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大院君と閔妃(明成皇后)の22年|朝鮮王朝最後の権力闘争

1866年、興宣大院君(フンソンテウォングン)は、息子・高宗の妃に「後ろ盾のない家の娘」を選びました。外戚に権力を渡さないための、慎重な人選でした。ところが、その娘こそが、大院君にとって生涯最大の敵・閔妃となります。

義父と嫁。この二人が22年にわたって繰り広げた権力闘争は、やがて朝鮮という国そのものを飲み込んでいきました。

この時代を描いたドラマや映画は数多くありますが、観ているうちに「今、誰と誰が手を組んでいるの?」と混乱しがちです。清、日本、ロシアと、味方も敵も次々に入れ替わっていくからです。

この記事では、その22年間の流れを四つの場面に分けて、分かりやすく整理します。

二人の早見表

興宣大院君閔妃(ミンビ)
生没年1820〜1898(満77歳)1851〜1895(満43歳)
立場高宗(コジョン)の実の父高宗の妃
権力の源「王の父」という立場閔氏一族を役職に送り込む
外交の方針鎖国を守る開国。清→日本→ロシアと乗り換える
最期病死。ただし孤独な晩年日本人に殺害される

※ 韓国では現在「明成皇后」と呼ぶのが一般的です。この記事では、彼女が皇后と呼ばれるようになる1897年より前の出来事を扱うため、当時の呼称にあたる「閔妃」を使っています。

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① 1866年、大院君が選んだ嫁

大院君が政権を握るまで、朝鮮王朝は60年間、王妃の実家に乗っ取られていました。安東金氏(アンドンキムシ)による勢道政治です。だから息子の嫁を選ぶとき、条件はたった一つ。

「実家が力を持てない家から選ぶこと」

選ばれたのは、驪興閔氏(ヨフンミンシ)の娘。父はすでに亡く、朝廷で出世しそうな男兄弟もいない、家柄はいいけれど落ちぶれた家。しかも大院君の妻と同じ一族なので、身元も確かです。※ 閔妃は小説やドラマで「閔慈暎(ミン・ジャヨン)」と呼ばれますが、この名前は史料に出てきません。

婚礼は1866年3月。高宗は満13歳、閔妃は満14歳でした。
※韓国の資料では「15歳と16歳」と書かれることが多いのですが、これは数え年です。この記事では満年齢で統一します。

ところが、閔妃は書物を好み、政治への関心が人一倍強い人でした。義父のやり方に疑問を持った彼女は、閔氏一族の人材を少しずつ朝廷に送り込み、静かに自分の派閥を育てていきます。

火事を防ぐために、一番燃えにくい木を選んだつもりが、その木から火が燃え広がってしまいました。

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② 四つのラウンド

22年の戦いは、大きく四つの局面に分けられます。まず全体像から。

勝ったのは決着をつけたもの
第1ラウンド1873年閔妃朝鮮国内の世論
第2ラウンド1882年閔妃(一度は敗北)清の軍隊
第3ラウンド1894年大院君日本の軍隊
最終ラウンド1895年大院君日本の軍隊

第1ラウンド・1873年 ── 閔妃が義父を引退させる

満21歳になった高宗が、親政(自分で政治を行うこと)を宣言しました。

きっかけは一通の上奏文です。儒学者・崔益鉉(チェ・イッキョン)が大院君の政治を厳しく批判する文書を提出し、これを口実に高宗が「もう父の助けは要らない」と宣言。大院君は表舞台から降りることになりました。

裏で崔益鉉を動かしたのが閔妃だったといわれます。義父の完敗、閔氏政権の誕生です。

そしてこの一戦だけは、外国が一切関わっていません。

第2ラウンド・1882年 ── 大院君が「閔妃の死」を宣言する

9年後、大院君に思わぬ形で順番が回ってきます。

給料の遅配と差別的な待遇に耐えかねた旧式軍隊の兵士たちが反乱を起こしました。壬午軍乱(イモグンラン)です。兵士たちは閔氏一族の屋敷を襲撃し、王宮にまでなだれ込みました。

閔妃は宮女の服に着替えて宮殿を脱出し、地方に身を隠します。

反乱兵に担ぎ出された大院君が復権。そして彼が最初にやったのが、閔妃の国葬を宣言することでした。遺体もないまま、王妃は「死んだこと」にされ、偽の葬儀まで執り行われます。

しかしここで清が動きました。清軍が介入して反乱を鎮圧し、大院君を天津へ連行。そのまま保定府に幽閉します(帰国できたのは3年後の1885年)。

約2か月後、閔妃は生きたまま宮殿に戻りました。

2人の対決とは別に、1884年には、甲申政変(カプシンチョンビョン)が起こります。

金玉均(キム・オクキュン)ら開化派は、日本の支援を受けて急進的な近代化を目指し、郵政局開設祝賀会をきっかけにクーデターを決行。閔氏政権の重臣を殺害して新政権樹立を宣言しました。

しかし、朝鮮に駐留していた清軍の介入によってわずか3日で崩壊金玉均は日本へ亡命しましたが、1894年に上海で暗殺されました。

第3ラウンド・1894年 ── 大院君が日本と組んで返り咲く

朝鮮南部で東学党の乱(東学農民運動/甲午農民戦争)が起き、その混乱に乗じて日本軍が王宮を占領しました。日本が新政権の看板として担ぎ出したのが、幽閉から戻っていた大院君です。

3度目の政権。しかも彼はここで、驚くべき計画に手をつけます。

息子である高宗を退位させ、孫の李埈鎔(イ・ジュニョン/永宣君)を王位に就けるというものでした。

しかし日本側と方針が合わず、約4か月で再び排除されます。日本にとって大院君は、あくまで一時的な看板でしかありませんでした。

最終ラウンド・1895年 ── 乙未事変

日清戦争に勝った日本が朝鮮での主導権を握った直後、ロシア・ドイツ・フランスの圧力に屈して遼東半島を清に返す出来事がありました(三国干渉)。

閔妃はこれを見逃しませんでした。

「日本は思ったより弱い。頼るならロシアだ」

彼女はロシアに接近する方針へ切り替えます。日本にとっては、戦争で手に入れた立場を王妃一人にひっくり返されかねない事態でした。

そして1895年10月8日未明。

乙未事変(ウルミサビョン)
日本公使・三浦梧楼(みうらごろう)の主導で、日本人の壮士・軍人・領事館員らが王宮の景福宮に乱入。乾清宮で閔妃を殺害し、遺体を焼却しました。日本側は関係者48名を本国に送還して裁判にかけましたが、証拠不十分として全員が免訴(裁判打ち切り)となっています。一国の王宮で外国の公使が主導して王妃を殺害するという前代未聞の事件で、当時の欧米メディアからも厳しく批判されました。

この朝、大院君は日本側に担がれて、再び宮中に姿を現していました。生き残ったのは大院君でした。

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③ 勝敗を決めたのは、いつも外国だった

四つのラウンドを並べると、あることに気づきます。

  • 1873年 ── 決着をつけたのは、朝鮮国内の世論
  • 1882年 ── 決着をつけたのは、清軍
  • 1894年 ── 決着をつけたのは、日本軍
  • 1895年 ── 決着をつけたのは、日本軍

2度目からは、勝敗を決めるのが常に外国の軍隊になっています。

義父と嫁が相手を倒すために外国の力を借り、借りるたびにその外国が宮殿の奥まで入り込んでくる。国内の争いを国内で決められなくなった国は、もう独立国とは呼べません。

亡国への道は、外から攻められて始まったのではなく、この22年の内輪もめの中で少しずつ出来上がっていきました。

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④ 二人が消えたあとの宮廷

閔妃が暗殺され、身の危険を感じた高宗は、翌1896年2月、ロシア公使館に避難しました。これを俄館播遷(アグァンパチョン)といいます。

1897年、高宗はロシア公使館から戻って国号を「大韓帝国」と改め、皇帝に即位。このとき閔妃は明成皇后(ミョンソンファンフ)と追諡され、正式な皇后として葬られました。

(備考)呼び名の変遷

  • 1895年10月8日 殺害される
  • 1895年10月10日 庶人に降格(日本の圧力下の親日内閣による)
  • 1895年内 嬪 → 王后へ復位
  • 1897年1月 諡号「明成」を贈られる → 明成王后
  • 1897年10月12日 大韓帝国宣言に伴い → 明成皇后

1898年2月、大院君が満77歳で世を去ります。

大院君は死の床で、息子である高宗が来るのを待ち続けたと伝えられます。しかし高宗は最後まで姿を見せませんでした。妻を殺した側に立った父を、息子は許さなかったのです。──ただしこの逸話は正史ではなく、後年の記録(『梅泉野録』など)に伝わるものです。

そして同じ年の秋、宮廷でもう一つの事件が起きます。

1898年・毒茶事件
流刑になった元ロシア語通訳官が、自分を罰した高宗を恨み、料理人を買収してアヘン入りのコーヒーで皇帝と皇太子を毒殺しようとした事件です。高宗は異変に気づいて吐き出しましたが、皇太子(のちの純宗)は飲み込んでしまい、歯が抜け落ちるなど生涯にわたる健康被害を負ったとされます。

まとめ

1866大院君が「後ろ盾のない家」から嫁を選ぶ
1873閔妃が大院君を引退に追い込む(国内決着)
1882壬午軍乱。大院君が復権するも清軍が拉致
1894日本軍が大院君を担ぎ出す(約4か月)
1895乙未事変。閔妃殺害
1897明成皇后と追諡される
1898大院君、満77歳で死去

外戚に国を乗っ取られる悲劇を二度と繰り返すまい――。

そう願って慎重に選んだ王妃は、やがて大院君と激しく対立し、その争いは宮廷だけでは収まらなくなります。

外国勢力までも王宮の奥深くへ引き込んでいったその結末は、歴史の皮肉というには、あまりにも大きすぎる代償でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵