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日本と朝鮮の近代年表|開国から日韓併合まで、世界史と横並びで見る70年

日本の開国が1854年、朝鮮の開国が1876年。その差は22年です。

同じ時期に、同じ西洋列強の圧力を受けた二つの国が、片方は列強の側に回り、もう片方は併合されました。この70年に何が起きていたのかを、世界の動きと横に並べて眺めてみます。

人物や思想の評価はいったん脇に置いて、まずは「いつ・何が起きたか」だけを地図のように見ていく記事です。

① 1840年、東アジアの「屋根」が壊れた

19世紀の東アジアには、清(中国)を中心とした国際秩序がありました。冊封体制と呼ばれるもので、周辺国は清を上位に立てる代わりに、その権威に守られていました。朝鮮も、その一員です。

この屋根が壊れたのが1840年のアヘン戦争でした。

清がイギリスに敗れ、香港を割譲し、不平等条約を結ばされる。「東アジアで一番強い国」が西洋の艦隊にあっさり屈したという知らせは、日本にも朝鮮にも届きました。

屋根が壊れたあと、雨は全員に降りかかります。違ったのは、それぞれの家が雨をどう受けたかでした。

不平等条約とは何か
治外法権(外国人が罪を犯しても、その国の法律で裁けない)②関税自主権の喪失(輸入品にかける税率を自分で決められない)③片務的最恵国待遇(相手にだけ有利な条件が自動で適用される)。この三点セットが、19世紀にアジア諸国が押し付けられた条約の基本形です。日本も朝鮮も、まずこれを飲まされました。

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② 横並び年表

第1期・1840〜1875年 ── 衝撃が届くまで

世界日本朝鮮
1840〜42アヘン戦争(南京条約)
1853ペリー来航
1854日米和親条約(開国)
1856〜60アロー戦争(北京条約)
1858日米修好通商条約(不平等)
1860英仏軍が北京占領
1860ロシアが沿海州を獲得ロシアと国境を接する
1861〜65南北戦争(アメリカの内戦)
1863高宗が即位・大院君の摂政
1866ジェネラル・シャーマン号事件/丙寅洋擾(仏艦隊)
1868明治維新
1871ドイツ帝国成立日清修好条規(対等条約)辛未洋擾(米艦隊)/斥和碑を建てる
1873征韓論争で政府が分裂大院君が引退、閔氏政権へ
1875樺太・千島交換条約江華島事件

この30年で決定的だったのは1860年です。ロシアが清から沿海州を得たことで、朝鮮は突然ロシアと地続きの隣国になりました。以後の朝鮮半島は、清・ロシア・日本の三つの力が直接ぶつかる場所になります。

日本は海に囲まれていて、この時点で陸続きの大国と接していません。この地理の差は、最後まで効き続けます。

第2期・1876〜1893年 ── 開国と、清との綱引き

世界日本朝鮮
1876江華島条約(日朝修好条規・不平等条約)
1877インド帝国成立西南戦争
1879琉球処分(沖縄県設置)
1882独墺伊 三国同盟壬午軍乱 → 清が介入、済物浦条約
1884ベルリン会議(アフリカ分割)甲申政変(3日で失敗)
1885内閣制度発足巨文島事件(英が巨文島を占領)
1885天津条約(日清・出兵時は事前通告)清へ連行されていた大院君が帰国
1889大日本帝国憲法発布

江華島条約の中身は、日本が1858年にアメリカから押し付けられた条約とほぼ同じ構造でした。治外法権があり、関税自主権がない。開国を迫られて泣いた国が、22年後に同じ手で隣国に開国を迫ったという形になります。

この時期の朝鮮は、日本より清の影響下にありました。壬午軍乱でも甲申政変でも、事態を収めたのは清軍です。一方の日本は、まず自国の体制を固める段階でした。

第3期・1894〜1897年 ── 日清戦争という分岐点

年月世界日本朝鮮
1894.2東学農民運動が起きる
1894.6天津条約を根拠に出兵清に援軍を要請、清軍が上陸
1894.7日英通商航海条約(治外法権の撤廃に成功)日本軍が王宮を占領、大院君の第3次政権
1894.7〜95.4日清戦争(下関条約)甲午改革が始まる
1894.12農民軍が牛金峙の戦いで壊滅
1895.4下関条約(清が朝鮮の独立を承認)冊封体制から離脱
1895.4三国干渉(露独仏)遼東半島を返還
1895.10乙未事変(閔妃殺害)
1896.2俄館播遷(高宗がロシア公使館へ)
1897.10大韓帝国を宣言、高宗が皇帝に

1894年7月は、日本にとって象徴的な月でした。同じ月に、日本はイギリスとの条約改正(治外法権の撤廃)に成功し、そして日清戦争に踏み切っています。「不平等条約を押し付けられる側」から抜け出す歩みと、「押し付ける側」へと立場を変えていく歩みが、同時に進んでいました。

一方、下関条約で清の宗主権が消えたことは、朝鮮にとって独立の獲得であると同時に、それまで外からの風を防いできた屋根を失うことでもありました。

三国干渉 ── 10年後の戦争の引き金
下関条約のわずか6日後、ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を勧告し、日本はこれに従いました。ここから2本の線が伸びます。

1本は朝鮮へ。「日本は列強に逆らえない」と読んだ閔妃がロシアに接近し、その半年後に乙未事変が起きました。

もう1本は日本へ。「臥薪嘗胆」を合言葉に軍備拡張が始まり、ロシアは日本が返させられた遼東半島の旅順・大連を租借します。この延長線上で、1904年に日露戦争が始まりました。
ロシアの南下:1860年の沿海州 → 1898年の旅順 → 1900年の満州

第4期・1898〜1910年 ── 日露戦争から併合へ

年月世界日本朝鮮(大韓帝国)
1898米西戦争と列強の中国分割ロシアが旅順・大連を租借毒茶事件
1900義和団事件・8か国連合軍出兵。ロシアが満州を占領
1902.1日英同盟
1904.2〜05.9日露戦争(ポーツマス条約)日韓議定書を強要される
1904.8第1次日韓協約(顧問政治)
1905.7桂・タフト協定(米が承認)
1905.8第2次日英同盟(英が承認)
1905.9ポーツマス条約(露が承認)
1905.11乙巳条約(外交権の移譲)→ 統監府設置
1907.6ハーグ密使事件
1907.7英露協商(三国協商が成立)高宗が退位、純宗が即位/第3次日韓協約
1907.8軍隊が解散させられる → 義兵闘争が激化
1909.10安重根が伊藤博文を射殺
1910.8日韓併合条約

1905年に何が起きたか
7月にアメリカ、8月にイギリス、9月にロシア。わずか3か月のあいだに、日本は当時の主要国すべてから「韓国における日本の優越的地位」を外交文書で承認させました。11月の乙巳条約は、その承認がすべて揃ったあとに結ばれています。

大韓帝国が国際社会に訴える窓口は、条約が結ばれる前にすでに閉じていました。1907年のハーグ密使が会議への参加すら認められなかったのは、この結果です。

③ 結果を分けた三つの条件

同じ雨に打たれながら、なぜ結果が違ったのか。よく挙げられるのは次の三点です。置かれた条件の差として整理できます。

日本朝鮮
時間1854年に開国。準備に22年多く使えた1876年に開国。すでに列強が出そろっていた
地理海に囲まれ、陸続きの大国がいない清・ロシア・日本の力が直接ぶつかる位置
内政幕府が倒れ、中央集権政府に一本化大院君・閔氏・開化派が分裂したまま

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵