東京国立博物館の敷地の、いちばん奥まったところに、水をたたえた池と静かな箱のような建物があります。
法隆寺宝物館です。
本館や平成館のにぎわいから少し離れているので、素通りしてしまう人も多い場所です。でも、ここは日本の古代美術のコレクションとして、正倉院宝物と並び称されるところです。
その正倉院と比べると、性格がはっきりします。
| 正倉院宝物 | 法隆寺献納宝物 | |
|---|---|---|
| 中心の時代 | 8世紀・奈良時代 | 7世紀・飛鳥時代 |
| ゆかりの人 | 聖武天皇 | 聖徳太子 |
| いまどこに | 奈良 | 東京・上野 |
| 見られるのは | 秋の正倉院展で、毎年一部だけ | ほぼ通年 |
つまり、こういうことです。
正倉院より100年古い。そのうえ、いつでも会える。
正倉院展のために奈良まで行って並ぶ、というイメージを持っている方ほど、この落差に驚くと思います。上野の奥に、それより古い宝物が、普通に開いている。
しかも、見方さえ決めておけば40分で回れます。
今日は、この建物をどう歩けばいいかを書きます。
なぜ、奈良のお寺の宝物が上野にあるのか
最初に、ここが引っかかると思います。法隆寺は奈良のお寺です。その宝物が、なぜ東京にあるのか。
1878年(明治11年)、法隆寺が300件あまりの宝物を皇室に献納したからです。
背景にあるのは、明治初めの廃仏毀釈です。神仏分離の流れの中で、全国で寺が壊され、仏像が薪にされ、経典が焼かれました。法隆寺も財政的に立ちゆかなくなっていました。
廃仏毀釈とは?|神仏分離令から国宝が生まれるまで日本のお寺には、1868年から数年のあいだに消えたものがたくさんあります。 仏像が壊され、経典が焼かれ、寺そのものが地図から消えた。「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく…
宝物を差し出して下賜金を得る。寺を守るための、苦渋の選択でした。
ただ、言い方を変えることもできます。
あの混乱の時代に東京へ来たから、これらは残った。
奈良に置かれたままだったら、失われていたかもしれません。
建物そのものが作品です
いまの建物は1999年、谷口吉生の設計です。
前面に水盤が広がり、ガラスの箱と石の箱が水平線を強調して並ぶ。中に入る前に、少し立ち止まって外観を眺める価値があります。
そして、豆知識をひとつ。
すぐ隣の東洋館を設計したのは、谷口吉郎。この人の父親です。
同じ敷地に、親子の建物が並んで建っています。東洋館を見てから宝物館に入ると、同じ日に親子の作品を続けて体験することになります。
ちなみに古い宝物館の時代は、作品保護のため公開が週に1日だけでした。いまの建物は保存の仕組みを高めたことで、週6日開けられるようになっています。建て替えたから見られるようになったわけです。
第2室が本丸──四十八体仏
この建物の中心は、第2室です。
暗い部屋に、ガラスケースが整然と並び、そのひとつひとつに金色の小さな仏が立っています。
飛鳥時代から奈良時代にかけて作られた小さな仏像の群像で、四十八体仏と呼ばれますが、実際は57体です。
高さは20〜40センチほど。ひとつずつは小さいのですが、それが並んだ光景は圧巻です。
仏像の種類そのもの(如来・菩薩・明王・天)についてはこちらで
【知識ゼロからの仏像①】如来・菩薩・明王・天——この4つがわかれば、お寺めぐりが変わるお寺や博物館で仏像の前に立って、「立派だなあ」で終わってしまう。私はずっとそうでした。 でも仏さまの世界には、4つの階層があります。これを知っているだけで、目の…
見るのは顔だけでいい
見るところは3つに絞れます。
| 見るところ | 何がわかるか |
|---|---|
| 顔が面長で、微笑んでいる | 古いグループ(飛鳥・7世紀前半) |
| 衣が左右に張り出している | 同じく古いグループ |
| 丸顔で、体に肉づきがある | 新しいグループ(白鳳・7世紀後半) |
つまり、こういうことです。
面長で微笑んでいたら古い。丸顔でふっくらしていたら新しい。
同じ部屋の中に、この2つのタイプが混ざっています。「古い顔」と「新しい顔」に分けながら歩くと、7〜8世紀の200年ぶんの変化が、目で追えます。
年表を覚える必要はありません。顔つきだけです。
日本の仏像の時代の見分け方は[仏像の時代の見分け方]に詳しく書きました。



なぜ、飛鳥の仏は面長で微笑むのか
ここで一歩踏み込みます。そもそも、なぜあの顔なのか。
答えは中国にあります。
7世紀前半の日本が手本にしたのは、中国の北魏という王朝の仏像でした。面長で、細身で、うっすら微笑み、衣が左右に張り出す。法隆寺の釈迦三尊像が、まさにその姿です。
そして北魏の仏像をさかのぼると、インドのガンダーラに行き着きます。さらにその先には、ギリシャ彫刻の技術があります。
| 場所 | そこで起きたこと |
|---|---|
| ガンダーラ | ギリシャの技術で、初めて仏を人の姿に |
| 中国・北魏 | 中国の役人の服に着替える。面長と微笑み |
| 朝鮮半島 | 三国時代の薄い金銅仏として伝わる |
| 日本・飛鳥 | この部屋の48体 |
目の前の小さな仏の顔は、地中海から歩いてきた道の、いちばん端にあります。
この道のりは[奈良の仁王像はギリシャから来た]にまとめました。


第1室:上を見てください
顔を見終わったら、同じ1階にある大きなものを見上げてください。
第1室には、灌頂幡(かんじょうばん)という7世紀の巨大な旗があります。国宝です。布ではなく、金銅を透かし彫りにした旗です。天人や唐草が細かく彫り抜かれ、暗い部屋に浮かび上がっています。
布で作るはずのものを、金属で作った。 消えないように作った旗です。
天蓋には天人が舞い、大幡の縁には忍冬唐草が透彫でめぐります。この忍冬唐草、もとをたどれば地中海の文様がシルクロードを渡ってきたものとされています。7世紀の斑鳩に、ギリシャの子孫が届いていたわけです。
誰が寄進したのか
『法隆寺資財帳』には、寄進者として「片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)」の名が見えます。ただ、この人物が誰なのかは、はっきりしていません。
ここから先は、確定していない話として読んでください。
聖徳太子には、片岡女王という娘がいたと『上宮聖徳法王帝説』に記されています。母は蘇我馬子の娘、刀自古郎女。山背大兄王の妹にあたります。
643年、蘇我入鹿が斑鳩宮を襲い、山背大兄王の一族は滅びました。ある伝承では、片岡女王もこのとき兄とともに命を絶ったとされます。
ところが、この「片岡御祖命」を片岡女王と同一人物とみる説があります。もしそうなら、彼女は一族が滅んだあとも生きていたことになる。
法隆寺は670年に焼けています。灌頂幡が作られたのは、その後の再建期。
一族を失い、寺が焼けるのも見て、それでも建て直された堂に、消えない旗を掛けた人がいた。
そう読むこともできる、という話です。証明はされていません。ただ、あの金色の透彫を見上げるとき、頭の片隅に置いておくと、見え方が少し変わります。
第3室:日本最古のお面(金・土のみの展示)
第3室は伎楽面(ぎがくめん)です。日本に現存する最古のお面が並びます。
伎楽は、仮面をつけて行う劇。『日本書紀』によれば、612年に百済の味摩之(みまし)が伝え、少年たちに習わせたとされます。
面を見ると、すぐ気づくことがあります。
どれも、日本人の顔ではありません。
鼻が高く、目が大きく、彫りが深い。ペルシャ人やインド人を思わせるものもあります。
シルクロードを行き来した人々の顔が、そのまま面になって、奈良まで届いている。しかも運んできたのは百済です。
半島の仏教美術については[朝鮮半島の仏像の見分け方]で書きました。
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第5室:ペガサスが彫られた水差し
第5室は金工品です。ここで一点だけ、必ず見てほしいものがあります。
竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)です。
注ぎ口が龍の頭になった、細身の水差し。それ自体が優美なのですが、驚くのは胴の部分です。
翼のある馬が線で刻まれています。ペガサスです。
ギリシャ神話の翼の馬が、7世紀の日本の宝物の表面にいる。[奈良の仁王像はギリシャから来た]と、まったく同じ道を通ってきたものです。
中2階:デジタル法隆寺宝物館
1階と2階のあいだに、もうひとつ部屋があります。
材質が脆くて常時展示できない宝物を、デジタル技術と復元模造で
見られる部屋です。2026年3月に中身が一新されました。
触れる壁と、めくれる本があります。
- デジタルウォール ── 立体の複製に実際に触れられ、高精細画像を
拡大して細部まで追えます - デジタルブック ── 江戸時代の”図録”をめくって読めます
そしてここの静かな主役が、復元模造です。
本館の展示室に並ぶ本物は、1300年を経て色が落ちています。復元模造は、作られた当時の色を再現したもの。同じものの「今」と「はじまり」が、この建物の中に両方あるわけです。
暗い展示室で褪せた本物を見たあと、ここで元の色を見る。逆に、先にここで色を見てから展示室に降りてもいい。どちらの順でも、片方だけ 見るより確実に景色が増えます。
展示替えがあるので、何の復元模造が出ているかは行ってからのお楽しみです。
