうが神官より上の身分でした。樹下がそれを不満に思っていたと考えられています。

つまり、これは宗教政策であると同時に、それまで下に置かれていた側の反撃でもありました。廃仏毀釈が各地で激しくなった理由の、大きなひとつです。

政府はあわてて止めている

日吉大社などからの報告を受けて、政府は同じ年の4月10日(西暦5月2日)、あらためて命令を出します。

要約すると、こういう内容です。

私的な恨みを晴らすようなことをすれば揉め事になる。
穏やかに取り扱うこと。
仏具を取り除く場合も、その都度指示を受けること。
粗暴な振る舞いがあれば処罰する。

命令を出してから2週間足らずで、政府がブレーキを踏んでいます。

ここが、この出来事のいちばん重要なポイントかもしれません。破壊は「上からの命令」ではなく、命令をきっかけに地方で起きた運動でした。

だからこそ、地域によって起きたことがまったく違ってきます。

地域差が、とにかく極端

廃仏毀釈は、全国一律ではありませんでした。

激しかった地域起きたこと
薩摩藩(鹿児島・宮崎の一部)寺院が一つ残らず廃止
伊勢(三重)神宮のお膝元・宇治山田で196寺が閉鎖
松本藩(長野)多くの寺が廃寺に
苗木藩(岐阜)領内の寺が徹底的に排除された
富山藩寺院の大規模な統廃合
佐渡・隠岐離島でも徹底した廃仏

一方で、強く抵抗した地域もあります。

浄土真宗の信仰が根づいていた三河(愛知県東部)越前(福井県北部)では、廃仏の動きに反発する「護法一揆」が起きました。

そして、この2つのあいだに、ほとんど何も起きなかった地域が広がっています。

「全国で仏像が焼かれた」というイメージは、いちばん過激だった地域の光景から作られたものだ、という指摘があります。

「日吉から全国へ広がった」わけではない

ここで、よくある誤解をひとつ解いておきます。

日吉大社は最初の大規模な事件として知られていますが、そこから火が燃え広がるように全国へ伝播した、というものではありませんでした。

引き金は全国共通です。神仏判然令。

けれども、実際に破壊が起きるかどうかを決めたのは、その土地の事情でした。

破壊が激しくなった土地の条件
神官が僧侶より下の身分に置かれてきた不満が強かった
藩の財政が苦しく、寺の資産に手をつけたかった
藩主や地方官が、仏教を排する思想に傾いていた

つまり各地で、別々に、別のタイミングで起きています。

そのため、終わった時期もそろっていません。

地域時期
多くの地域明治4年(1871)頃に終息
薩摩1876年(明治9年)まで続いた
出羽三山宮司の着任が1873年9月。そこから始まった

出羽三山にいたっては、他の多くの地域が終わったころに始まっています。

「何年から何年まで」と一本の線で区切れる出来事ではない、ということです。

寺がゼロになった県

なかでも徹底していたのが薩摩藩でした。

幕末から1876年(明治9年)にかけて、藩内の寺院が一堂一宇も残さず壊されます。 2964人いた僧侶は、全員が還俗(僧をやめて一般人に戻ること)させられました。

寺は焼かれ、そこから金属が取り出されました。

島津家の菩提寺は、現在も廃寺のままです。

この影響は今も残っていて、鹿児島や宮崎では葬儀を神式で行う割合が他県より高いことが知られています。150年前の出来事が、いまの暮らしの形にまで残っているわけです。

どれだけ失われたのか──答えは「わからない」

廃仏毀釈で失われたものの総量は、正確にはわかっていません。

「全国の寺のおよそ半分が消えた」「数百万体の仏像が灰になった」といった数字を目にすることがありますが、これらは全国統計として確定したものではありません。

たとえば薩摩の寺の数ひとつとっても、資料によって1066寺とするものと1616寺とするものがあり、一致していません。

理由ははっきりしています。

壊した側が、記録も一緒に焼いてしまったからです。

鹿児島では、寺院・仏像・什物・過去帳・文献のほとんどが焼却され、現地調査が全国でもっとも難航する地域だと言われています。

何が失われたかを知るための手がかりごと、失われた。

数字を大きく書くほうが記事としては派手になりますが、わからないことは、わからないと書くべきだと考えています。

奈良で起きたこと

古い都でも、被害は出ています。

内山永久寺(奈良県天理市)

平安時代に創建され、「西の日光」とも称されるほどの大伽藍を誇った寺です。

廃寺となり、完全に消滅しました。 現在残っているのは池と、跡地を示す碑だけです。

興福寺(奈良市)

藤原氏の氏寺として1000年以上続いた大寺院も、無傷ではいられませんでした。

食堂(じきどう)が1875年に整理され、そして五重塔が、再生用の資材として当時価格25円で処分の対象になっていました。

いま国宝に指定されている塔に、材木としての値札がついた。

「薪にされかけた」という言い方で語られることもありますが、確実に言えるのは、あの塔が一度、資材として計算されたことがあるという事実です。

法隆寺が選んだ、生き延び方

ここで、少し違う対応をした寺があります。

法隆寺です。

1878年(明治11年)、法隆寺は寺宝300件あまりを皇室に献納しました。

古美術品としての価値を示すことで、寺と伽藍を守ろうとした、という経緯が伝えられています。

献納された宝物は、戦後に国へ移管されました。それが現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館に収められている「法隆寺献納宝物」です。

飛鳥時代の金銅仏、国宝の灌頂幡(かんじょうばん)、伎楽面──奈良で見られるはずのものが上野にあるのは、この時代の選択の結果です。

手放すことで、守った。

破壊の時代に、そういう身の処し方をした寺もありました。

そして、国宝が生まれる

ここからが、この話の意外な後半です。

破壊があまりに進んだことで、政府は逆方向に舵を切ります。

1871年 古器旧物保存方

日本で初めての、文化財保護に関する法令です。

古い器物は時代の移り変わりを知るために役立つのに、新しいものばかりを追う風潮によって失われ壊れていくのは惜しむべきことだ──そういう趣旨で、各地に保全を命じました。

破壊が始まってから、3年後のことです。

1872年 壬申検査(じんしんけんさ)

この布告を受けて、翌年、実際の調査が行われます。干支から「壬申検査」と呼ばれるものです。

奈良・京都・滋賀・三重などの古社寺をまわり、宝物を記録していきました。同年8月12日には正倉院を開封し、撮影・模写・拓本の採取を行っています。23日に閉じるまでの11日間の記録です。

総責任者は町田久成(まちだ ひさなり)。のちに初代の博物館長となる人物です。

そして、この町田久成は──薩摩藩の出身でした。

寺がひとつ残らず消えた土地から出た人間が、日本の文化財保護の最初の実務を担った。

1872年 東京国立博物館の始まり

同じ年の春、町田久成らは湯島聖堂で博覧会を開いています。これが東京国立博物館の始まりとされています。

つまり、日本の博物館は、壊れていくものを記録し、集めておくための場所として出発しました。

1897年 古社寺保存法

そして1897年(明治30年)、古社寺保存法が制定されます。

これが、国宝という制度の出発点です。

年表でたどる30年

眺めるだけでわかるように、並べておきます。

眺めるだけでわかるように、並べておきます。日付は当時の暦(旧暦)で、西暦を添えます。

出来事
慶応4年3月28日(1868年4月20日)神仏判然令(神仏分離令)
慶応4年4月1日(1868年4月23日)日吉大社で最初の破壊
慶応4年4月10日(1868年5月2日)政府が破壊を戒める令を出す
慶応4年9月8日(1868年10月23日)明治に改元。この年の1月にさかのぼって明治元年に
明治4年5月(1871年)古器旧物保存方(初の文化財保護令)
明治5年(1872年)壬申検査/正倉院開封/東京国立博物館の始まり
明治4年頃(1871年)多くの地域で終息。ただし地域差あり
明治6年(1873年)〜出羽三山では、ここから廃仏が始まる
明治9年(1876年)薩摩の廃仏が終わる
明治11年(1878年)法隆寺が宝物300件余を献納
明治30年(1897年)古社寺保存法=国宝制度の出発点

破壊の始まりから保護の法律まで、30年

まとめ

  • 神仏分離令は「分けろ」と命じたもので、「壊せ」とは命じていない
  • 出されたのは慶応4年3月28日。まだ明治ではなく、日付も旧暦(西暦では1868年4月20日)
  • 破壊は地方で起きた運動であり、政府は2週間足らずでブレーキを踏んでいる
  • 日吉から全国へ広がったのではなく、各地で別々に、別のタイミングで起きた
  • 激しさの地域差が極端で、薩摩では寺がゼロになった一方、ほとんど何も起きなかった地域も広い
  • 失われた総量は不明。記録ごと焼けたため、数字は資料によって食い違う
  • 興福寺の五重塔には資材25円の値がつき、内山永久寺は消滅した
  • 法隆寺は宝物を献納することで寺を守った
  • 国宝という制度は、この破壊への反省から生まれた

博物館のケースの中に並んでいる仏像を見るとき、頭の片隅に置いておきたいことがあります。

あれは、残ったものです。

同じ時代に作られ、同じように誰かが祈った像のうち、どれだけが残らなかったのかは、もう数えることができません。

ガラスの向こうにあるのは、生き延びた側です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵